2014年08月21日

雨あがる

天気晴朗ナレドモ波高シ



評価: ★★★★ 3.0

和歌に本家取りという、創作の作法があります。
古歌の趣を残して新しき趣向を盛り込んで歌を詠むのですが、古来の歌に対する敬意と、古典と向き合って格闘する作者の志が、しばしば佳品を生み出してきました。

映画に古典的な風格というものがあるとすれば、この映画こそその一本でしょう。

故黒沢監督の遺稿を基に絵コンテまで描いたんじゃないかと疑うほど、ファーストシーンから故黒沢監督そっくりの重厚な映像を見せてくれます。
それもそのはず、このスタッフは監督を含め黒沢組が再結集して撮り上げた黒沢監督へのオマージュであり、そのレスペクトと愛が色濃く表れている作品です。
雨の描写や、群衆劇のカメラの移動シーン、演出も浮いた所も無く実直で誠実、まさに昭和日本映画の古風を写して感動的です。

また、寺尾聰の素直な演技にも好感を持ちました。
役者陣も、松村達雄、隆大介、仲代達也など黒沢映画で常連の懐かしい顔が嬉しかったです。
何より出色だったのは宮崎美子、武家の妻としての気品と大らかな楽天性が同居したその人品が、この映画を一段高い作品としているように思います。
その、長所を総合して☆3.0です。

それで、これから後はナンクセです。

この映画を愛してらっしゃる方々は、ご注意ください。

まずご説明させて頂きたいのは、黒沢監督に対してデルスウザーラー以前は娯楽作品の大家と、個人的に感じています。
逆にテーマ性が勝った、いわゆる黒沢ヒューマニズムといわれる作品群には、どこか素直に見れない所があります。

その原因について考えてみたとき、七人の侍「勝ったのは俺たちじゃない、百姓たちだ」という言葉に行きあたります。

そこで語られている、貧しくとも善良な庶民と、それを助ける強く正義の侍という構図に、どこか違和感を感じてしまうのです。
清貧で純良な大衆という存在はまだしも、その大衆を救う侍=エリートの存在にリアリティが感じられず、もっといえばエリートに善導されるべき庶民大衆の存在も型にはまった「ドグマ=教条的」図式のように感じられてしまうのです・・・・・

それでも、黒沢監督の活躍した1960年代であれば、まだ庶民大衆という存在=集団就職で勉強の機会も与えられず、低い賃金で朝から晩まで働き続ける労働者がいたでしょう。
そして、彼らが自分で正当な権利を手に入れられない社会状況もあったため、正義の騎士の存在が必要とされたのかもしれません。

しかし、この映画でも黒沢ヒューマニズムの物語そのままに、清く貧しい庶民・大衆のために、主人公の侍が自らの不利益を顧みずその力を振るい、皆を助ける代わりに仕官が叶わないというストーリーが語られるのですが、しかし、このテーマを1999年に語る必然性が、私には正直分かりません・・・・・

今、庶民大衆や正義のエリートという人々が存在するのでしょうか?

自らを貧しい庶民と規定している人の方が珍しくないでしょうか?

今は誰かに助けてもらわ無ければ、正当な権利を得られない人がいるという状況なのでしょうか?

もし、黒沢監督が生きていたら、脚本に手を入れて、もう少し現代における普遍的な訴求力を持った物語にしたように思うのです。

しかしこの映画では黒澤監督に対する「愛」ゆえに、黒澤監督から外れまい外れまいとしているように感じられます。その愛ゆえに自縄自縛に陥って、しまったのではないでしょうか。

結局「クロサワ」という「様式」を守ることに固執するあまり、新しい表現をなしえなかったように感じてしまいました。

藤原定家の本歌取りに関する教えにいわく「本歌取りをしようとするときは、本歌とは異なる主題でで詠むのが理想的」とあります・・・・・



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ラベル:小泉堯史 寺尾聰
posted by ヒラヒ・S at 21:22| Comment(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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