2015年09月23日

火宅の人

「重くて困る」に潜む、反「小津」主義



評価:★★★★   4.0点

この映画は昭和の家族のある種の典型を描いて、今なお力があると思う。
本作品は1986年に公開されこの年の数々の映画賞に輝いた。
 
この映画は壇一雄の小説を元に映画化された。
人気小説家が家庭を持ちながら、別の女性と暮らす日常を、作家の目線から描いた物語である。
主人公役の作家に緒形拳、その愛人役の原田美枝子、その愛人との関係が上手く立ち行かなくなって、ともに逃避行する相手に松坂慶子。その原田美枝子と松坂慶子は「燦然」という言葉がふさわしい。若く、そして下世話な話だが裸体も美しい。
 
緒形拳はこの映画で高度成長期の日本の父親たちを、極端ながらも象徴している様に思う。
即ち、優先順位として一に仕事、二に自分の遊び、そして最後に家庭という行動様式である。実際現在の60歳以上の男達に尋ねれば、相当数の割合で子供を抱いた事が無いというであろう。
男は外で仕事し家庭を養えさえすれば、それ以外を大目に見るのが、日本社会における暗黙の了解だったのである。

しかしそれを可能にしたのは、この映画でいしだあゆみが代表した日本の母が、家庭を完璧に守る力を持っていたからである。母達は父親が逃げてしまえば、たちまち家族を抱えて路頭に迷う事を知っているがゆえに、男たちの自由気儘を忍耐する以外方法が無かったのである。それを含んで、いしだあゆみの演技を見るとき、その押し隠した情念の凄まじさに慄然とする。

鬼はこういう状態の積み重ねによって生まれるのだと、そう思う。

監督深作欣二の演出も情念の深さを画面のそこここに埋め込む。それは、言葉によらず、間であったり、照明の陰影だったり、空の色に仮託されたりする。それまでの深作作品の動の演出と違い、静かにじっくりと撮られた映像は、この物語を語るのにふさわしい演出だと感じた。

じつはこの演出様式は「小津安二郎」を、どこか摸しているのではないかと疑っている。
「小津」は「日本の家族の美」くしき部分のみを、慎重により分け、悪しき部分が見えたにしても、それは美しさを際立たせるための戦略的な汚れであった。
対して深作は、同じ様式を使いながらも「日本の家族の醜」い部分を際立たせた。その結果、あたかも、小津のネガフィルムの様に見る者に迫ってくるのだ。

それは、かつて仁義という美名に偽装した組織暴力団の本質を白日のもとに曝したのと同様、過去に描かれた「日本の家族」が持つ美しき共同幻想を否定するものである。

この映画においては、近代以降「日本の家族」が宿命的に持たざるを得なかった、その構成員の忍従が、小津的「美徳」ではなく仁義なき「悪徳」であることを明確にしめしている。

即ち「重くて困った」・・・・この主人公の最後の言葉が「家族」の本質だと・・・・・

その結論は、深作監督の人生もまたスキャンダルに彩られたものだった所から想像すれば、男の本音のように響くのである。


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posted by ヒラヒ・S at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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