2016年07月22日

あえて『アニメか?』アオリにのっかってみる

批判を呼んだ「日本文学振興会」の全面広告


ダウンロード.png人生に、文学を。
文学を知らなければ、
目に見えるものしか見えないじゃないか。
文学を知らなければ、
どうやって人生を想像するのだ(アニメか?)

読むとは想像することである。
世の不条理。人の弱さ。魂の気高さ。生命の尊さ。男の落魄。女の嘘。
行ったこともない街。過ぎ去った栄光。抱いたこともない希望。
想像しなければ、目に見えるものしか知りようがない。
想像しなければ、自ら思い描く人生しか選びようがない。

そんなの嫌だね。つまらないじゃないか。
繰り返す。人生に、文学を。
(一年に二度、芥川賞と直木賞)

「日本文学振興会」の全面広告
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私はヘソ曲がりで、偉そうな奴、権威を振りかざす奴がキライだ。
勘違いしないで欲しいのだが、偉い奴がキライなのではない偉そうな奴ががキライなのだ。

例えば、昔のこと、哲学や歴史、宗教、という人文的なアカデミズムを「大説」と読んだような偉そうな奴がキライだ。

それに対し、有ってもなくとも良いような話を、一生懸命書き続け、人からあんなのは、「小説」だとバカにされても、親に勘当だ!お前などくたばってしまえ(二葉亭四迷)と言われても書き続けた人は偉い奴だと、尊敬している。

実際、昔の小説家などというのは世間的に地位が低く、バカにされていた。
何せ明治維新の、内患外憂のご時勢に、あってもなくても良い文章を書く奴の気が知れないという、世間一般の感覚だったのだ。
明治の日本人は、ミ〜ン〜ナ、兵隊さんになって日本を守ろうとか、産業を興して国を強くしていこうとか、政治家になって日本の地位を上げようとか、とにもかくにも「富国強兵」の為に一億邁進していたのだ。
それなのに「我輩は猫である」ですぜ・・・・・こりゃ怒られるでしょう。

でも、そんな「アウト」な人たちが書く「アウト」な小説を、アマノジャクな私は愛してきた。
本来「文学」なんて人間のクズのやることだったからこそ、人々は近代の押しつぶされるような時代の軋みから逃げる手段足りえたのだろう。

しかし、今回「文学」の総本山とも言うべき、日本文学推進ナンチャラという所から「文学偉い」みたいな広告があって、偉そうな奴がキライな私の血が騒いだのだ。

ダウンロード.png

盛者必衰の理

だいたい、「オレは偉いと」言い出したら末期症状だ。
しかし「ロクデモナイ」と言われていた、小説や文芸がオレは偉いと言うようになるまでに何があったのだろう。
しかも今や、本人が「文学」だと威張ってみても、衰退の一方で見ていて無惨ですらある。
この「文学」の経験した栄枯盛衰とは、実はあらゆる分野に共通の過程ではないかとも感じる。

黎明期
そもそも新しいジャンルが生まれる時、社会は拒否反応や侮蔑を示す。
それは、新奇なモノに対する拒否反応であり、「立派な大人と言われるような人=権威者」は自分の価値観を侵食されたくないという感覚から、従来の価値観に収まらない新しいものを否定する。
小説家が三文文士と言われ、映画が活動屋と揶揄されたのは、古い権威者達から価値が低いと見られたからだ。

しかし同時に、新しい分野、ユニークな形は、新しい刺激として人々の心に、好奇心と感動を生む。
つまるところ古い世代の権威者が否定しても、小説や映画が消滅もせず、ましてや時代が下って芸術の本流に成り得たのは、そんな権威者の声以上に、ひとえに「大衆=マス」の支持を勝ち得る刺激と力があったからである。
興隆期
そして、人々のニーズのあるところ金と人材が集まる。
それは小説なり映画なりの当該ジャンルの隆盛期であり、最盛期へと向かうだろう。
その、中期に有っては大衆の望みに沿った「大衆向け商品」が8割方を占めるはずだ。
そして、その大衆作家の中から卓越した技術を持つものが、作家性を発揮し芸術的表現力を持ち得る。
同時に隆盛期に至れば、「評論家」や「アカデミズム=学術的研究」が作品の質を語りだす。
そして、彼ら権威者「評論家・アカデミズム」は、そのジャンルにおける芸術性の高い作品を推奨しだすだろう。
そして、ここに権威が生じるのである。
終焉期
そして往々にして権威や芸術という言葉が出てくると、そのジャンルの保守化と弱体化が始まると思えてならない。
けっきょく、権威とはあるジャンルにとっての、優劣の価値体系を作ることを意味するだろう。
つまり、ある作品を「権威」が作る価値体系のどこに位置するかを定め、評価を与える事であるはずだ。

しかし本来、一番分かりやすい価値判断は、どれだけ売れたかという出版部数を基準とすることだろう。
この市場価値という基準を使えば、概ね読者の満足と作品の価値はシンクロするはずだ。
つまりは面白いから売れ、売れるから面白い作品だという基準だ。

しかし、ここに「権威」に基づく別の価値体系が導入されることで、読者と作品との蜜月関係を断ち切ってしまう。

その良くある価値基準の一つが、面白いからといって良い作品だとは限らないという視点の導入だ。
単純に言えば、女性や、犯罪を犯したりする小説は、面白いとしても、道徳的に良くないではないかというような、「面白さ」以外に、「真・善・美」をその価値として導入するものだ。
この「正しさ」という価値は、しばしば、国家や教育者など個人を集団の中で管理しようとする「権威」が多用してきた。
単純に、悪いものをみて、悪いことをされたら、管理するのが大変だという、短絡的指導綱領によるのだろう。

また別の価値として、もう少し手が込んでいるのは、芸術性という価値基準だ。
芸術性の評価基準では大体、文章表現の上手さ、哲学的な命題の価値、文学的形式の価値(文学に新たなスタイルを生み出した)とかという基準を総合して、文学的価値が高いと「おっしゃっている」ようだ。
この芸術性を持ち出されると話はヤヤっこしくなるのだ。
これは大体において、「評論家」「学者=アカデミズム」「大家の作家」が言うと相場が決まっているだろうが、完全にそのジャンルのインサイダーであり、一般大衆には関わりのないところでその価値を語っていると思われてならない。

例えば、「Aという作家の文章表現力は、近代100年の小説家の誰よりも感覚的で精巧である」とか、「この作品には人間存在の魂の彷徨が、生物学的な必然から生じたことが示され、それは一種の宇宙論的な叙情詩に昇華している」とか「文学とは構造としてア・プリオリであるべきにも拘らず、この作者は軽々とア・ポステリオリに文学を語ってみせる」なんて事を、言ったりする。

そうすると、聞いた方は「偉い先生」が言っているんだから、これは「偉い、良い本」だと信じる。
私も信じて読んで裏切られるのだ。何度も、何度も、裏切られてようやく気が付いた。
この「偉い先生」達が「良い」ということの背後に、一般の人間にはどうでもいい文学史や哲学的な価値があって、それを基準にして「良い」と言われているのだということに。
そして、それは先生方にとって価値があるのであって、私には(そしてタブン文学関係者ではない一般人にも)関係ない。
つまりは、権威を作る先生方は「文学内における過去の歴史や価値」を背景にして本を読み、その価値を語る。
しかし、私は「文学内における過去の歴史や価値」はどうでも良い。
お金に見合った対価を、その本が返してくれるかどうかが問題なのだ。
違いますか?


結局この間違いの本質は、インサイダーたる「権威者」達は、どれだか売れたかの「量」ではなく「質」で判断しようとするところにある。
その際、「質」を判断する「権威者」は、そのジャンルの最も高度な技術を持つ作家か、もしくは「評論家・アカデミズム」ということになる。
しかし、その「質」はインサイダーが何十年もかけて蓄積した、「文学」の歴史や技術の知識を元にしたもので、私のようなまともに本を読んでいない人間には判断できない価値なのだ。

だが考えてみて欲しい、その知識とは、いわば「文学」を職業とする人達の専門知識であり、実は会社員が自社の製品の商品がどう変わったかという情報を述べているのと変わらないではないか。
本来であれば、「この文学はデスねコレコレの点が新しく、売りになってます」と、誠心誠意売り込むべきものだろう。
それなのに、「文学の価値」が分からないなんて「ケシカラン」なんて事を口走るのはいかがなものか。

しかしこと「文学」というジャンルに関しては、偉大な価値を持っているという無批判の共通認識が有る。
それゆえ、その価値を謳いあげる「権威」が発生するのだ。

けっきょく、「権威」というのは無意識の内に人々を信じこませる「価値」であり、その「価値」は一般市民から隔絶した方が都合が良いのは、人が簡単には判断できない領域や蓄積を基にすれば、人々は検証をする意欲も無くなり無批判にその価値を絶対視しなければならないからだ。

実際、医者に癌だといわれて、自分で検証する事は不可能だろう。
つまりは、医者の権威を無批判に受け入れるしかないのだ。

文学もすでに、この「医師の診察」と同様に、ある種の訓練を経なければ十分その価値が汲み取れないほどの、高度な技術と、長い伝統を持ってしまった。

そんな「文学」と「一般市民」の断絶を埋めるのが評論家の役割で有るだろうが、今現在の「権威者」は自分の蓄積知識を基にして話を始めるため、そこまでの目配りが出来ていないと感じる。

そして言われた方は、何十年も文学をしてきた偉い先生方が良い本ていうにも関わらず、私には意味が分からない・・・・・私には文学なんて分からないんだとなり、ついに遠ざかってしまうのだ。

こうして、その「文学の権威」の成立が、「文学を衰退」させ、ついには「文学を殺す」のだ。

ダウンロード.png

この「権威」と一般世間との、はなはだし距離は最早埋めようがないぐらい乖離している。
この「権威」が謳う価値と、読者の持つ価値が、あまりにかけ離れているがゆえに「文学」離れを引き起し、ついには「文学」をこの世界から消滅せしめるのである。


文学の再生への提言
たとえば、夏の読書週間に古典的な文学作品を読ますのを即刻やめるべきだ。
今の小学生、中学生が読んで面白いわけがない。
ラノベの面白い作品を読んで、本て楽しいという実感こそが「文学」復活の第一歩だろう。


更に言えば、今「文学」にとって一番いいのは、アニメ作品を原作にして、誠実に読者を楽しませようと力を込めた作品を、最も力のある文学者に書かせることだ。

そこにアニメとは違う「文学」の価値を読者が感じられたら、少しは「文学」も長生きできるかもしれない。

村上春樹先生あたりに「あのはな」の執筆依頼されたらイカガでしょう?


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posted by ヒラヒ・S at 21:37| Comment(7) | TrackBack(0) | 文学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
|д゚)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・💦


パスで私にはむりっす!
Posted by ともちん at 2016年07月22日 20:32
今日の記事は難しいですね(^^;
Posted by いごっそ612 at 2016年07月22日 20:37
>いごっそ612さん
すいません途中で上げてしまいましたが・・・削除するかもしれませんm(__)m
Posted by ヒラヒ・S at 2016年07月22日 21:19
>ともちんさん
すいません途中で上げてしまいましたが・・・削除するかもしれませんm(__)m
Posted by ヒラヒ・S at 2016年07月22日 21:20
突然のコメント、失礼いたします。はじめまして。
書評でつながる読書コミュニティ「本が好き!」を運営しております、和氣と申します。

貴ブログを拝読し、ぜひ本が好き!にもレビューをご投稿いただきたく、コメントさせていただきました。

本が好き!:http://www.honzuki.jp/

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よろしくお願いいたします。
Posted by 本が好き!運営担当 at 2017年01月29日 15:27
>本が好き!運営担当さん
ご連絡ありがとうございます。
拝見させていただき、今後検討させていただきます。
Posted by ヒラヒ・S at 2017年01月29日 16:54
ヒラヒ様

ご返信いただき誠にありがとうございます。
今後、様々な本のプレゼントも行ってまいりますので、ヒラヒ様のお役に立てれば幸いです。
http://www.honzuki.jp/book/inventory/top.html

ご登録お待ちしております。

今後とも本が好き!をどうぞよろしくお願いいたします。
Posted by 本が好き!運営担当 at 2017年01月30日 15:37
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