2014年08月29日

エンド・オブ・デイズ

アクション・ヒーローが告げる正義



評価:★★★★ 4.0点

この映画に関しては、結局「シュワルツネッガー」というアクション・スターを欲している観客に対して、「シュワルツネッガー」が望むものを提供しなかったという事に尽きるのではないか・・・・・・

2000年のニューヨーク悪魔が降臨し、サタンに選ばれた娘クリスティーンが襲われる。
たまたま事件に関わった元刑事ジェリコ(シュワルツネッガー)が娘を守って悪魔と闘うというストーリー。
この主人公ジェリコは娘と妻を刑事在職中に犯罪者に殺され、神を信じていないというよりは、憎んでいるという方が近い。
それゆえ神よりも銃を信じると言い切る。
サタンはそのジェリコに向かって、悪魔の味方をすれば妻と娘を返してやると、誘惑する。
しかし、ジェリコはその誘惑を断ち切り、クリスティーンを助ける道を選ぶ。
ジェリコにとってクリスティーンとは、罪なくして殺された妻と娘が投影された存在だ。
しかしまた、クリスティーンを守るという事は、悪ではなく正義を選ぶという宣言でもある。

つまるところジェリコの戦いとは、勧善懲悪を現したものであり、西洋文明において善とは「キリスト神」に他ならない。
それゆえ、神よりも銃を信じると言っていたジェリコが、最後に銃を捨てるという行為によって「神」を再び見出した事が語られたとしても、物語的に不自然だとは思わなかった。

また完全に神に身を委ねたジェリコの姿に、キリストの聖母子像のイメージが重ねられ、更に娘と妻がいる天国に迎えられる事が示されるとき、ジェリコの戦いはそのままキリスト教的宗教観の中で完結する物語として読み取るべきだろう。

このように、この映画のテーマとストーリーは完全にシンクロしており、破綻は無いと感じた。
もちろん、アクションとテーマの同調性の弱さや、テーマ自体の旧弊さを指摘することはたやすい。
しかし近年の「ハリウッド・アクション映画」のテーマ性のカケラもない破壊量の競争に較べれば、数段上等な作品だと感じた。

そもそも「アクション映画」の系譜から考えれば、初期の西部劇や、戦争映画にしてみても、「正義=神」の名のもとで暴力が容認され、行使されるというのが本来的な形であった。

だがいつしか、その「暴力」の「正義」が無くても、映画を「楽しめ」る事に観客が気づき、同時に「暴力=アクション」が多ければ多いほど映画が「売れる」事に制作者が気づいたとき、「暴力=アクション」は増大の一途を辿り、ついにはCG・FXの効果もあり映画全編をアクションが覆い尽くす作品に何の違和感も持たなくなってしまった。


しかし「ゾンビ映画」の死者を殺戮しまくる映画状況が正常といえるであろうか?


この「映画アクション量の増大」に寄与したハリウッドスターの一人が、この映画の主人公を演じた「シュワルツネッガー」である事は間違いない。

好意的に解釈すれば、その「シュワルツネッガー」であればこそ「アクションの正義」を語りたかったのだと思うのである。

そしてまた、それゆえにこの映画が失敗したのだ。

「シュワルツネッガー」の「盛大な破壊行為」を期待した観客に対して、「破壊行為には正義が必要」だというメッセージを送れば、観客としてはこう言いたくなるに違いない・・・・・・

 「これまで破壊しまくっといて、今さら偉そうに説教なんかされたくない!」

やはりこのテーマ・メッセージを送るのであれば、例えば「ハリソン・フォード」が主人公であったとすれば、説得力が上がるのではないかと思ったりする。
 
云い忘れたが、この映画のキャスティングもホントに完璧だと思う。
ただ一人「シュワルツネッガー」を除いて・・・・・・・


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posted by ヒラヒ・S at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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