2017年03月24日

『椿三十郎』感想・解説・殺陣の革新/黒澤時代劇のルーツとは

椿三十郎(感想・解説・編)


評価:★★★★★ 5.0点


========================================================

椿三十郎・感想・解説

========================================================

実は黒澤監督の時代劇とは、過去のチャンバラ映画とは隔絶した表現がされていたと感じます。
そのルーツはハリウッドの西部劇にあると個人的に思うのですが、その点を確認するのに、この作品『椿三十郎』は見過ごせない一本だと思います・・・


まずは、黒澤以前のチャンバラを幾つかサンプルとしてご覧頂きましょう。
大傑作1925年(大正15年)『雄呂血』坂東妻三郎主演・二川 文太郎監督


坂東妻三郎の殺陣のスゴさはどうでしょう。
大変な迫力で、その身体能力の高さにも驚きますが、注目して頂きたいのはその殺陣の動きです。
まるで舞を踊るような動きではないでしょうか?

実のところ、戦前の殺陣は基本的には踊りの延長のようなモノだと感じます・・・
元祖・丹下作善、大河内傳次郎の殺陣映像集

そもそも、チャンバラ活劇の初期の俳優さんたちは歌舞伎界の二流三流の方々が演じられていて、その後、映画界のスターが演じるようになってからも、殺陣のかたちは様式的、舞踏的であったようです。
昭和の大スター、大河内傳次郎の殺陣映像集

そして、戦争の時代を経て敗戦後GHQの占領下では、1945年から1951年(昭和26年)9月の講和条約成立まで、日本映画界はチャンバラの映画製作を禁じられ、また時代劇の上映自体が禁止されたのです。
そんな娯楽に飢えた時代に、日本で上映されたのがハリウッド製の映画でした。
その時代、ハリウッド黄金期のミュージカルや西部劇映画が大量に流入し、日本人を(いや世界中を)興奮させたのでした。

1936年制作の西部劇『平原児』セシル・B・デルミ監督、クラーク・ゲーブル主演

1939年の西部劇『駅馬車』ジョン・フォード監督、主演はジョン・ウェイン

1952年の西部劇『真昼の決闘』フレッド・ジンネマン監督、ゲイリー・クーパー主演

1953年『シェーン』ジョージ・スティーブンス監督、アラン・ラッド主演


こんな西部劇の決闘シーンで興奮していた日本人も、1951年に自由に時代劇を作れるようになると、各社が一斉に製作に乗り出します。
戦前からのスター、嵐寛寿郎は再び『鞍馬天狗』に出演し、片岡千恵蔵は『いれずみ判官』(遠山の金さん)、市川右太衛門も『旗本退屈男』などの時代劇に復帰し、時代劇スターとして映画界に君臨しました。
しかし、それらのチャンバラ活劇は戦前からの流れを受けて、やはり舞踊的な殺陣でした。
1955年(昭和30年)新諸国物語「紅孔雀」中村錦之助・東千代之介・大友柳太朗出演。


対して、黒澤明監督の殺陣は、その重厚さといい、動きの重心といい、本当に人を斬る動きを再現したような迫力です。
それは、リアリズム表現を追求したというという面もあるでしょうが、西部劇に負けない迫力を時代劇でどう表現するかという所で、苦闘の末『用心棒』の殺陣が生まれたのでしょう・・・・・・・・・
ここでは、銃の射撃音に対抗するかのように、日本で始めて刀の斬殺音が取り入れられています・・・・
黒澤明監督『用心棒』(1961年)の殺陣




そして、そんな西部劇の緊張感と銃の重々しい響きに対抗しうる殺陣が生まれえたのは、黒澤監督の演出力と同じぐらい、三船敏郎という卓越した役者が同時代に存在したということが大きいと思えます。
仲代達矢も自伝で言及していますが、三船の剣は本当に早く、しかも実際に斬られ役に刀身を当てて、迫力を出したといいます。
そんな稀代の時代劇スターと天才黒澤明監督が邂逅しえたのは、日本映画にとって、いやその後の映画界への影響を考えれば、世界にとって大きな意味を持っていたと思います。


黒澤監督が西部劇を見て、革新的な時代劇とチャンバラの殺陣を生み出したように、黒澤の時代劇を見たイタリア人が影響を受けマカロニ・ウエスタンを生み、さらにマカロニ・ウェスタン(英語圏ではスパゲッティー・ウェスタンですが・・・)がハリウッドの西部劇に影響を与えたというのは、お里帰りを果たしたような感慨を覚えます。
『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』よりカイロ・レン vs フィンとレイ

さらにはチャンバラ・アクションが、「スターウォーズ」はもちろん、アクション映画に必ずといっていいほど登場し、迫力の殺陣が繰り広げられています。


さらにそんなハリウッド・チャンバラを見て育った日本人が、新しいチャンバラを作っているのではないでしょうか・・・・・・・・
るろうに剣心 伝説の最後編 宗次郎VS剣心

========================================================
スポンサーリンク

========================================================


しかしこれは、西部劇のオリジナルを更なるこだわりを持って、迫力あるリアリティーを感じさせる黒澤と三船の殺陣だったからこそ、世界に影響を与えられたのだと思うのです。
やはり、戦前の様式的な殺陣であれば、とてもここまでインパクトを与えられなかったと信じています。





この映画の最後は迫力の決闘シーンが待っています。ぜひご自分の眼で、その衝撃を体感して下さい・・・・・



当ブログ関連レビュー:
『待ち伏せ』
三船敏郎の凄まじい殺陣が見れる一本。
日本映画黄金期の残照



スポンサーリンク
posted by ヒラヒ・S at 17:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月23日

『椿三十郎』詳しいストーリー・あらすじ/黒澤時代劇のルーツとは

椿三十郎(ストーリー編)



評価:★★★★★ 5.0点

実は黒澤監督の時代劇とは、過去のチャンバラ映画とは隔絶した表現がされていました。
そのルーツはハリウッドの西部劇にあるのではないかと個人的には思えます。
この作品『椿三十郎』は、最もそんな西部劇的な要素が象徴的に出ていて、見過ごせない一本だと思います・・・




椿三十郎あらすじ


夜の神社、薄暗い社殿で、九人の若侍が腐敗した藩の改革に熱い議論を交わしている。

sanjyurou-jinjya.jpgその時、物陰で寝ていた、薄汚れた中年の浪人者(三船敏郎)が表れ、若侍たちは色めき立つ。それを制して、話を聞いていた浪人が言うには、若侍達が頼りにしている大目付の菊井(清水将夫)が藩の不正の黒幕だといった。

若者達は怒りだすが、社殿は大目付の配下によって包囲されていた。
sanjyuurou-nakadai.jpgこの上は斬り死にするという9人を制して、その浪人一人が外に出た。たちまち数人を叩き伏せ、これ以上まだ続けるかと啖呵をきった。
それを見た大目付側の懐刀、室戸半兵衛(仲代達矢)は捕り方を下がらせ、浪人の腕をほめ仕官がしたければ訪ねて来いと言い残して去った。

sanjyurou-jinnjya.jpg


浪人は、意気消沈している若侍を見て、「危なくて見てられねぇ」と助太刀をすることにした。


藩では大目付が不正を糊塗するために城代家老を拉致し行方がわからない。
sanjyuurou-sijyuurou.jpgその家老の夫人(入江たか子)と娘・千鳥(団令子)が監禁されていたのを救い出し、若侍・寺田(平田昭彦)の家に庇護した。寺田の家の隣家は椿屋敷の別名を持つ、黒幕の黒藤のものだった。
浪人は家老夫人に名を尋ねられ、椿を眺め
椿三十郎と名乗った。

一同は、捕らわれの城代家老の居場所を探し、黒藤(志村喬)か菊井か竹林(藤原釜足)の家のいずれかに監禁されていると目星を付けた。
sanjyuurou-sake.jpgしかし意見が割れてるのを見て、三十郎は敵の参謀・室戸を直接訪ね、情報を得ようと酒を酌み交わす。
室戸は三十郎を味方につけようと、菊井、黒藤の汚職の実態を話し、自分の相棒になればこの藩を好きにできると誘った。

そんな時、若侍の保川(田中邦衛)、河原(太刀川寛)は、三十郎を信用できず、三十郎の後をつけ、またその保川、河原が何をするか心配だと、井坂(加山雄三)ともう一人とともに出かけた。
しかし、室戸に見つけられた若侍は捕縛された。
sanjyuurou-hobaku.jpg

sanjyuurou-kiri.jpg三十郎は四人を救うため、隙をみて番人を斬り殺し、自分を縛らせ四人を逃がした。
室戸は怒り三十郎の仕官を白紙に戻す。
若侍の元に帰った三十郎は、いらぬ殺生をしたと怒鳴りつけた。

sannjyurou-syouko.jpg
家老探しが振り出しに戻り困っていると、椿屋敷から通じる川の流れに家老母娘が証拠の紙片を見つけ、家老は黒藤の家にいると思われた。

しかし黒藤の警備が厳重で手を出せない。
三十郎は一計を案じ、光明寺の山門で寝ていると若侍と反対勢力が集ってくるのを見たと、黒藤家に嘘を言い警固の一隊は光明寺に向わせた。
sanjuro-mituke.jpg

上手く事が運んだと、合図の赤い椿を流そうとした。
しかし、光明寺には門が無いと気付いた黒藤家の者がいて、三十郎は捕われの身となる・・・・・・・・

椿三十郎予告





椿三十郎・出演者

船敏郎:椿三十郎/仲代達矢:室戸半兵衛/加山雄三:井坂伊織/平田昭彦:寺田文治/田中邦衛:保川邦衛/太刀川寛:河原晋/久保明:守島隼人/波里達彦 :守島広之進/江原達怡:関口信伍/松井鍵三:八田覚蔵/土屋嘉男:広瀬俊平/小林桂樹 :見張りの侍A(木村)/伊藤雄之助:城代家老睦田/入江たか子:睦田夫人/団令子:睦田娘千鳥/清水将夫:菊井(大目付)/志村喬:黒藤(次席家老)/藤原釜足:竹林

(製作国・日本/製作年1962/95分/監督・黒澤明 /脚色・菊島隆三 、小国英雄 、黒澤明 /原作・山本周五郎/英語題 Sanjuro)


========================================================
スポンサーリンク

========================================================

この映画の前作にあたるのが『用心棒』です。


この映画も、マカロニ・ウエスタン『荒野の用心棒』に無断盗用されたほど、強いインパクトを世界に与えた作品でした。


当ブログ関連レビュー:
セルジオ・レオーネ『荒野の用心棒』
映画の伝播と拡散について




またこの映画をリメイクというよりはコピーした、森田芳光監督の椿三十郎もありました・・



当ブログ関連レビュー:
森田芳光『椿三十郎』
リメイク映画の壁




スポンサーリンク
posted by ヒラヒ・S at 17:25| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月14日

『桐島、部活やめるってよ』青春のナルシズム・ネタバレ・あらすじ・ラスト・解説

主観と客観の行方


評価:★★★    3.0点

この映画で描かれた高校生活は、ある年代にとっては自らの青春とオーバーラップし、理屈を超えた情動を生むのではないだろうか。
原作の作者、朝井リョウの実体験が色濃く出た青春物語であることを踏まえれば、作者の誕生年1990年前後に生まれた者、または1990年以降に生まれた者達も含め、ここには多かれ少なかれ、自分の高校時代の姿が投影されているだろう。
その世代にとっては、この映画はナルシズムに満ちた作品とならざるを得ないはずだ。

桐島、部活やめるってよ・あらすじ


<11/25金曜日>
バレーボール部キャプテンの桐島は男子スクールカーストトップの存在だが、放課後、部活をやめたという噂が駆け巡る。桐島の彼女で、女子カーストトップの飯田梨紗(山本美月)も詳細は知らない。梨紗と同じグループに属する東原かすみ(橋本愛)、野崎沙奈(松岡茉優)、宮部 実果(清水くるみ)は、常に4人で行動しており梨紗の機嫌を覗っている。
kirisima-bukatuyame.jpg
バレーボール部は混乱し、副キャプテン・久保 孝介(鈴木伸之)は怒るが、明日の試合に向け実力不足の小泉 風助(太賀)を起用せざるを得ない。
桐島が部活をやめたという話に、桐島と同じグループに属する菊池 宏樹(東出昌大)は驚く。kiri_top3.jpg宏樹は野球部員だが部活動に参加せず、いつも放課後は桐島の部活が終わるのを、友弘(浅香航大)と竜汰(落合モトキ)と共にバスケで遊びながら待っていた。
そんな宏樹は野崎 沙奈(松岡茉優)を彼女にしていて、運動も勉強も秀でているが、情熱を傾けるものが無く日々過ごしている。野球部キャプテン(高橋周平)は宏樹に試合日程を伝え、来て欲しいと誘う。
映画部部長の前田涼也(神木隆之介)は、映画部顧問・片山(岩井秀人)が脚本を書いた『君よ拭け、僕の熱い涙を』の、続編を撮れと迫られる。しかし題名だけで生徒たちの物笑いになる続編を撮る気がせず、ゾンビ映画『生徒会・オブ・ザ・デッド』を先生の意向に逆らって撮影し始める。kiri-buraban-eiga.jpgロケ場所の屋上に上がると、宏樹に片思する吹奏楽部部長の沢島 亜矢(大後寿々花)が、宏樹のバスケが見える屋上で、サックスを吹いていた。前田は交渉して撮影しようとするが、亜矢は譲らない。ついには前田の説得を聞きもせず、亜矢は遠い宏樹を見つめている。その宏樹がバスケを止めて帰ったので亜矢も去り、前田は場所取りに勝ったと誤解する。
<11/26土曜日>
バレーボール部の試合は代役風太の健闘実らず負ける。
<11/27日曜日>
映画館で前田は、かすみを見つけて驚く。前田はかすみと中学生時代の同級生で共に映画を語った事もあった。前田はそのころから、かすみに好意を持っていた。しかし会話は弾まず、かすみは帰る。
<11/28月曜日>
今日も桐島は欠席で、交際相手の梨紗ですら連絡が付かず、しかし桐島の質問を受け続けイライラしている。映画部の前田はゾンビ映画の撮影に入り、かすみに声をかけられ喜ぶ。kiri-bare.jpg
バドミントン部の実果は、バレーボール部の風太が好きで、敗戦の原因が風太だとシゴカれるのを見て心配そうに見る。
宏樹は、放課後のバスケットをしつつも桐島を待つ時間つぶしだった事を思い出し、無意味だと気付き帰る。吹奏楽部の亜矢はいつもと同じく屋上でそんな宏樹を見つめる。
<11/29火曜日>
今日も桐島は欠席で、梨紗は相変わらずの無視に怒っている。校内には「桐島が来る」という噂が飛び交っている。映画部・前田は顧問に、撮影中止を告げられる。放課後教室に立ち寄った前田は、かすみと竜汰の二人が付き合っているのを知り、教室を逃げるように去る。前田は映画の撮影を決心した。その撮影現場の校舎裏には、宏樹を眺めたい吹奏楽部の亜矢がいた。前田は前回の事もあり口論となるが、亜矢は宏樹への思いを断ち切ろうとしており「今日で最後だ」と言い、その様子に前田は感じるものがあり、屋上で撮影をするために去る。宏樹と沙奈はキスを交わし、それを亜矢に見せつける。
kirisima-capOu.jpg宏樹は野球部のキャプテンと会い、スカウトの話は無いがドラフトまでは野球をやるという言葉を聞く。もうキャプテンは宏樹に、試合に参加しろとは言わず、応援だけでも気が向いたら来てと伝えた。
そんな時校内で、桐島が屋上に来ているという情報が流れた。
桐島を追っていたバレーボール部、友達の宏樹達、彼女の梨紗とそのグループは屋上にダッシュする。
屋上のドアを開いた先に見たものとは・・・・・・・・・・・・・・

(日本/製作年2012/103分/監督・吉田大八/脚本・喜安浩平・吉田大八/原作・朝井リョウ)

桐島、部活やめるってよ・出演者

前田 涼也(神木隆之介)/
東原 かすみ(橋本愛)/菊池 宏樹(東出昌大)/宮部 実果(清水くるみ)/飯田 梨紗(山本美月)/野崎 沙奈(松岡茉優)/寺島 竜汰(落合モトキ)/友弘(浅香航大)/武文(前野朋哉)/野球部キャプテン(高橋周平)/久保 孝介(鈴木伸之)/日野(榎本功)/詩織(藤井武美)/片山(岩井秀人)/小泉 風助(太賀)/沢島 亜矢(大後寿々花)

========================================================

桐島、部活やめるってよ・感想

========================================================

先にこの映画は、ある世代にとってナルシズムに満ちた作品とならざるを得ないと書いた。
Film.jpg
少し言葉足らずだと思うのでさらに補足すれば、人はある映画を見たとき、その映画に自分が存在していると信じる瞬間がある。

それは否応もなく、自己の相似形が映画内で、動き、語っているのを発見するからである。
その時、その観客にとって、その映画は、己の一部と化し自らの存在の投影となる。
それゆえその映画を客観視する事は、己を客観視せよといわれたに等しい。

誰にとっても自己分析とは、どこまでいっても主観的な作業であり、つまりは己を客観的に判断や分析はできない事を意味する。
それゆえ人は、しばしば感情移入を促された「主観的映画作品」に対しては、思考停止状態に陥いらざるを得ない。

kiri-hasiai.jpgそんな理非を越えて、自らの心に対象を取り込んでしまう、こんな心理状態は映画でなくとも生じうる。
現実世界で生じるそれを、人は「」と呼ぶだろう。
そんな、自分以外の他者に対して及ぼされる、自己同一化を「恋」と呼ぶ事に異論がなければ、それと同じ事が「映画」を対象として生じることもあるのだ。
その結果もたらされた情動は、歓喜・悲嘆いずれの結果であったとしても、その者の一生涯を飾る「永遠の記憶」となるだろう。
それは、自らの肉体に生じた怪我が、常に傷跡として我が身に訴えかけてくるのと同じように、主観的経験とは自らの精神に刻み込まれた実体験として、心に留まるからである。
だとすれば、この映画に「」を見出だした観客は、この映画によって自らの生きた証を、その身に永遠に定着し得た事を意味するだろう。


kiri-pos.jpg
実際のところ、この映画を見た人々の言葉に触れれば、この映画にこそ「自らの青春」があるという、強い感情移入の表現が多いことに驚くのだが、それほどこの映画は自己同一化を促す強い力を持っているのだろう。

そんな、自己の青春を象徴しえるランドマークは、誰もが持ち得ると約束されたものではない。
だとすれば、この映画を我が物とし得た人々は、自らの幸運を素直に祝うべきだろう。

この映画を見るたびに、ノスタルジーと共に、必ず自らの青春を思い起こすことが約束されたのだ。
そんな主観的な自己同一化が可能にする、驚くべきポテンシャルを秘めていると、この映画に「盲目の人々」が証明しているだろう。
しかしまた「恋の盲目」ではないが、その主観的な自己同一化に基づく「映画の自己一体化」は、その作品を絶対視することを意味し、容易に他者の批判や、客観的な誤りの指摘すら許さない心理を形成するのである。


高知で撮影されたこの映画のメイキング。

実はそんな、独善的な絶対性こそ、この映画が描く「青春期」の実態ではなかったか。
kiri-burakao.jpg
それは、10代という生きる上での経験値の少なさを元に、1人世界と対峙する上での必然的帰結だろう。

すなわち乏しい経験を元にした「自我=主観世界」と「現実=客観世界」の間に整合性は期待できない。
しかし、一足飛びに現実世界の経験値を増加し得ない以上、己の「自我=主観」のみを頼りに「現実=客観世界」に対応する以外の方策を持ち得ない。

従って、多かれ少なかれ、その時期には「客観世界」を自我に引き寄せ再構築する「主観世界への置換」を経て、現実を整理せざるを得ない。
kiri-kame.png
そして自我の本質が自己保存である以上、その主観世界は「絶対的ナルシズム=独善性」をその基礎として成立するだろう。

それゆえ「青春時代」はカメラで恣意的に切り取るような
絶対的自己愛によって満たされた、甘美な主観世界として世界は構築されるのである。
だとすればこの映画が、主観・客観のいずれの立場で見るかによって大きく評価が分かれるのも、「青春」という不完全な時期の「自己愛=ナルシズム」ゆえの必然だったと思える。


え〜ゴホン。
そんなわけで・・・・・


言いにくいんですが、この映画を主観的に見れなかった私の評価は・・・・・・★3つです。

桐島、部活やめるってよ 主題歌・高橋優「陽はまた昇る」

========================================================
スポンサーリンク

========================================================
========================================================
以降

桐島、部活やめるってよ・ネタバレ

を含みますので、ご注意下さい。
========================================================
========================================================
========================================================

で・・・・マイナス★2つ分の言い訳です。

この映画は実は二部に分かれているのではないかと疑っています。
その区切りが、一見何事が起きたのか理解に苦しむ、屋上から男子生徒が落ちるシーンに有ると思うのです。
kiri-jump.jpg


このシーン以前は、ある場面を登場人物の視線から多面的に描く構成といい、現代の若者の学校カーストの描写といい、ほぼ原作の通りの世界観で描かれています。
この映画が、ある世代にとって自分のコトとしか思えないというのは、この原作に描かれた登場人物がリアルに高校生の実態を捉えていたという証拠だったと思います。

そこに描かれた自分のカーストを知り、その範囲で許された適切な行動を採らざるを得ない姿を、徹底的な心理描写によって表現する力は小説の方がより鮮明でした。

小説では明確な事件が発生しなくとも、その内的描写によって一人一人の性格と、それぞれのカースト関係の緊張感を描くだけで、十分スリリングなドラマとなっていました。


しかし、映画の場合「間」と「空気感」で原作の持つニュアンスを捕えてはいますが、その手腕は卓越したものだと感じましたが、やはり映画としては弱いと製作者としては考えたのではないでしょうか。

Film.jpg
本来この原作小説に書かれた、「内的告白=モノローグ」を表現しようとすれば、この静かな映画のほぼ全編をセリフで多い尽くさなければならなかったはずですから・・・・・

それゆえ映画的なイベントとして、屋上に全ての出演者が集まり騒動になるという、映画だけが持つエピソードを追加したのだろうと思うのです。

その切り替わりのタイミングが、先ほども書いた通り、屋上からの飛び降りのシーンに符合するのです。
つまりこのシーンは、原作に依拠しないオリジナル映画ドラマを、これから描くとの宣言だったと思うわけです。

その映画ドラマはしかし、原作のジッと穴に籠もって周囲をうかがう神経戦ではなく、昭和の匂いのする「スポコン=熱血ドラマ」となっていませんか?

つまりこの映画は、現代の高校生の戦いをドラマとして描ききる事ができず、旧来のドラマツルギーに収斂させてしまったと個人的には感じました。


本来の小説が描いた桐島の不在とは、現代において「ヒーロー=英雄」は存在し得ないというメッセージだったと思うのです。

それに対して、映画は映画部部長・前田を自らの信じる道をひたすら進むという、旧来のヒーロー像として描いてしまったように感じます。

kirisima-camera.jpg
しかも、そのヒーローが「ゾンビ映画」を撮影しているのです。

これは作り手が、ヒーロー不在の現実を前に、自らヒーローとなろうとしない現代の若者達がゾンビのような存在と成り果てていると、語っているのかと邪推したくなるほどです・・・・

けっきょくのところ、小説が「熱血根性ドラマ」に対するアンチテーゼとして描かれて、現代の若者世代の現実をドラマ化し得たにもかかわらず、映画は現代高校生の現実を描く事を放棄し、過去のドラマツルギー「熱血スポコン」に逃げたと個人的には思います。

それゆえに、現代を反映した表現を「映画表現ドラマ」としても、挑戦して欲しかったという理由から、★二つを削らせて頂きました。

========================================================

桐島、部活やめるってよ・ラストシーン

========================================================

(あらすじから続く)
屋上には、桐島はいなかった。
桐島を探す生徒達が呆然とする前で、映画部がロケを中断され立ち尽くしている。
桐島がいないことに苛ついたバレーボール部の副キャプテンは、怒りに任せ映画部の小道具を蹴り、前田と映画部員は怒り「謝れ」と怒鳴る。屋上の生徒達の思いは爆発し、前田は「こいつら全員食い殺せ」と叫び、屋上は大混乱に陥いった。そんな光景を前田は撮影し続ける。
※下記には一部グロテスクな描写が含まれますご注意下さい

混乱が収まった後、前田と宏樹は夕焼けの中で会話を交わす。
人より羨ましがられるスクール・カーストにいても目標を持てない宏樹と、スクール・カースト最下位でも熱中できるモノのある前田・・・・・

「桐島=ヒーロー」への電話は、呼び出し音が虚しく響くだけだった。

青春の本質がナルシズムであるとすれば、原作小説で語っていたのはスクールカーストや個々の思いは、しょせん幻想で消え去るのだという儚さではなかったでしょうか・・・・・・
それは旧世代が、「幻想=政治・理想」を現実のモノとするため汗と涙を流した時代とは、明らかに相反する生き方だと思うのです。

やはり、この映画の最後のシーンは20世紀のナルシズムであり、21世紀のナルシズムと成り得てない点を惜しまざるをえませんが、それは、21世紀の映像作家が描くしかないのかもしれません・・・・


スポンサーリンク
posted by ヒラヒ・S at 22:20| Comment(5) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする