2016年05月31日

ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド

ゾンビによる「人間の主張」




評価:★★★★   4.0点

このメチャクチャB級の映画を取り上げるのは、この映画が自分の見た初めてのゾンビ映画で、その印象が鮮烈であるからだ。

例えば、この映画における「ゾンビ=ザ・リビング・デッド=生ける死者」という存在を、どうとらえればよいだろう。

この1968年という年は「猿の惑星」の公開された年であり、その映画にも描かれた脅迫症的な色は、アメリカ社会の不穏な状況と無縁ではなかったはずだ。
その社会情勢の陰鬱さは、この映画と通低した闇の恐怖として人々の心の中に在っただろう。
ここには、アメリカにおける公民権運動=黒人達マイノリリティの権利拡大を求める行動や、ベトナム戦争の黄色人種との闘いを、恐怖として感じとった白人達の心情が少なからず反映されている。

実際のところ、「猿」や「ゾンビ」を「黒人」と置き換えたときに、そのアカラサマな拒否反応と嫌悪感に苦笑をせざるを得ない。


しかし、理由が何であれこの映画における「ゾンビ」という存在の、オリジナリティは高く評価すべきだと思う。

そもそも映画というジャンルはその初期から恐怖や驚異を売り物にしてきた。
例えば、1902年「月世界旅行」、1920年「カリガリ博士」、1922年の「吸血鬼ノスフェラトゥ」、1927年「メトロポリス」、1931年「フランケンシュタイン」、そして1933年「キングコング」。
こう並べて来ただけで、映画と猟奇性の関係がどれほど密接だったかが知れよう。
事実、猟奇的なキャラクターを描いた作品は、いずれも大ヒットを記録している。

映画におけるヒットの要素として、新たな恐怖や驚異を描くという事がどれほど効果的かという証明だったろう。
恐怖というものを最も鮮明に伝え得るメディアが映画であるというのは、映像が持つその刺激量が文章に較べ圧倒的に高いことを考えれば、恐怖とはそもそも映画=映像的なモチーフだといえるだろう。
たとえば、フランケンシュタインの顔に刻まれた縫合跡や首から出た端子など、傷が付いた人間というイメージだけでも、どれほど強く人の感情を刺激するかは明瞭だろう。

そんなフランケンシュタイン的な傷の衝撃を拡大すれば「ゾンビ」になるだろう。
また、人を襲うという点では「吸血鬼」の遺伝子を引き継ぐものである。
この「ゾンビ」に咬まれれば「ゾンビ」という、無限拡大のアイディアは「吸血鬼」を源流とするものだ。

しかし、この「ゾンビ」というキャラクターを分析してみるとユニークな点が明らかにあり、それゆえにホラーの一つのジャンルとして確立し得たと思う。

そのユニークさとは、恐怖をもたらすのが「ゾンビという人間」である(あった?)という事実である。

かつてのホラーの主役たちは、基本的に人間以外の存在であった。
怪物や妖怪や幽霊が生み出す物語は、その基本的なキャラクター設定によって、神の化身であるのか悪魔であるのかの違いはあるにしても、等しく「神」というコインの裏表であった。
そこには「神」を真中において、人間存在の善悪を問うという構図を内包していた。

しかしゾンビにおいては、そこに神の介在を見出しづらい。
なぜなら、ゾンビとは「壊れた人間」であって、それは何らかの絶対者の化身というより、「人間のなれの果て」として見るのが素直な解釈だからだ。
すなわち「ゾンビ」によって映画史上初めて、恐怖は「人」それ自体に在るという真実に人類はたどり着いたのだ。

つまりは恐怖が神や悪魔など人間の外部からもたらされるものという、従来の恐れの概念が覆った初めての恐怖キャラクターなのである。


であればこそ「ゾンビ」は集団化し、正常な人間を次から次に襲い続ける。
それは「ゾンビ」が、何らかの「超絶的な力」の発露としてあるのではなく、普遍的な「人の持つ異常」を表しているからに違いない。
人が等しく持つ「異常」であれば、その顕在化は即ち人類全体を覆っていくのが必然であるだろう。

そう考えて来た時、初めて「ゾンビ」を殺す?事に対する、罪悪感の無さが納得できるのだ。
今や、西部劇のインデアンのように絶対的悪者を想定しづらい現代社会にあっては、そのうち「エイリアン」ですら悪役として殺してはいけないと言われる可能性すらある。
この暴力と破壊という表現に関して、あまりに無節操に拡大し続けてきた映画界の自業自得の規制なのだが、「ゾンビ」に関しては「斬り捨て御免」という雰囲気がある。

それは、上で述べたように「ゾンビ」が人間自身の「悪の象徴」として存在するが故に、たとえば人体の「ガン細胞」を取り除く事と同様に、むしろ必要な行為と見なされるからではないだろうか。

こう整理してきて始めて、「ゾンビ」が笑いに結びつくのも了解されるのだ。
つまりは人間自身の醜さ滑稽さ異様さという「人間存在の劣悪さ」を「ゾンビ」として目の当たりにする時、人はそのグロテスクなデフォルメされた人間戯画を見て、自らも持つ欠点の表れに苦笑と憐憫と、そして多少のシンパシーを持つに違いない。

総括して「ゾンビ」という存在を考えた時、それは「恐怖の人間回帰」、「恐怖の民主化」だと言える。

そう思えば「まぁ〜身内のやるこったから、大目に見てやんな」という親類的なシンパシーも感じるのである。

そしてまた、その源流が、アメリカ白人層の対マイノリティーに対する恐怖に端を発していることを考えると、その今となっては旧弊な価値観が笑いを誘うのかもしれない。


関連レビュー「猿の惑星」:http://hirahi1.seesaa.net/article/428835678.html

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posted by ヒラヒ・S at 21:00| Comment(2) | TrackBack(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ゾンビのユニーク点「ゾンビという人間」という言葉!
うーん凄いそう来たかあ〜(*'▽')
相変わらず勉強になりました!
Posted by いごっそ612 at 2016年05月31日 21:48
>いごっそ612さん
とんでもゴザイマセン。ありがとうございます。
コチラこそ、ブログとしての表現としてどうあるべきかの、一つの「理想形」だと思っております。
今後ともよろしくお願い致します。
Posted by ヒラヒ・S at 2016年05月31日 22:19
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