2016年05月06日

花様年華

欲望のワルツ



評価:★★★★   4.0点

この、フランス映画と見間違うばかりの、恋愛心理の交錯はどうだろう。
シーンの切替とシークエンスの長さが登場人物たちの感情とシンクロし、時として停滞し、時として熱気を帯びる。
ラテンの音楽の効果も有るとは思うが、どこか南国の凪いだような、とろりとした粘液質の空気を感じる。

この映画における恋愛を見て、この「夫に逃げられた妻」と「妻に逃げられた夫」のカップルの関係が、強いセクシャリティーを感じるのは、禁忌ゆえだと感じる。

つまりは、本来結婚制度のタブーにより交差しえない二人が、それぞれの伴侶にタブーを踏み越えられる事で、この残された二人にもタブーを犯す権利が生じたようにも感じる。

しかし実際の二人は、恋愛を前に逡巡し、彷徨する。

それは結局、この二人は結婚に取り残されたのであり、その事から生ずる制度的な禁忌を、無意識のうちに感ぜざるを得ないからだったろう。
さらにこの隣人同士でありながら、共に結婚をしている男女が、しかし部屋を間借りしているために、常に他人に監視されて不自由な状態である事も、この二人の男女の恋愛を閉ざされた秘密の関係に押しとどめただろう。

しかしそんな社会的な制約、人としてのモラルを求められるがゆえに、更に相手を求める欲望を高めたに違いない。

強い禁忌を破るためには、強い衝動を必要とするだろうし、そもそも人とは禁じられるがゆえに欲望を生み出すのではなかったろうか。

つまり、この映画は「世間=社会的抑圧」が、隠された欲望をさらに強く増進させるのだと語られている。
その抑圧下で、沈黙の内にお互いを探り合う視線と、触れ合うときのためらいがエロチックなのだ。
けっきょく、この二人にとっての「恋愛の本質」は、表に現わせない恋ゆえに、内に内に欲望を内向・沈殿させるものだったろう。

この二人には、世間のモラルから自由になれる場所に逃げ、恋を遂げるるチャンスがあったにしても、そうしなかった・・・・

それはこの二人の「愛」とは、抑圧の下で育んだ「愛」であるが故に、自由な状況下の二人であれば「愛」を失うと知っていたからだろう。

つまるところこの二人の恋愛とは、お互いの相手を真に求めたと言うよりは、社会的な制度から逃げるための共犯関係ではなかったろうか。
もちろん、相手を希求し、共に欲望を交し合っただろうが、その恋愛が社会的規制によって形造られ深化させられた。

それはあたかも、流れる音楽に駆り立てられ、パートナーを腕に抱く社交ダンスのような恋愛だったろう。

この映画の全編で流れる、ラテン音楽にしてもワルツにしても、男女の欲望を、ダンスという公的な様式の中で昇華させようという試みではなかったか。

実際この映画の中で、二人が共に踊るシーンは描かれない。

しかし、その後姿であるとか、交差する体の動きに、静止するフォルムに、否応無く隠された欲望を秘めた「ダンス=様式」を認める。

ここには、倫理という規制と同時に肉体の自由すらも制限した、しかし間違いなく深く強い「愛=欲望のワルツ」が描かれていると思った。


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posted by ヒラヒ・S at 16:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 中国映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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