2016年02月27日

交響曲第1番《HIROSHIMA》

創造の本質



評価:不能  

この世界にまだ誰も聞いた事のない音を響かせるというのは、どういうことなのかと考えて見たりする。
音楽に限らず、絵画や、演劇、小説にしても、今だこの世に存在しない「作品=創造物」を生み出す芸術家の困難さを思わざるを得ない。

今まで誰も見た事のない「創造」に挑戦するという事は、人類の誰一人達成しえなかった地平を開くということだ。
そこには人間の今だ知らない美の可能性に挑む勇気と、先人が誰もなし得なかった創意と工夫が必要とされるだろう。
そんな辛苦の果てに「ユニークな形を持った美=芸術」は生み出されるのだろう。

しかし辛苦の果てに生み出された唯一無二の「芸術」は、一度この世に姿を現せば、それは模倣され、分析され、瞬く間にエピゴーネン達の手で、その独自性を希釈されていく運命にある。

そのエピゴーネンの最たる者が、「技術的熟練者=職人」であるだろう。
彼ら、職人は或る「創造物」を眼にすれば、驚くほど精巧に複製して見せ、それはしばしば本家の「創造物」より緻密で見栄えが良いことすらある。
しかしその模倣物が、どれほど高い完成度を持っていたとしても、彼らを「創造者=芸術家」と呼ぶ事に、私は抵抗を覚える。

やはり「創造者=芸術家」たるもの、無から有を生み出す事こそ、その真髄であるべきだろう。
そしてまた、その虚空から真の美を形作る「神の御業」を可能とするのは、本当に選ばれた一握りの者だけが与えられた力ではないだろうか。
その才能を天から授かったからこそ、彼らは「天才」と呼ばれるのだろう。

そして、現実的な製作現場において真に重要なのは、彼ら「天才」にしか成しえない「美の創造」を、現実の具象的な形として収斂させることにあるはずだ。
そのために「美の創造者」は、自らが実作業をしてその美を成型することもあるだろうし、他者に作業を委託したほうが効率よく達成できるのならば、そうするだろう。

映画監督という仕事を例に出せば、彼が成す仕事は最終的には決定するだけである。
たとえば俳優であり、脚本家であり、カメラマンであり、音声であり、衣装であるという、映画のパーツの担当者がいる。
彼ら担当者とて、自らの関わる映画にとってベストだと信じる選択をして、監督に諮るだろう。
しかし、それが監督の追及する「映画の形」にふさわしくなければ再考を促し、監督は自らの求める形になるまでそのやり取りを続けるだろう。
その決定に従えないパーツ担当者は、監督の意向によって置き換えられることもあるだろう。
結局その「映画」における最終形、完成形は、監督にしか判らない。
それはその作品の創造者だけが成しえる決断だからだ

いま述べたことを整理すれば、最終的な美の形を「監督=創造者」だけが知っていて、それ以外の誰も知ることは出来ないということだ。

それは逆に言えば、彼さえいれば確実に「美」に到達できるが、彼を置いて彼の「美」を具現化する道はないことを意味する。

突き詰めて言えば「創造者」だけが、その「作品」においては唯一無二の存在であり、置き換えが効かない絶対者なのである。


さて、前置きが長くなったが佐村河内氏の「交響曲第1番《HIROSHIMA》」である。

そのスキャンダルにおいてマスコミは、まるで彼を詐欺師のように扱いはしなかったろうか。
真の作曲者が新垣隆氏で、佐村河内氏がまるで何もしていないかのように伝えはしなかったろうか。

私は、佐村河内氏が上で述べたような「唯一無二の創造者」としての役割を、その作品上で果たしていたのだろうと考えている。
それは新垣氏自身「佐村河内は図表や言葉で曲のイメージを伝えてきた」といっている事でも明らかであろう。
その佐村河内氏のイメージに添って、技術者として曲を作り譜面化したのだとすれば、最終的なイメージ決定を他者に任せた「作品」を、新垣氏が自らの作品というのは強弁に過ぎないだろうか。

実際の音楽界の作曲と譜面化の関係であるとかを調べてみれば、大学教授が曲の構想を語り生徒に譜面化や曲作りの実作業をさせることはさほど珍しくはないという。
そんな実態があるのであれば、やはり新垣氏の主張は素直に承服し難いと思う。

正直言って私は、佐村河内氏がなんと呼ばれようと構わない。
私が気になるのは、彼が真の才能を持った選ばれた一人だったとしたら、彼が天から授かった力を、その力を持たないものに奪われる事を危ぶむのだ。
彼が真の才能を持つ者でありながら、この騒動で作曲が出来なくなり「創造者」としての能力を発揮しえないとしたら、この世界に生まれるはずだった「美しい音」が永遠に失われてしまうことになる。
それは、人類が手にするはずだった至宝を、永遠に奪われてしまう事を恐れるのだ。

また仮に、新垣氏が「交響曲第1番《HIROSHIMA》」が自分の作品であると言うのであれば、新垣氏に才能は与えられているのである。
この曲に匹敵する曲を、早く世に問うべきだ。
その曲が世に示されなければ、このスキャンダルの真の決着が付くことはあるまい。

そして新垣氏が主張するように、佐村河内氏がプロデューサー的な存在として在り、そして少しでも作品の上で力になるのであれば共同作業を行うべきだ。
才能を授かった者は、それに見合った作品を作り出すためにあらゆる努力を成さねばならないと、あえて言わせていただきたい。
それが才能を持った物の責務であり、人類を代表して仕事を成すことが、選ばれた者にとっての真の幸福であると同時に、人々の希望であるからだ。


ここまでで語ってきたのは、創造者と技術者が芸術作品の上で如何なる役割分担が成されているかという問題であった。

それを踏まえてもう一つ語りたいのは、芸術作品と鑑賞者という問題である。

このスキャンダルを通じて、多くの人々が「騙された」とか「私の感動を返してほしい」と、声高に非難するのを聞き違和感を覚えた。

いったい誰に「騙され」て、誰に「感動を奪われた」のだろうか。

本来は人が何事かを、己の五感を通じて感じるとき、そこには他人が絶対踏み込めない唯一無二の感性があるはずである。
それは「芸術家」が、唯一無二の美を作る事と対応する。

つまり人が何かを感じるとは、その対象に呼応する自らの内的経験を覚醒させる事であって、それは一種の「創造行為」としてあるのだ。
したがって極端に言えば、人類の数だけ違う評価が生まれるのが正しいと信じている。

たとえばピカソの絵を見て、「子供の描いたような絵」だという印象を受けたのであれば、それはそう感じた人にとって真実であり、そこに他者が介入する事自体誤りである。
そこに第三者の介在を許せば、たちまちその鑑賞対象と鑑賞者の間の神聖な、唯一無二の「心の作用=創造行為」は失われてしまうだろう。

もちろん画家であれば、ピカソの絵の持つ構成やデッサン力の秀逸さを称賛するだろうし、美術史家であれば近代絵画にピカソが果たした役割の大きさを語るであろうが、それは専門的知見に基づく感想であり評価であって、絵画と親しんでこなかった圧倒的多数の言葉として語られる筋合いのもではないし、仮に絵画に関する専門的訓練を受けていない者が、このような言葉を発したら、それこそ詐欺師ではないかと疑うべきだろう。

ピカソの絵のが偉大だと美術会で認められていたとしても、それが自分に取っては無価値であるという判断は有って然るべきだ。

そういう個人的な評価に関して言えば、私は村上春樹氏の小説が読めない。何度もトライしたが、そのつど挫折した。
村上氏の文章・文体が、私個人のリズム韻律とどうも折り合わないらしい。
それこそ「生理的に嫌い」ということで、申し訳ないが私にとっては「嫌いな文体の作家」という感想しか持ちようがない。

そんな、鑑賞者の個性と鑑賞対象との関係は、やはり唯一無二の衝突としてあるだろう。
それであればこそ人は、自らの先天的・後天的な特徴・個性を唯一の拠り所として鑑賞対象に向き合うことで、初めて、自分にとって真に価値の或る「モノ」を見出せるはずだ

逆に言えば自らの個性を唯一の価値基準として置いていないからこそ、誰かに「騙されたり」「感動を奪われた」りするのであろう。


告白すれば、私は「交響曲第1番《HIROSHIMA》」を聞いていない。
それゆえこれから聞いて見るつもりだ。
その時、ただ純粋に響く音が、私の中で何を生み出すかに集中するだろう。
結果として、私を感動させてくれる作品であれば、生涯この曲を愛するに違いない。
そして、「私にとっての名曲」を生み出してくれたその作者に、私は感謝し続けるだろう。

正直言えば、私を感動させてくれる作品を作り出してくれるのであれば、それがペテン師だろうと、悪魔だろうと、私がこの世で最も嫌うゴキブリだろうと厭わずに賞賛を惜しまないだろう。

仮にゴキブリが私を感動させてくれたならば、私の命が嫌悪と恐怖のため絶命する事になっても、そのゴキブリとハグしキスするぐらいの覚悟はある。


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posted by ヒラヒ・S at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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