2014年09月09日

森田芳光「椿三十郎」

リメイクとは神を殺す覚悟なり。



評価: ★★    2.0

リメイクというのは本当に難しい物だなと、この映画を見てつくづく思います。

本家クロサワ版をそのまま役者を代えて撮ったような、この作品は、オリジナルに肉薄するに足る力を持っているように感じました。
例えば、本家版を見ていなければ星4つ以上は十分の作品だと思います。

黒澤脚本を踏襲していますし、構図やカット割り、主役織田裕二の台詞回しまでそっくりなのですから、面白くないわけがないのです。
森田監督のこと、映画の総体として見れば現今の凡百の作品を遥かに越えていることも間違いありません。
つまり、映画単体としてみたときに失敗作だとは思いません。

しかし、残念ながらこの「椿三十郎」はリメイクなのです。

そして、オリジナルよりも面白くないと、万人が認めるところでしょう。

それゆえリメイクとしては失敗なのです。

例えば、 織田裕二は本当にがんばっていますし豊川悦司だってナカナカの貫禄です。
しかし三船敏郎と仲代達也に匹敵する時代劇役者を、現代に求めるのは酷でしょう。
また、監督の演出にしてもどっしりと本当に安定した物ですが、しかし黒澤監督ほどの偏執的なリアリティの追求は、本家のコピーとしての表現に望むのは無理ではないでしょうか。
さらに黒澤版「椿三十郎」の制作年代は日本映画の黄金期であり、全ての人材才能が映画界に集結して、まさに職人が結集して最高の作品を作り上げていた時期です。

結論から言えば、現在の映画界はその当時から比べれば、やせ細っていると言わざるを得ません。

結局相対的に落ちた力で、原本に忠実な作品化を試みたとしても、オリジナルを越えられないのは自明の理だと思うのです。

つまり取るべき手段は、オリジナルにこだわらずに、大胆に改変する事以外にないはずです。

例えば時代劇役者が不在なのであれば、殺陣にCGを使わざるをえないでしょうし、カメラなど映画スタッフが不足で表現力が無いのであれば、その表現し得ない部分を足したり引いたりするため、脚本の変更だって選択肢としてあってしかるべきではないでしょうか?

実際、森田監督の映画作品は、例えば「それから」「失楽園」「模倣犯」など、原作のテーマすら別のモノにしてしまうほど「別の表現世界」として映像化しており、その自由な解釈に基づいた斬新な表現が私にとっては魅力でした。

しかし、この映画においては本当に愚直なほど、オリジナルにこだわってしまったように思います。

ここから先は想像ですが、森田監督は本当に黒沢明監督を尊敬していたのではないでしょうか。
あまりにも偉大な作品、尊敬すべき表現を前にして、ただその型を模倣すること以外なすすべが無かったと想像するのです。
あまりに完璧な作品を前にして、何一つ己が手を入れるべき場所を見出せなかった、いわば「蛇に睨まれた蛙」状態だったのかな、なんて。
人が何かを聖域化し、絶対物として掲げるとき、しばしばその「絶対」の前で思考停止してしまうように思います。

森田監督にとっての黒沢監督が、そんな「絶対的存在」だったのかもしれません。

あまり勝手な想像を言うのもどうかと思いますが、ただハッキリしている事は古今東西の表現者を追ってみれば、名人上手という人の跡を継ぐ者はしばしば先人の様式を模倣するだけで手いっぱいとなってしまい、新たな革新を産めず表現が小さくなるように思います。

そしてまた、往々にして優れた表現とは「権威」や「絶対」を超克しようとする所に誕生するのではないでしょうか。

それは、自らのうちの「絶対的存在 = 神」と格闘することを意味するように思います。



スポンサーリンク
posted by ヒラヒ・S at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック