2015年12月03日

クローズ

カラス達の祝祭空間




評価:★★★★★  5.0点

マンガを原作としたこの一本。
原作マンガを踏襲しつつも、映画としての世界観を確立しえた日本映画における稀有な例のように思う。
結果として、原作と映画の世界観が相互に作用し、この虚構世界をより豊穣で重層的な物語空間としていると感じた。

映画に描かれた世界は、シンプルだ。

闘争本能を剥き出しにした、男たちの戦争。
これでもかとばかりに、延々と、次から次に、際限なく、画面一杯に、何十人もの野郎どもが、死に物狂いで、ムヤミヤタラニ、燃焼しつくさんと、肉弾戦を繰り広げる。

こんな暴力に満ちた映画を見ながら、どこか郷愁を覚えたのは私だけだろうか?

例えば、昭和という時代にあっては、男達というのは戦う存在だった。
仕事といえ遊びといえ、常にどこか競い較べられ、何かに挑むかのような行動様式を持たざるを得なかった。
それは団塊の世代など、大集団の中で生存競争を強いられたことと無縁ではないだろう。
その、高度成長期にあって日本人は、圧倒的な活力を糧にして、戦争で失われた財や絶望感からの復興を果たした。

それはまた別の意味での「戦争」と、呼ぶべきだったに違いない。

しかし、その戦いもバブル崩壊を頂点として、終戦の時を迎える。
それは、経済力による勝利が、精神の充足を意味しないという、誠に切実な真実を日本人に思い知らせた。
同時にその真実は、男達の闘争の終焉をも意味しなかっただろうか?

つまり、敗戦後の男達が「富=経済力」の戦争に勝利したにもかかわらず、富が幸福を担保しないという事実を突き付けられた時、男達にとっては戦う対象を見失ってしまった。
その結果、社会的な富の蓄積によって生きる事には困らないだけに、無駄な闘争を避けるという日本社会を成立せしめた。

「草食男子」とはまさに、戦いが不要とされた時代に成長した者たちだったに違いない。

こんな時代背景にあって、昭和のマンガやドラマの主役であった、ケンカに明け暮れた男達の物語は過去の遺物として忘れ去られようとしたかに思えた。

しかしこの映画である。

平成の世にあっても「男達の闘争」が、人の心にある種の感銘を与えることを、この映画のヒットが証明したように思う。

しかし、映画とは流行歌の様に「時代」を反映するエコーのような存在だとすれば、明らかに時代錯誤の映画に違いない。
そのギャップを埋めて現代に蘇らせるために、今が旬の「男」達を並べた事が成功の一因としてあげられる。
だが何よりも現代にあって訴求力を持ち得たのは、この描かれた「戦い」の光景を、非現実的な一種のファンタジーであると割り切って描いた結果だと感じる。

この「格闘」シーンを純粋に、ストーリーや感情などを脇役として、描くことによって「格闘」の持つダイナミズムが自立的な拍動を刻み「象徴化」された時、古来より人が生きていくという苦闘を成すために、必要不可欠とされた「伝統的慣習」と同等の効果を見る者に及ぼすであろう。

その慣習とは「祭礼」である。

祭礼というものが、辛く苦しい日々の暮らし「ケ=日常」をはなれて、「ハレ=祭」という祝祭空間に突入する事で日常の苦痛を寛解しようとする行事と見る時、この映画の男達がもみ合いへし合いする姿は、そのまま「ハレ=祭」の姿に重なりはしまいか。

ここに描かれた「暴力と血」は一種神聖な、生きるという事、命を燃やすという事、その純粋なシンボルとして輝いているように思えるのである。

この時代にあっても、長い人生の「ケ=日常」を生きるためには、10代後期という溢れんばかりの命を「ハレ=青春」として燃やさねばならない事を、この描かれた「格闘」の運動エネルギーの内に見出すのは、あながち昭和の懐旧の為だけとは思われない。


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posted by ヒラヒ・S at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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