2014年09月29日

終着駅 トルストイ最後の旅

逃亡者としてのトルストイ




評価:★★★★★ 5.0点

一世を風靡し、歴史をも変えたある科学的知見があった。
それを「唯物論」という。

このマルクスとエンゲルスが論じた弁証法的経済学は、最終的に共産主義革命となって、20世紀の社会を大きく揺り動かした。

その教義の基本は、経済的=社会的な富の蓄積によって、社会的な制度=政治体制が変化するというものだ。
そして時の欧州の歴史的段階は、富を一部資本家が独占する段階を過ぎ、労働者大衆が等しく富を教授すべき時であり、仮に資本家が自ら富の配分を為さない場合は、革命という手段も止む無しと論じる。
その理論に立って、レーニンはロシアに共産主義革命を起こす。

この映画は、そのロシアの帝政末期、ソビエト革命の前夜に生きた文豪トルストイの物語である。

語り口にハデさはない。
しかし欧州北部の乏しい光の中、静謐に、実直に、語られるストーリーは何ともいえない滋味を感じる。

この映画の主人公、トルストイの果たした役割とは近代とそれ以前の、知性の橋渡しだったように思う。

即ち、かつての全世界の森羅万象が神という絶対者によって成立したものだと信じていた時代には、人々は総ての運命を「神の思し召し」として受け入れ、ただ敬虔であれば救われた。
しかし、人々の前からいきなり神が消滅し、世界の運命は人類自身に全ての責任があると告げられたとき、人々は迷い子のように不安におののくことになった。
近代における苦悩の本質を、例えばニーチェは哲学で、マルクスは経済学によって、救済しようと格闘した。
しかし、そんな学究的な理論を解し得ない庶民大衆に対して、近代の救済を小説として描いたからこそ、トルストイはこの時代における寵児として存在したのである。

実際現在から見れば奇異に感じるかもしれないが、トルストイはこの映画にも出てくるようにマスコミに追いまくられる、大スターだった。
これはメディアの発達もさることながら、トルストイが発するメッセージがどれほど時代に必要とされたかの証明であったろう。

トルストイは人々の希望として、人々を導く光として存在した。

しかし、その光の指し示す方向はあまりに「理性」に偏っていたかもしれない。

この時代における人知は、神に対抗するかの如く「理想的」で「教条的」だ。
結局世界を「理詰め」に解釈していった先に、数学的な公理として「社会」や「人間」を記号化して人類の営みを成立せしめようとしはしなかったか。
それら、理性的数値として追及された人間は、最終的に国家という集合的利益追求集団に収斂せざるを得なかった。
しかしその「近代国家」が一個の人間にどれほどの犯罪的行為を強いたかを考えれば、あまりにこの「理性的世界」の有り様は、機械的で人間性を無視した社会体制であったかと問わざるをえまい。

端的に、ロシア革命の先に生まれた「ソビエト連邦」という壮大な実験が失敗に終わったのも、この「人工的な公理」が個人の欲求を否定する形でしか成立し得なかった事に因るであろう。

この近代における「人工的理性」と「人間性=生命の欲望」の板挟みになった人物こそ「トルストイ」その人であったと、この映画は告げている。

彼の妻が「愛」を叫ぶとき、それは生物学的な必然を、神が与えられた人間性の表出を求めているのだ。
また彼の信奉者たちが「理想」を高く掲げるとき、神なき世界を人知によって「再構築」せざるを得ない、社会的必要を説いているのである。

その両者の間で逡巡したトルストイは、ついに逃亡せざるを得なくなるのだ。

この映画は、そんな近代そして現代にまで連なる、世界の崩壊後を生きる人類の苦悩を描いて見事だと思う。


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posted by ヒラヒ・S at 17:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ロシア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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