2014年08月14日

ハート・ロッカー

戦争の彼岸



評価:★★★★★ 5.0

ベトナム戦争以前と、以後で戦争の進め方を根本的に変えてしまった、ある要素がある。
それは、戦争の映像資料が飛躍的に増大したという現実である。

これは軍関係の撮影者に限らず、各種メディアが圧倒的な物量で戦場を撮りまくり、TVなど電波を通じて放送され続けたことによる。
アメリカ軍がベトナムで負けた原因の一つだという説も、まんざら有り得ない話ではない位、戦争の悲惨な実態が露になって厭戦の流れを決定的にした。

なるほど、それ以前の戦争は一種密室状態で、戦場の真実は前線の兵士しか知らず、またその兵士たちも戦場の具体的な体験をあえて言及はしたがらないという現実の中で、為政者が国家のために必要な戦いだと国民に向かって呼びかければ、犠牲を払っている国民は犠牲が大きければ大きいほど、戦争に勝つまで困難を耐え忍ぶに違いない。

しかし、ベトナム戦争の時はジョンソン大統領がアメリカの正義をいかに主張しても、日々流れる戦場の陰惨で、非人道的な現実が嫌でも目に入ってしまいアメリカ国民の戦意を保てなかった。

結局、どれほど偉大で高邁な理想を掲げた所で、戦場の下卑た現実が露見してしまえば、人間は戦争それ自体に忌避感を持つのだという、自明の理を証明したにすぎない。

それゆえ、第一次湾岸戦争においては厳しい報道管制・検閲がアメリカ国防省によって成されたのは、ベトナムの二の舞を未然に防ごうという表われである。
しかし、第一次第二次湾岸戦争とも、政府がどれほど情報を制限しようと、インターネット・ネットワークと情報機器の進化は、すでにアメリカが総力を挙げて阻止しようとしても、コントロール不可能な状況になってしまった。
それは、情報が既に一人立ちして、誰かの手で統制できない怪物にまで育ってしまったことを意味するのだろう。

そしてまた、ありとあらゆるメディア機器によって記録された戦争・戦闘映像を見るうちに、人々にある種の視覚的な同調性をもたらす事となった。

すなわち、戦争のリアルなドキュメントタッチの映像として、いくつかの特徴を現代人は無意識のうちに手にしている。
それは、画質の悪い映像であったり、手持ち撮影であったり、一台のカメラがカットなしで撮影し続けるシークエンスであったり、走査線の走るモニター映像であったり、小型CCDの画像であったりする。

いずれにしても、現代では、視覚的映像イメージとは実際の肉眼で入ってくる情報よりも、メディアを通した情報イメージの方が圧倒的に多く、従って現在の「リアルな視覚体験」とは映像機器を通した画像こそ、真実=リアリティを持つものであろう。

いずれにしてもこの映画は、特に戦闘場面でこのドキュメントタッチの映像リアリティを効果的に使用し、戦争の生々しい現実と観客が思えるように上手く撮影されていると感じた。
これは、一つには資金的な問題として、限られた安い資材で撮影をしなければならなかったという事情を、逆手に取ったものであったのではないかと想像する。
しかし、映像表現に力があるのであれば素直に賞賛すべきことだろう。

そしてこの「リアルな視覚体験」によって、語られるストーリーもまた一種変形した戦争である。

例えばこの映画の主人公は、冒頭のテロップで流れるように「戦争中毒者」であり、戦争の危険を自ら求めて、故意に危険度を高める方向にすら行動する。

例えば、過去の戦争映画でも、戦争の影響によって精神的に異常をきたす主人公は居たが、しかし、それは明らかに現実生活を営めないほどの異常であり、それは戦争という過酷な現状で大きな傷を負った個人の象徴であった。

しかし、この映画の主人公はどうだろう。

この主人公をして異常者とは言えまい。

彼は確かに、喫煙者がニコチンを欲しがる如く「危険」を欲して止まないかもしれない。

しかし、例えば「タクシードライバー」の主人公のように、また「ランボー」のように、一般社会で狂気に陥るほどの精神的崩壊をしていないのは、帰国した家庭生活を退屈しつつも受け入れている点からも明らかだ。
また、彼の性格も破綻者として描かれていないのは、イラクの少年に対する情動や、人間爆弾とされたイラク人に対する言動から、読みとれる。

だとすれば、この主人公の意味する「危険中毒」とは何か。
単純化して言えば、この主人公は例えばカーレーサーや冒険家の如く、精神的にコントロール可能な状態で「危険=リスク」を、楽しんでいるのだとしか思えない。

こう考えてきて始めて、真に異常な「モノ」が何だったのか気づかされる。

それは、アメリカにとって現代の「戦争」が、誤解を恐れずに言うが、一種スポーツと同等の「危険」でしかないという事実だ。

これは、かつて、命がけで相手を倒してきた戦争から比べて、本当に異常な状態だと言わねばならない。

例えば過去の戦争は、ベトナム戦争も含めて、まだ人間同士の戦いだった。

しかし、ここで描かれた戦争は、テクノロジー=戦争兵器技術と人間の間で交わされた戦争であるように思う。
このアメリカ軍の圧倒的武力を盾にして戦うならば、アメリカ兵のリスクは最小限にとどまるに違いない。
それゆえ、この兵士=主人公のように、危険を楽しむ「ゲーム」的余裕が生じるのであろう。

これはもう、TVゲームの世界と極めて近接した、現実の戦争だといえるだろう。
アメリカ軍はこの戦争テクノロジーを、今後さらに高度にしていくだろう。
そうすればますますアメリカ軍にとって戦争は、安全で清潔なイヴェントと化していくに違いあるまい。

この映画が語っているのは、そういう異常な戦争と、その戦争によって作られた従来にない兵士の姿だと感じた。


ここからは、この映画が語らない戦争について言及したい。
そして、それは概ねアメリカ映画で語られない事実でもある。
それは、敵の存在だ。
例えば、ベトナム戦争におけるベトナム兵や、湾岸戦争におけるイラク兵、対テロ戦争におけるテロリスト達。そんなアメリカ兵にっとての敵を描くことが、アメリカ映画では本当に希薄だと思う。

一生懸命にその理由を考えてみたのだが、アメリカが自国の価値観が正しいと信じているからだという理由しか思い浮かばなかった。
つまりは、アメリカが正義であり悪を倒す。悪が倒れた後には、正義が栄える。そう思っているのでは無いか。だから「敵=悪者」以外に描写の必要を感じていないのだろう。

それは9・11の事件を扱った報道や映画を見るにつれ、テロリスト達も命を賭けてアメリカに「No」を叫んだのだという事実を、なぜ考えないのかという疑問にも通じるものだ。

アメリカは、世界一の経済力を持ち、他と隔絶した軍事力を保持し、中国に急迫されているとは言うものの他国に比べ圧倒的に資源を消費している国だ。この人口3億2千万人の国は、全世界人口67億の約5%にすぎない事を考えれば、どれほど不均衡が生じているか分かるはずだ。

アメリカこそ世界の不幸の元凶だと思う人々がいても、なんの不思議もないと思う。

そのアメリカが正義を振りかざして、とても太刀打ち不可能な軍事力ともに自国に攻め込む。
しかも、正義の陰に、例えば湾岸戦争であれば、石油権益というように、アメリカの利益を追求している以上、対戦国はアメリカに侵略されたと感じて当然だ。

いずれにしてもアメリカが正義を振りかざし、敵を悪者だと決め付けて、自己批判なしに戦い続けるならば、相手は益々アメリカの独善的で欺瞞的な戦いに反発せざるを得ない。

なるほど米国の軍事力を行使すれば力ずくで自分の主義主張を押し通すことは可能だろう。
先にも述べたように、もはやアメリカ軍は敵=人間と戦っているはけではなく、戦争テクノロジー上に表示された記号=レーダーに映る点の如き存在、を相手にしているのだから。

しかしその時、標的にされた人間は「アメリカ」を許すだろうか。
彼ら生きた人間が、戦争ゲームの記号として殺されて行く時、殺された者はもちろん、その周囲の人々も決してそのゲームのプレーヤー=アメリカを許さないだろう。
この映画でも語られているように、圧倒的な軍事テクノロジーの鎧に身を守られて、少しでも危険だと見ればすべて除去=殺傷し、敵に顔さえ見せず嵐のように弾丸を振りまくアメリカ兵を見て、殺される側が彼ら米兵を許せるはずがない。

しかし許せないとは思っても、現実的にアメリカ軍の武力を見れば、国家対国家として戦うことは最早不可能だ。
であれば、侵略に納得してない人間は個人(テロ)で戦うしかない。

その対テロ戦の実態がこの映画の中で垣間見られる。
こんな民間人とテロリストの区別がつかない市街地で、異民族が対峙すれば些細なことで民間人殺人が起こって当然だ。
アメリカ兵は先にも述べたように、自らを可能な限り安全な状態に置く。
それは、怪しい相手は全て殺せという事だ。
殺された側は、民間人は勿論、テロリストだって、こんな不公平な戦いを絶対承服しない。
それゆえ、自爆テロのように自らの命を投げ打っても戦うのだ。

そしてテロを仕掛けられれば、この映画でもわかるように絶対に根絶できない。
隣に座っている人間が、自らの体内に爆弾を埋め込んでいるかもしれないのだ。
見分けることも防ぐことも、完璧には不可能だ。
相手は命をかけて、戦っているのだ。

しかし、アメリカはテロ行為で自国の人や物が傷つけられれば、悪いのはテロリストであると一方的に断じ、更に強力な戦争テクノロジーを開発し力で封じ込めようとし続けるだろう。
そうなれば行き着く先は、テロリスト、テロリストらしき者を全て殺戮にかかることとなる。
そしてその強力な軍事力ゆえに、ますますアメリカはテロリストを生み続けることになる。

そして、さらに話は転じる。

アメリカが対テロの泥沼に嵌るのは、まだ彼らが信じる正義ゆえであれば、決して引けない戦いであるかもしれない。
されにいえば、テロリストの標的はほぼアメリカであってみれば、戦わなければ被害がますます大きくなるという恐れもあるだろう。

しかしこの映画のテロ戦争の実態を見たうえで、戦えば戦うほどテロリストを生み出すこの戦争に、自らの正義を賭けているわけでもなく、アメリカのおべんちゃらや義理立てのために参戦するかもしれない国がいるとしたら、白痴としか思えない。
この泥沼に一歩足を踏み入れたら、あっというまにテロリストが攻め込んでくる。
仮に原子力発電所を持つ国であれば、テロリストが小型飛行機で爆弾を積んで飛来するだろう。
人通りの多い都市の真ん中で、すれ違った人が急に爆発し、止まっている車が爆発する。

その対象国が日本だとしたら、テロリストは易々と国家機能を壊滅状態に陥入れるに違いない。
政府官公庁は、体内に爆弾を埋め込んだ人間の侵入を100%防げるだろうか?
時速200Kmで突入してくる、爆弾を満載したトラックをどうにかできるだろうか?
政治家は通り過ぎる一瞬に暗殺される恐怖に耐えられるだろうか?

そんな対テロ戦のリスクを負ってまで、集団自衛権を行使するというのが、真に国益にかなうことなのか政治家ならば真剣に考えるべきだ。
いい加減、日本政府は将来的に望む軍事的戦略を明確にし、そのリスクを開示し、国民に真の選択を問わねばならない。

政府が海外派兵を望むのなら、そう言えばいい。
そして国民に問えばよい。
しかし、政府はこの問題となると途端に欺瞞と曖昧に逃げ込もうとする。

たとえば、PKO= Peacekeeping Operationsは「平和維持活動」と訳されている。
しかし、本来の訳は「平和維持作戦」であり軍事ミッションなのだ。
だからこそ、その任務に当たるのは国際連合平和維持「」が担うのである。
国連という錦の御旗は有るものの実質的に、戦地、紛争地帯で軍事活動に従事すると言うのが本来的な意味だ。
しかしそういえば、国民の忌避は必至だと考えた「時の政府」は、「平和維持活動」という平和的に聞こえる言葉を生み出したのだ。

だが、こんな国民を誤魔化すような態度を、いつまで取る積もりなのかと問いたい。
主権在民であるならば交戦権の行使は、国民が決めるべきことである。
それを民主主義と呼ぶのではないか。


実際、今現在も世界中で戦争・紛争が続いていて、たぶん止むことはない。

今の戦争が解消されないのは、根本的な不均衡が是正されないからだ。

その不均衡がなくならない限り、命を捨ててでも「NO」を叫ばなければならない民族や、個人がいなくなることはない。

従って海外派兵などをしたところで、火に油を注ぐようなものだ。
そもそも海外派兵というのは、派兵する側は、歴史的に見れば海外に有る権益を守るための軍事行動である。
逆に派兵された側は、蹂躙された思いが募る。
結局、軍事力は対テロ戦の解決手段とはならない。

そう思えば、本来この戦争を終わらせる道はひとつしかないと思う。

アメリカが代表する、世界の資源と利益の分配の不合理が戦いを生んでいるとすれば、貧富の格差を是正しどの国も公正に競争が可能な世界を構築する事だ。

その財源は先進国が軍隊を廃棄し、その軍事費を貧しい国に責任を持って分配すればいい。

そのためには、まず、最も不公正で在りながら力で自分の正義を押し通すアメリカ自らが、まずその過ちを認めることから始めるべきだ。

それ以外にこの戦争を内包した世界の、彼岸に至る道はない。



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posted by ヒラヒ・S at 20:00| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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