2014年08月11日

『真珠の耳飾りの少女』芸術の本質を描いた映画のあらすじと解説

曖昧さに潜む官能



評価:★★★★★ 5.0 = Heaven's in Here

フェルメールの名画「青いターバンの少女=真珠の耳飾りの少女」の印象から、空想された原作小説を映画化した作品。
<真珠の耳飾りの少女あらすじ>
1660年代、オランダ。少女グリート(スカーレット・ヨハンソン)は、画家ヨハネス・フェルメール(コリン・ファース)の家で住み込みの下女となる。嫉妬深い妻と多くの子供達の世話をするため、朝から晩まで仕事に追われる毎日。ある日、美的感覚の鋭さをフェルメールに認められたグリートは、絵の具の調合の仕事を任され、弟子として画家に想像力を与えるようになる。主人と使用人としての距離を保ちつつも、次第にお互いが本能で理解しあえる運命の相手だと気づくふたり。フェルメールの妻カタリーナは彼らの関係に嫉妬し、パトロンのファン・ライフェンは狡猾な策略をめぐらせる。彼の挑発に乗せられる形で、フェルメールは、グリートをモデルに絵を描くことになるのだが……
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(イギリス/2002年/100分/監督ピーター・ウェーバー/脚本オリヴィア・ヘトリード/原作トレイシー・シュヴァリエ)



しかしこの映画の語る物語は、リアリティに満ちているように感じられる。
それは、ひとえにデティールの丹念な造り込みが、効果を発揮したがゆえの結果だったろう。

この映画の17世紀のオランダ風俗や、街路の佇まいが真に迫った描写を見せ、さらに何よりも、その光のたたえた曖昧さがこの作品を傑作にしたと思っている。

欧州の光と言うのは、ほんとに乏しく寂しいという。
オランダの様に緯度が高くなれば尚更で、夏は夜遅く10頃まで明るいとはいうものの、その光線量は薄く刷いたようなものだ。
その結果、野菜が育たないか硬い野菜しかないため、必然的に食物は牛豚など動物性たんぱく質が主体となる。
余談だが、体格の大きさとタンパク質の摂取量というのは比例するが、ヨーロッパを北上するにつれ平均身長が高くなっていくのは野菜が取れない分、動物性たんぱく質の摂取量が多くなるためであるという。

そんな乏しい陽光の中だからこそ、その幽かな光線を再現しえたからこそ、この映画の中のフェルメールの絵の持つ「光」が燦然と輝き、真実を映す力を持ちえたと思うのである。

この曖昧な「光」について、かつて賛辞を惜しまなかった日本の小説家がいた。
耽美小説家、谷崎潤一郎その人である。
彼はその随筆「陰影礼賛」で「日本の美は陰影の中にあり」といい、また、「日本人の黄色い肌は薄暗がりの中でこそ映える」と書いた・・・・・それは一種西洋に対する日本文化の賛美と解すべき文章である。

しかし「陰影礼賛」に述べられた主張は、ことさら東西文明の対比としてのみ言及されるには、惜しい考察であると思えてならない。

この陰影とも、薄明とも、曖昧さとも言うべき、どこか不明瞭な「光と対象物」の関係が「美」というものの本質ではないかと思えるのだ。

例えばこの映画は、優柔不断と言っていいほど不明瞭なイメージにあふれている。
物語の語り口としての不明瞭さ、謎をイメージさせるテーマ曲、画家の性格設定、画家とモデルの少女の関係、シークエンスの裁断のタイミング、そして真珠の耳飾りの輝き、などなど・・・・

しかし、これは意図的に選らばれた話法であり効果であるだろう。

たぶんこの選択は、芸術家が作品を生み出す際の世界の在り様を描こうとするときに、必要な道具立てであったのだ。
つまり、世界というものが複雑にして混沌の中で解釈を待つ者として存在するとき、真の芸術家であれば手探りで、恐る恐る、臆病なほどの繊細さを持って、自らの内に創造されるイメージを作らざるを得ない。

なぜなら、世界とは万物を内包し成立しているのであるから、どれほど傲慢で無知な者であろうと、その世界が人智によって全て汲み出せる対象ではないと知れるはずである。
いわんや芸術家という自らのイメージを外部に形成する事に四苦八苦している、鋭敏な感性を持つ人々にしてみれば、つまるところ人が出来る事は曖昧で広大な世界の一部にハイライトを当て、その一部なりとも切り取るより他に無いと実感せざるを得ないであろう。

そして、この映画の主人公「フェルメール」も芸術家の振える感性をもって「世界」と対峙した。

ここで言う「世界」は絵画のモデルを務めた「少女」である。

この少女の内にある世界、一個の独立宇宙の輝きに魅せられた画家は、この少女を描きついにはモデルをして「心まで、お描きなさった」という作品を、この少女の中から切り出しそして永遠に封じ込めた。

どんな人物も、他の世界と同じく千変万化するには違いないが、とくに女性における思春期とは特別の力を持つものに違いない。
女性としての肉体的完成を見つつも、バージニティ=処女性を保持しているという、この状態は母という母性からも、出産が不可能な女性前期の少女たちとも隔絶した、一種特権的力を保持することを意味する。

それゆえ聖母マリアの如く、ある神聖な記号として存在し、認識されてきたのである。
この映画の中で、画家の娘と、画家の妻が、揃ってこの少女に敵愾心を燃やすのは、この年代に対する嫉妬と羨望に他なるまい。

そしてまた、思春期の少女達は聖なる存在であると同時に、また俗な存在でもある。
少女の中に欲望の焔を見出した画家は、自らの少女に持った欲望をテコにして、少女の中の魂の官能を呼び覚ます。
あたかも「恋」であるかのように・・・・・

画家はその気になれば彼女との間に、男女の関係を結ぶ事もできた。
しかし画家は、少女に好意を明瞭に示しながらも、実際の関係には至らない。
なるほど、エキセントリックな妻女の存在を慮ったという見方もあるには違いない。
だが、この画家が意図したのは「モデル」の中から全てを汲み出すために、「恋」という人間関係の中で最も曖昧で不明瞭な、しかしそれゆえ相互を強く求める状態を作り出すことで「モデルの官能性」を極限まで抽出する事だったろう。
かりにこの少女がその「官能」を現実に満たしてしまえば、その表情から何者かを失うに違いない。

この画家は、少女の内包する世界を十分知悉していたがゆえに、狡猾なまでに周到な手練手管を使いこのモデルから、その「神聖と官能」を汲み尽くしたのである。

それはたとえば、その少女の「官能」を現実的に満たす以上に、少女の耳に穴を穿つ代替行為の方が、よりお互いの「官能」を持続的により昂らせる結果になると知った上で、少女に施術したことでも明らかである。

結局、この画家は自らの芸術のために、この「少女」の「純情=恋」を捧げさせた。

そして、その全ては不明瞭な、曖昧な状態の、カオスの中でこそ、大きく滴るがごとき「果実」となったのである。

これを、例えば強い陽光の光と影しかないような世界で可能であったかと問うてみれば、やはり「陰影」の中でこそ可能な成果だったであろう。

それゆえ「陰影」という曖昧な光に映し出された不分明な世界の姿こそは、あらゆる文化に共通の「美の揺籃」であると思うのである。

それゆえ谷崎潤一郎がこの映画を見て、どういう感慨を持つのか、ぜひ聞いてみたいと夢想した。


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posted by ヒラヒ・S at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | イギリス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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