2015年06月08日

アーティスト

静かなる陵辱



評価:★★     2.0点

ある「様式=スタイル」というものは、その様式によって必然的に導き出される、形を生む。
例えば絵画という様式は、2次元表現から自由であり得ないし、小説であれば言葉をその表現の基礎とせねばならない。

そしてこの作品は「サイレント映画」という様式に則って作成された。
このスタイルは、基本的に言葉を持たないがゆえに、現在のトーキー(音声入り映画)に較べ情報量が制限され、物語の説明が困難だ。
また、役者の演技はパントマイム的に誇張した演技とならざるを得なく、細かな心理描写が困難だったため、定型の物語を語ることになった。

しかし、その情報量の少なさゆえに映画にとって命とも言うべき、モンタージュ技法が発展することとなった。
そもそも映像と映像の「つなぎ」や「切り替え」といった、モンタージュとは複雑なストーリーを映像のみで、如何に効率よく確実に伝えるかの試行錯誤の結果としてあった。
したがって、ヒッチコックやチャップリンが「映画の全てはサイレントにある」と言うのは、モンタージュの技術がそこで確立されたという意味で解すべきであろう。

そしてまた、ヒッチコックやチャップリンの映画を見るとき、たとえトーキーであってもサイレント映画の表現技術が効果的に使われているように感じる。
それは、例えば目線だったり、場面の俯瞰から人物に切り替えて位置関係を整理したり、そして何よりも役者の沈黙で多くを語りえる演出力に感動する。
そこには、例えば盲目の人が視覚以外の感覚が鋭敏になるというような、言葉がないが故の映像の強さが感じられる。
それは画家が、色という要素を捨て去った形で、デッサンを繰り返すことにより、形と線の揺ぎ無い姿を習得するのと似ているとも思う。

そんな映像的基礎力というべきものの高さを、この映画「アーティスト」にも期待した。
結果から言えば、個人的には消化不良に感じた。
ここから先は、この映画の悪口とならざるを得ないので、この映画を貶されることに耐えられない方は、この先を読まれないことをお勧めします。


この映画は確かにチャレンジ精神にとんだ作品だと思うし、作り手としての苦労も十分伝わってくる。
しかし映画として面白いかといえば、面白くない。
なぜ面白くないのかの確認に、何度も見るうちになぜかハラが立って来た。

女優キム・ノバクが、この映画の音楽の使い方を「レイプ」だと言ったというが、その言葉こそがこの映画の本質を言い表しているように思う。
例えば物語は「雨に唄えば」を彷彿とさせるのだが、それは、かつての名作にストーリーの伝達を肩代わりさせようという意図にも思える。
それ以外にも、かつての映画に対するオマージュだと監督は主張するかもしれないが、ここぞというシーンにかつての映画の断片が現れる。

問題はその引用に愛を感じられないのだ。
過去の作品イメージは、この映画「アーティスト」の情報伝達力の不足を補うために、用いられる。
まるで子供が自分の力不足を、親に頼って補ってもらうようなものだ。立派な大人であれば、年老いた親のために立派な家を建ててやるのが正しい態度ではないか。
本来、過去をリスペクトするとは、いにしえの業績を称え、更にその過去に新しい価値を見出すことであるはずだ。

そんな過去の映画達に対する愛情があるのであれば、ここまで自らの「アーティスト」という映画のために、宝石のような名作のイメージを奴隷的に使役するはずはない。

残念ながらこの作品は「エゴイスティック」な製作者の欲望に支配されているように思える。

月並みなストーリーに、ご都合主義のハッピーエンド。この監督は、この映画を何のために撮ったのだろう。
少なくともこのストーリーやテーマを伝えたいがために、この映画があるのでないことは明らかだ。

とすれば、残る理由は一つ「サイレント映画」という技法を「もてあそび」たかったのであろう。
しかしサイレント映画としての技法が優れているかといえば、過去の映画の残滓をかき集めたようなこの映画に「サイレントの名作」との評価は与えられまい。せいぜい誉めて「サイレント映画のパロディには見える」というところか。

そもそも冒頭でも書いたとおり、ある「表現スタイル」は必然的に不自由さと禁忌を、表現者に強いる。
良心的な表現者であれば、根源的には、その頭の中にあるイメージを、時空間に囚われずダイレクトに、見る者の脳に直接送り込むことこそ理想であるはずだ。しかし、メディアのテクノロジーがそこまで達していないがゆえに、現状ある表現メディアを選択せざるを得ない。

これはサイレントの時代の表現者も、同様であったはずだ。
表現したい内容があって、しかしサイレント映画しか存在しない。
それゆえ、サイレント映画の表現を可能な限り追求・拡大せざるを得なかった。
その表現と様式との厳しい格闘の果てに、映画の技法が構築されていったのである。

やはりこう整理してみれば、この映画は表現者として人々に訴えるべき何者も持たず、また「サイレント」の技法を追求・拡大して現代的な表現として再構築したわけでもない。

ただ己の「エゴイスティック」な「サイレント映画の玩弄」を観客に見せ付けただけだと感じる。

やはりこれは、映画に対する恣意的な「レイプ」である。


関連レビュー「雨に唄えば」:http://hirahi1.seesaa.net/article/420189108.html

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posted by ヒラヒ・S at 18:46| Comment(2) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメント失礼致します。

私もこの映画を観るにつけ、「ペラいな」と感じておりました。
が、その内実までは推し量れずにおりました。

今回、こちらの記事を閲覧させて頂き、その内実をハッキリとした輪郭にて描くことが出来ました。

この映画には、さまざまな「愛」が足りなかったようですね。
もしかしますと、これも「リサーチ主義」ゆえの弊害なのかもしれません。

ということで、
勉強になりました!
&これからも寄らせて頂きますね!
Posted by 網葉きよら at 2016年06月19日 01:02
>網葉きよらさん

コメントありがとうございます。
無理に読んでいただいたみたいで恐縮です。
この作品が何を伝えたかったのかという基本の部分で、監督の利己的な欲望が先行しているようで、間違っているように感じました。
今後ともよろしくお願い致します。m(__)m
Posted by ヒラヒ・S at 2016年06月19日 03:08
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