2017年03月02日

映画『勝手にしやがれ』ヌーヴェルヴァーグの衝撃/感想・ネタバレ・あらすじ・ラスト・解説

鮮烈!ヌーヴェルヴァーグ宣言



評価:★★★★  4.0点

この1959年の作品が語るものは、映画がスタジオを離れて、メジャーな大資本を背景としなくとも、志さえあれば作れるという宣言だったはずだ。
その結果として、一個人の個性のままに映画を撮る「作家性」の表現がより容易となった。
それは、ハリウッドに対する見果てぬ夢が紡いだ、止むに止まれぬ衝動だったように思えるのだ・・・・

勝手にしやがれ・あらすじ

マルセイユで盗んだ車でパリに向うミシェル(ジャン・ポール・ベルモンド)は自動車泥棒。スピード違反で追いかけられ、追いつめられ白バイの警官を射殺してしまう。金のないミッシェルはパリで、遊び相手の女の部屋を訪ね、財布から金を盗り街に出る。旅行案内所に勤める悪友アントニオへ約束の金を引き取りに行くが、現金ではなく小切手だった。小切手を現金に代えてくれるベリユッティという男を探しにパリの街に出る。その頃には、白バイ警官殺しの犯人がミッシェルだと警察は知り、刑事が彼を追いはじめる。ミッシェルは、刑事の追跡を振り切り、今夢中になっているアメリカからの留学生パトリシア(ジーン・セバーグ)に会いに行く。彼女はヘラルド・トリビューンの新聞を街頭で売るアルバイトをしていた。ミッシェルはパトリシアと一夜の関係を持っており、今晩も同じベッドで寝ようと誘う。しかし、パトリシアはトリビューンの記者とデートの約束があった。ミッシェルはパトリシアのアパートに無断で泊り込む。翌朝帰ってきたパトリシアとミシェルは、ベッドの上で互いを求める。彼女はトリビューン紙の記事を書かせてくれるというので、飛行場へ作家のインタビューに出かけ、ミッシェルは街で盗んだ車を盗品故買商に売りに行く。しかし指名手配中だとばれて、その故買商を殴り立ち去った。ミッシェルは小切手を現金に買えて、イタリアに高飛びしたいと、ベリユッティを探すが見つからず、逆に新聞に載った手配写真に追い詰められ、パリの街をさ迷う。新聞社に報告に戻ったパトリシアを刑事が訪ね、彼の居所を知らせろと迫る。もし隠すような事があれば強制送還すると脅す。それでもパトリシアはミシェルと会った。二人はモンマルトルの酒場でベリユッテイを捕まえた。しかし小切手は明日にならないと現金化できないという。しかたなくその晩、二人はベリユッティの知り合いのスタジオに泊った。ミシェルはパトリシアにイタリアに行こうと語り、彼女も頷く。しかし、二人の未来は翌朝に変転する・・・・・・・・

(原題 À bout de souffle/英語題 Breathless/製作国フランス/製作年1959/91分/監督・脚本ジャン・リュック・ゴダール/原案フランソワ・トリュフォー)

勝手にしやがれ受賞歴


1960年ベルリン国際映画祭銀熊賞・監督賞

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勝手にしやがれ解説

ヌーベルバーグの紹介

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この映画は1959年に公開され、世界中にヌーヴェルヴァーグという名の映画スタイルを、鮮烈に印象づける一本となった。
その映画スタイルはあまりにも従来の映画文法と違いすぎ、世間から賛否両論を生むほどの革新性に満ちていた。
映画「ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー」予告

実際、世界中の映画人はこのフランス発のヌーヴェルヴァーグの波に、吞みつくされたといっても過言ではない。
アメリカに渡りニュー・アメリカン・シネマを生み、日本でも日本アート・シアター・ギルド(ATG)がヌーヴェルヴァーグに触発され、新たな表現を模索した。
当ブログ関連レビュー:
『死刑台のエレベーター』
ルイ・マル監督の傑作ミステリー
ヌーヴェルヴァーグを解説してます。

しかし、今この映画を見て、その撮影スタイルが斬新だと、現代の映画に慣れた目から見えるかどうか・・・・・
例えば、手持ちで被写体を追いかけるカメラワークだとか、突然切り替わるようなモンタージュだとか、ドキュメンタリータッチのブレた映像だとかで、その斬新さを感じられるだろうか。
カット割りの新手法
ジャンプカット:ショットの途中を飛ばして、直接繋ぎ合わせる映像編集手法。
ファストカット:短いショットを多く用いて、頻繁に場面転換する編集手法

手持ちカメラでの街頭撮影

なぜなら、これらの技法はすでにスタンダードなカメラワークとして、現代の映画話法の一部と化しているからだ。
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つまり、当時斬新でスタイリッシュだったスタイルは、誰もが真似をする事で手垢の付いた陳腐な表現へと変わり、ついには流行遅れにすら見えはしないかと危ぶむ。

しかし、当時世界に衝撃を与えた斬新さが現在この映画から感じられないとしてもこれらのカメラワークが撮影予算のためにシッカリ固定して安定した構図を作りえなかったことや、長すぎる時間をカットしろと求められた事が原因だとしても、間違いなく世界で始めて商業映画として表現された、自由な映像表現であったということは、歴史的事実として押さえておきたい。

更に言えば、このフランスのヌーヴェルヴァーグ映画作家達は、批評家としての素養はあったものの、映画の現場で職業的な訓練(助監督などの下積み)を経ておらず、資金的にも苦しい中で、それでも映画を撮りたいという情熱により作り上げられた作品なのである。


それゆえ、従来の映画文法から逸脱し、映像の荒さや手持ち撮影というラフさも生じた。

しかし、その乱暴な映像であっても、従来の手法に従わなくとも、映画として成立すると言う事実が、映画の可能性を広げ、同時に映画作家の間口を広げた事も間違いない。

つまり、ヌーヴェルヴァーグの示したものは、資金がなくとも、映像の基礎的な研鑽がなくとも、志があれば人は映像作家たりえるという事実だったに違いない。

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勝手にしやがれ感想

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正直に言えば、上で述べた映画史的な要素や、公開当時の衝撃は、私個人もただ想像するしかない。
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従って、そんな歴史的な見地を抜きにして、この映画を見てどうだろうか?

白黒で、画面も粗いし、脚本もシッカリと構築されてはいない。
更には、フランス映画特有の言葉の洪水もあるし、小資金のスケールの小ささも否めず、正直伝える技術としての荒っぽさも目立ちはする。

しかし、それでもこの映画には見逃せない情熱が、迸る鮮烈さが、画面に満ちていると思う。

しばしば思うのだが、映画に時代が映り込む、時代が乗り移ることがありはしまいか?

この映画はそんな一本だと感じる。

さらに俳優陣を見てみれば、ジャン・ポール・ベルモンドの斜に構えたスタイリッシュな立ち姿を見て、つい「イナセ」という言葉を思い出してしまった。
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ジーン・セバーグの個性も際立っている。役柄のアメリカ娘と感じられるかと問われれば、むしろフランス的なコケティッシュを感じるのだが、当時のフランス人から見たアメリカ娘のイメージは、彼女のような存在だったのかもしれない。

この俳優2名は、映画の中で途方もない存在感を見せるのだが、それもやはりこのヌーベルバーグという、映画に対する熱い思いが迸ったがゆえの、なりふり構わぬ情熱の発露が生み出した力だったろう。

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更に長くなるのだが、この映画のストーリーを追ってみた時、フランスの若きチンピラがアメリカ娘に恋をし、振り回される物語となっている。
そして、それこそがヌーベルバーグ作家達の、本質的な創造の源泉ではないかと思えてならない。

katte-pA.jpg唐突に聞こえるかもしれないが、第二次世界大戦によってフランス映画界の栄光がナチス占領下で失われたとき、その空白に大量に流れ込んだのがハリウッド製映画だった。
1945年の終戦当時にジャン・リュック・ゴダールは15歳、フランソワ・トリュフォーは13歳で、まさに思春期に、ハリウッド映画を浴びるほど享受しただろうことが、ヌーベルバーグの底流で流れる情熱の源だと思えてならない。

その輝かしい「ハリウッド映画=アメリカ文化」に対する憧れが、長じてヌーベル・ヴァーグ作家達に映画を撮りたいという夢を抱かせた。
しかし、ハリウッド映画のような作品を撮りたいという熱い情熱はありながら、ハリウッド映画のような環境では撮りたくとも撮れないフランス人映画作家達の、フラストレーションがそのまま映画として立ち上がったのが、この『勝手にしやがれ』ではなかったろうか。

USA-flag.png求め続けるフランスの若者に、なびきそうでなびかない、愛してるようで打算的、欲しがりながら突き放す、アメリカ娘という構図。
これこそ、彼らのアメリカ文化に対する憧憬と、決してハリウッド的映画を作りえない現状、さらにそこから生まれた反発が、反ハリウッド的な映画の追求へと導いたのではなかったか。

しかしこの映画にある、求めても応えてくれない「アメリカ娘=ハリウッド映画」への愛や反発を、条件が悪くとも、技術が伴わなくとも、見る前に飛べという「勝手にしゃがれ」状態で表現した結果がこの映画ではないか。

つまりは、ハリウッド映画に対する片思いの果てに、その「恋心」がフランス的に変換され、爆発したものこそ、この映画でありヌーベルバーグという様式だったと個人的には確信している。

この映画はアメリカで1983年に『ブレスレス』としてリメイクされた。
アメリカの車泥棒をリチャード・ギアが演じ、相手役がフランス人留学生(ヴァレリー・カプリスキー)というどこかスットンキョウな映画だった。フランス版と見較べると、アメリカのフランス・コンプレックスが見えるようで面白い。


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以降

勝手にしやがれ・ネタバレ

を含みますので、ご注意下さい。
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(あらすじから続く)
しかし共に逃げようと言いながら、翌朝パトリシアは警察に密告した。
そして、ミシェルに“あと十分で警察が来る”と告げた。ミッシェルは外に出て、ベリユッティから金を受け取る。

【意訳】
ベリュッティ:アミーゴ!車を停める。/ミッシェル:警察が来る。/ベリュッティ:お前の金だ/ミッシェル:アメリカ娘が俺を売った。/ベリュッティ:乗れ!/ミッシェル:イヤだ、行け!/ベリュッティ:乗れ!/ミッシェル:イヤだ、ここにいる。/ミッシェル:もう十分だ・・・疲れちまった・・・俺は寝たいよ。/ベリュッティ:気でも狂ったのか/ミッシェル:警察に捕まっても、死刑にはならないだろう。しゃくだが女のことが頭から離れない。/ベリュッティ:俺の銃を持って行け。/ミッシェル:いらない/ベリュッティ:バカを言うな。/ミッシェル:しまっとけ。(警察官が到着し、ベリュッティが銃を投げ、それを拾い振り向くミッシェル。それを見た警官が発砲する)


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勝手にしやがれ・ラストシーン

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撃たれたミッシェルは、よろめきながらも逃げる。

【意訳】
ミシェル:まったく最低だ/パトリシア:彼はなんていったの/警官:あなたは本当に最低な女だと。/パトリシア:最低だっていう意味が分からない

この映画は素直に見れば、「タナトス=死に向かって走る男」と「エロス=欲望に向かう女」の葛藤の物語と読める。生は死に優越するが、しかし敗れし死の方が美しく記憶に残る。
映画史に残る、最高にクールな死に様だと個人的には思う・・・・・・・・・

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posted by ヒラヒ・S at 17:18| Comment(4) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんばんは!ジャンさんだと「気狂いピエロ」ですよね〜( ̄▽ ̄)♪白黒がいいですね。何かいい感じの映画です。
Posted by ともちん at 2017年03月02日 18:33
>ともちんさん
ありがとうございます(^^)「気狂いピエロ」も、近々投入予定です。
この記事に繋がる感じになりそうです・・・・・
Posted by ヒラヒ・S at 2017年03月02日 18:44
おっ、レビュアン・ローズ王道の超古い映画来ましたね。
50年代とは・・流石に未見というか・・レンタルでもあるんすかね?
どうやって観ているんですか?
Posted by いごっそう612 at 2017年03月02日 21:05
>いごっそう612さん
ありがとうございます(^^)昔のネタで生きてます(^^)
これはDVDも持ってますが、近所のツタ屋にはありました(^^;
映画史シリーズと名前つけて、シリーズにしましょうか・・・・
Posted by ヒラヒ・S at 2017年03月02日 21:54
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