2017年01月08日

映画『おとなのけんか』紛争の本質・感想・あらすじ・ネタバレ・ラスト

子供のケンカのような「おとなのけんか」



評価:★★★★  4.0点

むかし遠足で級友が勝手に、私のオヤツを食べたことが有った。
お互いにもめまくって、ついには今すぐ返せと迫った事がある。
そうしたところ、涙眼の相手は何を思ったか「今出す」と言うと口に指を突っ込み・・・・・・失礼。

この映画は、そんな子供のケンカのような「おとなのけんか」を描いた一本だ。
「おとなのけんか」ストーリー

ニューヨーク、ブルックリンで11歳の男の子二人が喧嘩をし、ついには一人は顔を棒で殴られた。子供達二人の両親が話し合いのため集まることになった。被害者の親は良識的な市民であるロングストリート夫妻、夫マイケル(ジョン・C・ライリー)は金物商を営み、妻ペネロピ(ジョディ・フォスター)は作家でもある。加害者の親はカウワン夫妻であり弁護士の夫アラン(クリストフ・ヴァルツ)と、投資ブローカーの仕事に就くおとなのけんか妻ナンシー(ケイト・ウィンスレット)で、ロングストリート家に謝罪に訪れた。お互い棘を見せつつも、平和的に収まったはずの話し合いは、カウワン夫妻が帰路に着こうとすると、なぜか話が後戻りし再び妥協点を探る事になる。何度も引き戻される話し合いは、次第に激しさを増し、それぞれの利害が露になっていくのだった……。

(原題Carnage/製作国フランス・ドイツ・ポーランド/2011年/79分/監督ロマン・ポランスキー/脚本ヤスミナ・レザ、ロマン・ポランスキー/原作ヤスミナ・レザ)
========================================================
「おとなのけんか」受賞歴
========================================================

2011年第68回ヴェネツィア国際映画祭、金若獅子賞

========================================================
「おとなのけんか」感想・解説
========================================================

この映画は、子供のケンカのような「おとなのけんか」を描いた一本だ。
Carnage.jpg徐々にエスカレートしていくさまは、見ているこちらですら、イライラしストレスがたまるほどだ。
客観的に見れば馬鹿な奴等だと笑っていら
れるのだが、この日常で起こりえる事件を
基にして、智的で豊かな恵まれた生活をし
ている人々が、揉め続けた先にエゴイステ
ィックになっていく様子を見ていると、こ
の映画は観客側に「お前もこうなるだろ?」と詰問されてるような気になってくる。
何せ原題は「大虐殺」だ、覚悟した方がいい。

ジュディフォスターインタビュー

【インタビュー大意】
[質問:本作の設定は?]二人の子供が喧嘩をし二組の親が交渉をする、4人は節度のある大人で知的レベルも高く、上流中産階級に属して、話し合いは上手く行きそうに思えるのに実際にはどんどん悪くなる。
[質問:舞台を見たか?]実は券を買ったけど仕事で行けなくなった、見ると恐くて演じられない可能性もあるから良かったかもしれない。見てなくてもドキドキするけど、見たらもっと緊張した。
[質問:どんな映画か?]各キャラクターが書き込まれ個性が際立っている。人間の関係の脆弱さ、身に付いた体裁の愚かさを描く。セリフの全てがお互いの関係性を際立たせている、良い脚本。静かに始まりテンポ良く展開し火が付く。「大人のけんか」は良いアイデアで、年齢を重ねないと分からない所もあるけど、単純な事を単純に描いている、ちゃんとした大人が壊れていく姿を描いている。
[質問:映画的か?]いいアイデアで心理学的な背景がある、人の相互作用でどう怒らせるのか、ケンカする2時間を切り抜いている。それをリアルタイム撮影に挑戦した。カメラが切り替わっても演技をし続ける必要があった。でも脚本のおかげで意識の切り替えは容易だった。
[質問:密室劇は魅力的か?]6週間を過ぎスタジオを出たいけど、これまでの密室劇の経験が役立っている。こういう劇だと4人が親しくなる。みんなヤケクソだから、冗談抜きで、みんな良い人で一番の友情を築けた。会えなくなるのが寂しい。

映画の話し合いは最初のうちは、双方とも礼儀を持って応対しているが、徐々にトゲが現れ出す。
話の区切りが付いて帰ろうとするたびに、気に障る言葉が出てまた逆戻りするところなど、コントかと思う。
carnage-poster.jpgまとめようとすると誰かが異議を唱え、その歪みが少しづつ拡大していくところなどは、見ていてほんとにイライラする。
「どうしてそうなるの」「もう〜タイガイにしろ!」などと言いたくなるだろうが、これが世界の現実だ、しっかり見つめよう。

どんな偉そうな理由を付けたところで、揉め事とは紛争や虐殺だろうと戦争であっても、この映画で描かれたような利己主義から起きていると、この映画は告げているのだ。
その揉め事解消のための外交的努力から始まって、お互いの利害の一致を目指してもその溝が埋まらないとき相互の主張は強くなり、ちょっとした偶発事件を元に武力衝突が始まる。

それも、事故だという観点から外交的に収めようとしても、相互不信が解消されなければ、ついには理性も吹き飛び全面戦争に突入し、ついには世界が崩壊するというわけだ。

Carnage-neti.jpgこの映画は実に丹念にその「揉め事・紛争」のエスカレーションの過程を描いており、それゆえ人間の理性など最終的には何の役にも立たないことを思い知らされ、自己嫌悪に近いフラストレーションを観客に抱かせる。
しかし、それこそがこのドラマの狙いだったろう。

たかだか70分見ただけで、こんなにストレスを感じるのだとすれば、実際の紛争当事者達はどれほどの苦悩を抱えているか、想像するだけでも気が滅入る。
このシュミレーションを目の当たりにして、現実の紛争地にいる人々の気持ちを想像してみろというわけだ。

carnage-tate.jpg
それゆえどれほど鬱陶しくとも、特に平和な世界に住む人々はこのストレスを我が事として注視しなければいけないだろう。

この映画の、何千倍、何万倍の苦痛が世界のあちらこちらで、今このときも生じているのだ。

やはりこの悲劇的な結末を迎える前に、妥協点を見出す努力を成さねば成らないと個人的には思う。

本当に、この作品は「ドラマ=劇」として高い完成度を持っていて、これが舞台上で一期一会の姿で目前に繰り広げられたら、その迫力は如何ばかりかと思う。

しかし一番感心したのは、舞台劇をもとにして、その表現が舞台的ではなく、映画的な魅力に満ちていることだ。
カット割りやモンタージュなど舞台劇である事を忘れさせるほど見事で、たぶん私が舞台を見たとしても、映画を懐かしんで楽しめないだろうと想像する。


実に都会的で、アイロニーに満ちた、しかし同時にメッセージの強い作品だと思う。
出演者の迫力有る演技も含め、必見ではないだろうか。

carnage-polanski.jpgしかし、ホントにロマン・ポランスキーが撮ったの?

嘘でしょう?

ポランスキーにしてはセンスが良すぎるって!

この映画、主演がジェーン・フォンダで、監督がウッディ・アレンだって!

ウソジャナイモン!!

ウルサイヤい!ぜったい、ソウダモン!

吐くぞ!

クリストフ・ヴァルツのインタビュー

【インタビュー大意】
[質問:映画的か?]私は密室で演じるのが好きなんだ。この監督の密室劇は素晴らしいと思う。この映画が完全に映画的だとは思わないが、ロマン・ポランスキーが撮ると映画になる。
[質問:密室劇は魅力的か?]密室劇が魅力的になる必須要素ではないが、今回は3人の共演者が密室を楽しませてくれた。才能と知性と洗練された大人の役者達だから。密室劇自体が魅力に寄与しているわけではない。
[質問:脚本を毎日通しでリハーサルしたが?]そう、いろいろなオプションや可能性を確かめられた。まだリハーサル中だがそうして作り上げてる。今回はリハーサルは不可欠、もちろん相互理解のためにリハーサルで演技を練るべきだと思う。本番で極端な演技をすればその撮影が使われてしまう可能性がある。リハーサルをすれば事前にやってはいけない演技が分かるし、演技の足がかりもつかめる。普通の映画ではここまでリハーサルに時間はかけない。


========================================================
スポンサーリンク

========================================================
========================================================
以降「おとなのけんか・ネタバレ」を含みますので、ご注意下さい。
========================================================
========================================================
========================================================

子供のけんかを離れて、4人の間でそれぞれの人間性まで責め始め、ナンシーはケーキを食べすぎ吐くしまつ、それでも話し合いに酒まで入り、事態はますます収拾がつかなくなる。
カウワン・ナンシーが酔っぱらうシーン

【意訳】
ナンシー:みんな怪物よ!怪物!/アラン:もう止めとけ/ナンシー:イヤ!もっと飲むの、もっと酔いたいの!このメス犬は私のバッグを壁に投げつけたのよ!でも誰も助けてくれない!私は飲んで酔い潰れたいの!/アラン:十分酔ってるだろう/ナンシー:私達の息子をどう犯罪者みたいに、この女が呼んだか分かってるの?この家に来て努力してるのに、こいつ等は我々を侮辱し、威嚇し、この星の良い市民になれと説教したのよ!私はうちの子がアンタの子を蹴っ飛ばしてくれて喜んでるわ!私はアンタの人権とやらでお尻を拭いてやる!/マイケル:ちょっと飲んだだけで、スゲー!

========================================================
おとなのけんか・ラストシーン
========================================================

canarage-last.jpg

大人達の「大虐殺」の修羅場をよそに―
子供達はあっという間に仲直りして共に遊び、アランが捨てたハムスターは動物虐待も何のその、今日も元気に公園で暮らしていた・・・・・・・・・



スポンサーリンク
posted by ヒラヒ・S at 18:19| Comment(4) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月22日

『死刑台のエレベーター』ヌーヴェルヴァーグ意味とあらすじ・ネタバレ・ラスト

ルイ・マルの見た世界



評価:★★★★  4.0点

このルイ・マル監督の若干25歳の劇映画デビュー作は、犯罪映画=フィルム・ノワールとしての力と共に、ヌーヴェルヴァーグの鮮烈さを保持したフランス映画らしい作品だと感じる。
この映画のデザイン力の高さ、イメージの洗練に寄与しているのが、ジャズ・トランペッターのマイルス・デイヴィスの演奏であるのも間違いない。

<死刑台のエレベーターあらすじ>

武器商社に勤めるジュリアン・タベルニエ(モーリス・ロネ)と社長夫人フロランス・カララ(ジャンヌ・モロー)は不倫関係で、共謀しシモン社長の殺害を計画した。実行の日、ジュリアンはバルコニーにロープをかけ社長室に侵入し、社長を射殺し自殺と見せかけ、鍵を閉めて密室を偽装し完全犯罪が達成されたと思い、夫人との待ち合わせ場所に車で向かおうとする。その時、殺人現場にロープが揺れているのを発見し、車に鍵を刺したまま急いでビルに戻り、エレベーターに乗り社長室に向かう。しかし、土曜日の午後でビルの管理人が電源スイッチを切って帰り、エレベーターの中に閉じ込められるジュリアン。フロランスとの約束の時間はどんどん過ぎ、彼を待つフロランスは焦燥にかられ、彼を求めて夜のパリをさがしまわる。
一方、花屋の売り子ベロニック(ヨリ・ベルダン)とチンピラのルイ(ジョルジュ・プージュリー)はジュリアンの車を盗みハイウェイを走るうちに、ベンツのスポーツカーと競争を始め、あるモーテルにたどり着く。そのスポーツカーで旅するドイツ人夫婦と、親しく一夜を過ごす。ルイとベロニックは明けがた、ドイツ人のスポーツ・カーを盗もうとして見つかり、彼等を射殺しアパートに逃げ帰る。しかし、死刑は免れないと催眠剤を飲み心中をはかった。しかし、ドイツ人夫婦の殺人は、小型カメラ、拳銃など遺留品から犯人はジュリアンだとして手配された。日曜の朝、エレベーターが動き出し外へ出たジュリアンは、警察に逮捕される。
フロランスはジュリアンが事件を起したとは信じず、車に乗せていた娘が花屋の売り子と知り、彼女の部屋に行き、薬でフラフラな二人を発見し警察に通報するが悪戯だとして取り合わない。真犯人ルイは、唯一の証拠のカメラとフィルムを隠滅しようと、モーテルへ向かう。それを見てルイを追うフロランス。
しかし、モーテルには事件を追う刑事シェリエ警部(リノ・ヴァンチュラ)が捜査のために来ていた・・・・・・

(フランス/1957年/88分/監督ルイ・マル/脚色ルイ・マル ,ロジェ・ニミエ/原作ノエル・カレフ/音楽マイルス・デイヴィス)


<死刑台のエレベーター感想・解説>

この映画で、映像として伝わる情報が観客に語るのは、あらすじで書いたような殺人であり、思いがけないなりゆきの事件であり、サスペンスの果ての急転直下の結末だ。

sikei-nero.jpgしかしその犯罪の意味するモノは、「愛」という実体を持たない精神作用が、遠く隔たっていても人を動かし事件を起すと言う真実だったろう。
愛のために殺人を犯したモーリス・ロネ演じるジュリアンは、エレベーターの中で俘囚となり身動きが取れない。

sikeidai-jyannu.jpg
愛のために殺人を依頼したジャンヌ・モロー演じるフロランスは、愛する者を求めて夜通し街を彷徨する。

この二人が表わしたのは、愛という「虚空の宝石」を現実世界で実体化することの困難さだった。

それはいわば、人間意識が生み出した非物理的な力である「愛」が、現実世界を動かそうとする事の不自然に対し現実世界が復讐する物語のようにも見える。

この映画は、こういう形で表面上の犯罪ドラマの背後で、哲学的な観念を語ろうとする。
そんな表面上の物語の背後で、もう一つの観念的な物語を表出しようとする映画こそ、ヌーヴェルヴァーグという映画スタイルの本質ではなかったか・・・・

ヌーヴェルヴァーグ
mibu-katinko.jpgフランスの若手監督達による、1950年代末から1960年代中盤にかけて制作された若い作家の作品を指す。狭義には映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の主宰者であったアンドレ・バザンの影響下の若い作家達(カイエ派もしくは右岸派)の作品を指す。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、クロード・シャブロル、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、ピエール・カスト、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、アレクサンドル・アストリュック、リュック・ムレ、ジャン・ドゥーシェなどが代表的監督として知られる。また、モンパルナス界隈を拠点としたヌーヴェルヴァーグ左岸派と呼ばれるドキュメンタリー映画を出発点とするアラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、クリス・マルケル、ジャン・ルーシュ等の作家がおり、一般的にはこの両派を合わせてヌーヴェル・ヴァーグと総称することが多い。

このヌーヴェル・ヴァーグ運動が切り開いた世界とは、戦前から始まるネオ・リアリズモが「現実世界=神なき人間世界」の不条理を追求したとすれば、その一歩先にある「人間が認識した世界こそ現実」に他ならないのだという、冷酷な諦念だと思われる。(下写真:ルイ・マル)
sikei-louis-malle.jpg

例えば、この映画が古典的な「神の世界観」から語られれば、
勧善懲悪の物語として成立すべきだった。


例えば、この映画を「ネオ・リアリズモ」から語れば、
悪を犯さざるを得ない人間の悲惨な現実が描かれるだろう。


しかし、この映画では世界が偶然や無計画に出来ていると、その思いがけないストーリー展開で表現する。
そして、その偶然が作り出す予測不可能な世界で、人は自らの意思によって選択・行動する姿が語られる。
その結果として、世界によって翻弄され裏切られる人間存在が描かれるのだ。

sikei-pos.jpeg
これを整理すれば、世界とは混乱であり、人がそこを生きるためには、自ら認識し関与する事で世界に意味を持たせなければならないという事実だ。

つまり、過去の物語は多かれ少なかれ、世界は人間の外にあって意味を持って成立していた。
しかし、この映画においては、世界には意味はなく、その意味は「人間が世界との関係で、作り出す」のだと語っているのだ。

この事が告げるのは、一個の人間が一個の意識を持っている以上、人間の数だけ違う世界が成立する事を意味するだろう。

この映画における「愛=人間の認識した世界」を巡る結末が四者四様なのも、端的に一人一人違う愛を生きているからに違いない。

そういう意味でこの映画は、現実世界が個の認識により成立していることを鮮烈に描いたヌーヴェル・ヴァーグ作品として際立っていると考える。
sikei-pos2.jpg

ヌーヴェル・ヴァーグの本質が「作家主義」だと言う時、即ち作家個々が世界をどう認識したかを映画にする運動であったと思えるからだ。

実を言えば、この作品も、ルイ・マルも、ヌーヴェル・ヴァーグの中に位置づけられてはいない。

しかし、再び言うが、現実世界は個の認識により成立しているのだ。

sikei-erete.jpg
そして、その一個の認識に基づく世界を生きるがゆえに、他の70億以上の人間の世界と相容れず、現代人は必ずこの映画で描かれたように、失敗を犯す。

それゆえ私の認識世界では、この映画はヌーヴェル・ヴァーグを代表する一本として確立されており揺らぎようが無いが、もちろんそれは私の誤りであるに違いない。

マイルス・デイヴィスの『死刑台のエレベーター』テーマ曲

マイルス・デイヴィスはこの映画のラッシュを見ながら、この曲を演奏した。それは、事前に練習もなければ打ち合わせも無い、即興性に富んだものだった。その演奏方法こそは、次に何が生まれるか解らない「世界の突発性」に人間意識が意味を持たせる瞬間だったろう。

========================================================
スポンサーリンク

========================================================
========================================================
以降「死刑台のエレベーター・ネタバレ」を含みますので、ご注意下さい。
========================================================
========================================================
========================================================

若い二人のカップルは自分達の犯したドイツ人殺害が、一晩エレベーターに閉じ込められアリバイの無いジュリアンの犯罪とされているのを知り、唯一の証拠はドイツ人と一緒にモーテルで撮ったスナップ写真だけだった。
sikei-sya.jpg
証拠の隠滅を図り、フィルムの現像所にチンピラのルイは急行する。
そしてその後をジュリアンの無罪を証明する証人を逃すまいと、フロランスが追う。
しかし、既に時遅くシェリエ警部が印画紙に焼き付けられた証拠の写真を見ており、ルイは逮捕される。
========================================================
死刑台のエレベーター・ラストシーン
========================================================

もともとジュリアンの物だったカメラには、若いカップルの写真の他に、フロランスとジュリアンが抱き合っている写真があり、社長殺害の真犯人がジュリアンである事が判明する。
sikei-photo.png
【エンデイングのセリフ】
シェリエ警部:ジュリアンは10年で出てこれるでしょうが、奥さんには陪審員も厳しいでしょう。20年か30年は覚悟するんですな。
フロランス(ナレーション)二人が離れ離れになって、私は牢屋で10年20年と歳をとる。
しかし写真の中の二人は永遠に変わらない・・・・・・・
FIN

この映画に登場した四人の恋人達―
sikei-wakaCop.jpg
チンピラのルイはドイツ人夫妻殺人で死刑となるだろう。
花屋の売り子ベロニックは微罪で社会に復帰するだろう。

elevato-jyanHug.jpg
ジュリアンは社長殺しで懲役10年と語られている。
フロランスは懲役30年の刑を科せられる。

この四人を共通して動かしたのは「愛」という人間感情だった。
にも拘らず、現実は各々違う結末を突きつけたのだ。

つまりは一人一人違う個性が現実と対峙する時、人類の数だけ違う現実が存在し、その衝突の必然として人々は予め失敗が約束されていると思うべきなのだろう・・・・・・

そういう意味では、全ての人間は「死刑台のエレベーター」に乗っているのであり、そこから降りる術はない。

唯一の希望は、ラストの写真のように、無から生じる人々の幻想を共同化して定着することに違いない・・・・・・それを映画と呼ぶこともできる。

スポンサーリンク
posted by ヒラヒ・S at 17:12| Comment(4) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月22日

『隣の女』危険な不倫関係の映画・ネタバレ・感想・あらすじ

トリュフォーの凄み、男女関係の極み



個人的な評価:★★★★★5.0

愛を巡る物語を世に問うてきた、フランス・ヌーベルバーグの旗手、トリュフォー監督1981年の作品。
ジェラール・ドパルデューとファニー・アルダンの出演で、偶然、隣の家に越してきた昔の恋人との不倫愛憎劇を描く。
隣の女あらすじ
ベルナール(ジェラール・ドパルデュー)は、妻アルレット(ミシェール・ボームガルトネル)と幼ない息子と暮らしている。ある日隣の家にボーシャール夫妻、夫のフィリップ(アンリ・ガルザン)、妻マチルド(ファニー・アルダン)が越してきた。偶然にもマチルドとベルナールは、昔恋人同士だったのだ。ベルナールとマルチドは、伴侶を裏切ることや、お互いに対するわだかまりがありつつも、交流を続けていった。そして一夜を共に過ごした二人は、もう二度と会うのはよそうと言いながら、お互いに執着せずにいられない。そして、二人の関係は周囲に知られてしまう・・・・・・

(フランス/1981年/96分/監督フランソワ・トリュフォー/脚本フランソワ・トリュフォー,シュザンヌ・シフマン,ジャン・オーレル)

 
この映画はドラマを強調するために、ことさら演出をつけることをせず、日常の些事を淡々と客観的に描写している。
それゆえ、観客の感情移入を容易に許さない。
結果的に、この二人の運命の恐ろしさの割に、見る者にどこか身に迫ってこないような、モヤモヤした不充足感を感じさせる・・・・

しかし、私の友人は言った「怖くて見ていられない」と。

tonari-onnna.jpg
昔この友人が、付き合ってた女性に包丁を突き付けられたという。
その時の女性の眼をファニー・アルダンがこの映画の中でするというのだ。

そういう怖いシーンが、例えば相手を誘うシーンとか、別れの場面などに、危うい脆い崩れそうな一線が顕れるとも・・・・・

この友人は女性との交際が盛んな男だったが、さらに、こうも言った。

この監督も間違いなく、女性との交際の中で命の危険を感じた事があるはずだと。

彼の言葉が正しければ、この映画の監督トリュフォーも多分、この映画の中で描かれたように、隣にいてはいけない女性と付き合ったことがあったのだろう。

toryufo.jpgフランソワ・ロラン・トリュフォー(François Roland Truffaut、1932年2月6日 - 1984年10月21日)は、フランスの映画監督。15歳の時に批評家アンドレ・バザンと知り合いバザンが主催する映画誌「カイエ・デュ・シネマ」に作家主義に基ずく批評を寄稿。映画実作を志しロベルト・ロッセリーニの助監督を務め、長編第1作「大人は判ってくれない」(59)(カンヌ国際映画祭の監督賞)によって、ヌーベルバーグ時代を切り開く。その後も精力的に、「突然炎のごとく」(62)や「柔らかい肌」(64)、など作品を発表。「アメリカの夜」(73)でアカデミー外国語映画賞を受賞。スティーブン・スピルバーグ監督の「未知との遭遇」(77)には俳優として出演した。81年からは女優ファニー・アルダンと共に生活した。84年、脳腫瘍のため52歳で他界。通算25本の映画を作製し、アルダン主演の「日曜日が待ち遠しい!」(83)が遺作となった。


お互いに求めながら、うまく添えない。
tonari-5.jpg
寄り添おうとすると相手を傷つけ、離れれば狂おしく相手に焦がれる・・・・・・・
日本では古来こういう関係を「逆縁」と呼んだというが、言いえて妙である。



恋焦がれれば焦がれるほど、お互いを傷つけあってしまう。

そんな危険な関係を決着させるには、この映画の結末以外ないのかもしれない。

たぶん恋愛で地獄を見た人間なら、納得のできる決着なのだろうとも思う。

結局この映画に描かれた男女の関係は、経験者にのみ伝わる事柄なのかもしれない・・・・・

逆にいえば、経験者以外には伝わらない何者かがあり、その事を万人に伝える事は無理だとこの監督は判断したのではないか。

それゆえことさら、この男女のドラマを過剰に演出せずに放置したように思う。

だとすれば、結局この映画は監督フランソワ・トリュフォーの「私小説」なのだろう。
私小説(ししょうせつ、わたくししょうせつ)は、日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして書かれた小説をさす用語である。心境小説と呼ぶこともあるものの、私小説と心境小説は区別されることがある。日本における自然主義文学は、私小説として展開された。


私小説の真髄とは己の体験・経験を素材にして、客観的にその経験で得た自己の感情や状況を開示することで、人間の嘘の無い姿を抽出しようという試みである。

その形式は往々にして、読む者の内部に隠匿された経験を呼び覚ますものだ。
 
そういう経験のない人間は、嵐の予兆のような黒い澱みのようなものを、かろうじてこの中に見出せれば良しとすべきか・・・・・・・と言うことで、今回は評価不能と言う意味で★5とさせていただきました。
この映画はエディット・ピアフのシャンソンに触発された作品ということで・・・
エディット・ピアフ「愛の賛歌」


========================================================
スポンサーリンク

========================================================
========================================================
以降「ネタバレ」を含む、ラストシーンですので、ご注意下さい。
========================================================
========================================================
========================================================


この映画の最後に、ヒロインのマチルドは、不倫相手のベルナールを射殺し、そして自らも命を絶つ。

人を全身全霊を持って愛してしまえば、とても諦めることはできないという事なのかもしれない。

日本の都都逸に曰く「諦めましたよ どう諦めた 諦めきれぬと諦めた

つまり諦めるには、この映画のラストの形しかないのかもしれないと想像した・・・・・

tonari-onnna2.jpg

スポンサーリンク
posted by ヒラヒ・S at 17:24| Comment(4) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする