2015年07月13日

THE 4TH KIND フォース・カインド

「列車の到着」の跡に残る物



評価:★★★    3.0点

映画の始祖、リュミエール兄弟の「ラ・シオタ駅への列車の到着」という作品は、劇場に来た観客をパニックに陥れたという。
映画という現実を整理できていない時代に、遠くから列車が近づいてくるのだから、恐怖を覚えて当然ではないか。

もしそれが現実だったら間違いなく死ぬ。
たかだか娯楽の為に、命を賭けるわけにはいくまい。

この映画はそういう映画だ。
つまり、近年蓄積されたリアルさの映像表象として刷り込まれた、画像・演出に満ちている。
ドキュメンタリーの手法や、再現フィルム、映像資料、個人撮影映像を積み重ねることによって、リアリティを構築しようとする努力が効果を上げている。
これはドキュメンタリータッチのフィクションだという、明瞭な宣言が冒頭でなされてですら見る者に「現実=リアリティー」の迫真力を持ちえるのは、人間の知覚・認識という物が如何に無意識の内に支配されているかの証左で在るだろう。

そもそもリアリティ表現とは、全ての表現物にとって永遠のテーマである。
単純に言って、人が殴られたシーンを傍観しただけでも多かれ少なかれ見た者は「傷」を受けざるを得ない。
ましてや観客にとって、在る表現が「リアリティ=現実感」を持って伝わったとするならば、それは見る者にしてみれば「実体験」として心と体に刻み込まれたことを意味するであろう。
そして、実感として「表現」が沁み込み得れば、それは観客の人生の一部と化して「表現」が永遠の命を勝ち得たと考えるべきだろう。
それゆえ、全ての表現は「リアリティ」を求めて苦闘せざるを得ないのである。

そういう意味でいえば、この映画の映像表現がもたらす目新しい効果は、明らかに現在のところ「リアリティー」を付与する効果を上げている。

しかし更に進んで、冷静にこの映画を分析してみればストーリーは使い古されたモノであり、その演出は叫び、泣き、驚愕の表情を繰り返す演技によって、観客を驚かせることのみを目論んでいるように思える。

つまりは、映像的なリアリティ表現の追求以外、この映画に語るべきものがないということになる。
それは「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」でも明らかなように、アマチュア的な映像のチープさがリアリティーにつながるという発見の、敷衍・延長としてあるように思う。
そして、これら近来の「ドキュメンタリー」や「映像資料」を模した映像リアリティは、演出やストーリーテーリングを語ることが出来ない。
なぜなら「ドキュメンタリー」や「映像資料」に演出や物語が持ち込まれたとき、それは「ヤラセ」と呼ばれる「嘘」となってしまうからだ。

従って、これらの表現は従来の映画的な話法を否定する形で、リアリティを確立したといえるだろう。
つまりこの映画の映像表現の「ユニークさ=新奇性」は、反映画的で在るが故に「映画的リアリティ」を得たのである。

そう考えたとき、この映像表現のリアリティーがどこまで効果を持ちえるかという点に、疑問を持たざるを得ない。
例えば、黒澤の「椿三十郎」におけるラストシーンの「リアリティー」や、「仁義なき戦い」の格闘シーンの「ドキュメンタリー表現」にしても、ストーリーの必然による爆発としてあったからこそ、永遠のリアリティーを獲得しえたのではなかったか。

しかし、物語の本質を持たない「映像の新奇性」は、「ラ・シオタ駅への列車の到着」を見て現代では誰も逃げ出さないことで明らかなように、目前の危険が自らに害を及ぼさないと納得してしまえば、その刺激は効果を失う運命であるだろう。

そう考えればこの映画は、早晩、力を失うに違いない。

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posted by ヒラヒ・S at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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