2015年09月09日

テラビシアにかける橋

少年の命の光と影



評価:★★★★   4.0点

この映画と「スタンド・バイ・ミー」は、私の中では一対の作品として、いやそれ以上に混然一体となって存在している。

どちらの映画も、アメリカの田舎町を舞台にしており、そしてアメリカの田舎というのが本当に何もない場所で、ただ無為の時間だけがあふれかえっているのだなぁと感じる。

こんな田舎町で、しかもその閉鎖社会の中に居場所が十分確保されない子供にとってみれば、そのやり切れなさは筆舌に尽くしがたいであろう。

そういう場所に立っている子供たちにとって、出来るのは空想する事だけだと、この映画達は語っているように感じる。
(この映画における空想シーンは、この少年達の心象風景であってみれば、この映画内の実写化の仕方とこのジャケット写真には疑問が残る。ファンタジーとして売ろうとする意図は分かるが、物語の本質を歪めてしまうと思う。それゆえマイナス☆1.0とした)


自分の子供時代を思い出しても、踏み入れた自然の中に様々な物語を見出したし、その空想世界を超える何者かを求めて、映画や小説を漁ってきたのではないかと、この映画を見て思った。

有り余る時間と、その無聊が、子供の強い命の輝きと交錯した時、人の限りない「創造」に翼を与えるに違いない。
この時間的な余裕とはそういう意味で、少年の創造世界にとっての「父」と呼ぶべきであろう。


そしてまた、この2本の映画で語られる「死」は、命の輝く少年にとってこそ最も恐れを抱かせる事実ではあるまいか?
それは旺盛な生命力が、死を現実的事柄として認識し得ないゆえに、遠く霞む闇夜の燐光のように少年の心を支配してしまう。

少年期の「死」とは、その実態をはるかに超えた「怪物的」存在に違いない。
そういう意味で、少年にとって「死」を巡る事象は、創造の「母」ではなかろうか。

この「創造の父母」は考えてみれば、少年期の命の輝きの光と影と見る事も可能だろう。

そして、この命の輝きは密接な友人関係によって、さらに大輪の花を咲かせるに違いない。

この「テラビシアにかける橋」の主人公にとって、かけがえのない喪失があって、しかしそれを抱えて歩み続けなければならないとき、人はその創造の中で、ついに失う事のない永遠をその心の内に生み出すように思う。

じっさい、生きている人の事は思い出さずとも、もういない人の事は何故こう頻繁に、おもいだすのでしょうか。

たとえ空がひっくり返って、山が海に崩れ落ちたとしても・・・・・・そして2度と会えない、遠い場所に行ってしまったとしても・・・・・・・

それでも、友はそばにいる。


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posted by ヒラヒ・S at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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