2016年05月09日

ベルリン・天使の詩

想像と現実の「はざ間」



評価:★★★★   4.0点

この映画の持つ詩情が、胸を打つ。

ここに積み重ねられた映像と人々の独白の集積には、人々に対するする大きな慈愛を感じる。
この映画の主人公である、天使とは「天上=神」と「地上=人」の間に、位置する存在だったろう。
そして、この映画に登場する主人公を含めた天使の役割は、人に直接力を行使せず寄り添い、人々の喜怒哀楽をそっと記録する者として描かれている。

こう書くと「ディズニーファンタジー」的な、甘く優しい映画を想像するかもしれない。
実際の物語もそのテーマとして、人々に対する「神の慈愛」というメッセージは優しく響く。
しかしこの映画には、人間の愚行や罪悪という苦い現実も描かれ、結果として人間と人間社会の罪をも表現せざるを得なかったのは、東西分割時代のベルリンであれば、当然の事だったかも知れない。

結局、ベルリンという町はナチスドイツの中枢として世界に対する混乱の元凶としてあり、同時にナチスが崩壊してからは、東ベルリンはソヴィエト連邦の影響下に置かれ、西ベルリンは西洋資本主義陣営として、二つに裂かれ存在した。

結局この数奇な運命を持つ町は、そこに住む人々に対しても混乱と苦難を与えざるを得なかった。
それゆえ、この映画で語られるベルリンとその人々は、喜びや幸せだけではなく、悲しみと苦しみも他の都市にも増して受けざるを得なかった。

そんな人間の持つ現実世界の「苦難」を思うとき、この主人公の天使が感じざるを得ない無力感に納得がいく。

結局のところ、天使は現実世界から遊離した存在として人々の経験や事件を収録し続けても、現実を決して改変し得ないという「焦燥」をそこに見出す。

子供が無垢であることは、罪ではない。

しかしこの映画の主人公のように、人の世を知って無垢ではなくなった者は、人の世の現実に働きかけなければならないと、この映画は語っているように思う。
この主人公がサーカスの空中ブランコの少女に恋をしたのは、もう現実を生きるべき段階に至ったことを意味していただろう。

しかしまた個人的には、この現実と関わらない天使が意味したものは、人の世を映し出す「映画=虚像=想像」のアナロジーのように感じた。

監督ベンダースは「映画」が現実の物語や感動を描くにしても、その「映画」が現実世界を「救済」し得るのかと自らに問うたのではないか。

人の世の出来事を映画として描き出しても、その物語が現実世界から遊離していることに哀しみを覚えたのではなかったか。

そんな「物語としての映画」に限界を感じ、映像作家として社会の中に直接向かうのだという宣言が、この映画の本質だったのではないかと個人的には感じられてならない。

これ以後のベンダースの映画が、ドキュメンタリーの色を強くするのは、やはり現実に直接向き合い関わりたいという証明だったろう。

それは、それとして、そ〜だったのか「コロンボ」!!!
映画を見れば、ピーター・フォークの秘密が分かる!!!(笑)


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posted by ヒラヒ・S at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ドイツ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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