2017年01月01日

映画『男はつらいよ』正月の聖なる笑いの意味とストーリーの感想

日本の正月を飾った映画



評価:★★★★★ 5.0点

かつて日本の正月とお盆に欠かせない映画が『男はつらいよ』だった。
マンネリのストーリーの上で、繰り広げられる寅次郎の恋と笑いは、新年とお盆を喜びの内に迎える国民行事として定着していた・・・・・・
シリーズは渥美清が亡くなるまで48作が製作された。

『男はつらいよ』第一作あらすじ
車寅次郎は、“フーテンの寅”と呼ばれる香具師。父親と喧嘩してとびだした中学の時以来、ヒョッコリ故郷の葛飾柴又に帰って来た。というのも唯一人の妹・さくらを残して両親が死んだと風の便りに聞いたため。叔父の家へと向った寅次郎はそこで、美しく成長したさくらに会い、大感激。妹のためなら何でもしようと発奮、妹可愛さの一心で、さくらの見合の席へと出かけたものの、慣れぬ作法に大失敗。縁談をこわしてしまった。いたたまれずに、また旅にでた寅次郎は、奈良でお寺巡りをしている柴又帝釈天の御前様と娘の冬子に会い、冬子の美しさに魅せられ、故郷にと逆戻り。そんな寅次郎を待っていたのは、工場の職人・博の「さくらさんが好きです」という告白だった。博の真剣さにうたれ、何とかしてやろうとしたものの、寅次郎は、もち前の荒っぽさで、またまた失敗。が、かえってこれが、博、さくらを結びつけた。さくらの結婚の後の寂しさを、冬子の優しさに慰められていた寅次郎は、ある日、冬子が婚約者と一緒にいるところに出くわしショックを受ける。そしてそのことが周囲に知れたため寅は再び旅に出るのだった。(キネノートより引用)
<男はつらいよ・第一作・オープニング>

(日本/1969年/91分/監督・山田洋次/脚本・森崎東、山田洋次)

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『男はつらいよ』シリーズ感想・解説
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上で紹介した第一作目が特別なのは、20年フーテン生活を続けた寅が柴又に戻り、妹のさくらと久々の再会を果たし、更にはさくらと博を結びつけるというような、この後のシリーズの枠組みがこの第一作目で決まるのである。
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ここで描かれたのは、庶民の一家庭が成立し、そこに幸福で平穏な生活が営まれるという事実であり、その幸福はシリーズ48作を通じ、高度成長期、バブル期の標準的な日本人の幸福の姿として「さくらと博」の家庭は描かれたのである。

そして同時にこの第一作で、寅次郎の恋も帝釈天の御前様の娘・冬子との間に描かれ、そして以後のシリーズ同様失恋に至るのである。


つまるところ、以降、この映画シリーズは幸福な葛飾柴又「くるまや」一家と、そこをかき乱す寅次郎が描かれ、寅次郎は永遠に幸福に至る事はないのである。

この寅次郎は平和と安寧を壊す「トリックスター」として混乱を生み、笑いを作る存在であることは間違いない。


しかし、この寅次郎が象徴したのは、戦後日本人にとっての原罪ではなかったかと思えて成らない。

この第一作が公開された1969年昭和44年とは、ソ連の有人宇宙船「ソユーズ」が宇宙時代の到来を告げ、60年代安保で安田講堂の攻防が繰り広げられた時期だった。
世情は「冷戦」を背景に不安定ではあったが、しかし第二次世界大戦が終了し24年が経ち、社会は繁栄し高度成長期にあった。
1960年代の日本

日本経済は右肩上がりに国民総生産を伸長し、昨日より今日、今日より明日が幸福であると日本国民が信じていた時代だったのであり、その幸福を体現していたのが「くるまや」の人々だったのである。

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結局、寅次郎とはそんな日本全体の幸福を享受し得ない存在であり、決して自ら幸福に成ろうとしない者なのだ。

それは常に自らの幸福を放棄して、他者の幸福に寄与する者だ。
そして同時に、幸福に近づくと必ず幸福をかき乱す存在でもある。

つまり整理すれば寅次郎とは、自ら幸福を得られず、幸福に近づく事を許されず、しかし幸福を与える者だということになる。

otoko-rikutu.jpgこんな矛盾した存在とは何者だろうか・・・・・・・・・

私には寅次郎とは、戦後日本が常に隠蔽し、眼を逸らして来た存在、「戦争の犠牲者」に他ならないように思える。


戦後日本の繁栄が間違いなく、戦争で喪われた人々の犠牲を元に成立していると知りながら、日本の戦争が悪として断罪されているがゆえに彼等への感謝を直裁に口にできず、むしろ戦争犠牲者の存在とは戦後日本にとってのタブーとして隠されてきたのではなかったか。

けっきょく、心の奥底で戦争犠牲者に対する贖罪の感情を持ちつつ、それを表現する事が許されない戦後日本にとって、盆と正月に現れる「フーテン=幽霊」の寅次郎が伝えたメッセージとは、幸福を支えつつ自ら幸福に成り得ない霊を決して忘れてはならないと語ってなかったか。

そんな、戦後日本人の幸福の基礎のために消えていった者達の象徴としての寅次郎だからこそ、日本人はこの映画を愛したのではなかったろうか。


歴史に消えていった犠牲者の魂が、遠くから顔を見せ、悪戯したり生者の心配をしたりする劇だと思うとき、ここにはどこか親愛を含んだ笑いと、どこか敬虔な祈りが同時に含まれてはなかったろうか。

そう思うとき、この映画とは日本国民の過去と現在をつなぐ架け橋として、機能していたとも思えるのである。

寅次郎に代わる正月の顔を持ち得ないことこそ、戦後が終わったという真の証明であったかもしれない。

しかし同時に、無性に、寅次郎を喪った正月に、どこか不安を覚えもするのである・・・・・・・・




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posted by ヒラヒ・S at 03:36| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月31日

黒澤映画『七人の侍』サムライ西部劇の傑作・感想・あらすじ・ネタバレ・ラスト

世界のクロサワの痛快リアリズム活劇!!



評価:★★★★★ 5.0点

スタートからラストまで面白い。
あまりにも名声が高くなったため、芸術作品のように言われるが、どう見ても西部劇の砦の騎兵隊と、インディアンの闘いを日本に置き換えた娯楽大活劇である。
しかし、この作品におけるリアリティーの見事さは、映画にとって大事な要素が何なのかを教えてくれる。


「七人の侍」あらすじ

収穫が目前に迫る農村では、農民達が迫る危難に寄合いを持っている。収穫後に去年と同じく野武士が襲来するからだ。長老の儀作(高堂国典)は侍を傭うと決め、利吉等を侍探しにおくりだした。歴戦の古強者の勘兵衛(志村喬)が村人の願いに応え、五郎兵衛(稲葉義男)、久蔵(宮口精二)、平八(千秋実)、七郎次(加東大介)、勝四郎(木村功)を選抜した。そこに菊千代(三船敏郎)という野武士のような男が付いて来た。その菊千代も仲間に加えて七人の侍は村に向かう。勘兵衛の指揮の下、村の防衛体勢は整えられ、村人の戦闘訓練も始った。いよいよ収穫が終り野武士が村に襲来した。七人の侍と村人の命がけの戦いが始まり、夜討によって、野武士十人を斬ったが、侍側も平八が火縄銃に倒れる。夜が明け野武士は騎馬で村に襲いかかる。侍、村民が手に手に武器を持って応戦した。翌朝激しい驟雨の中、野武士は残った十三騎が村になだれこみ決戦を挑んできた。斬り込んだ侍達と百姓達は死物狂いの闘いをいどむのだった・・・・・・・・・・

(日本/1954年/207分/監督・黒澤明/脚本・黒澤明、橋本忍、小国英雄)
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「七人の侍」受賞歴
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1954年度ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞
英国映画協会『Sight&Sound』誌発表2012年「映画批評家が選ぶベストテン」第17位
英国映画協会『Sight&Sound』誌発表2012年「映画監督が選ぶベストテン」第17位
2000年「20世紀の映画リスト」(米『ヴィレッジ・ヴォイス』紙発表)第23位
2008年「歴代最高の映画ランキング500」(英『エンパイア』誌発表)第50位
2008年「史上最高の映画100本」(仏『カイエ・デュ・シネマ』誌発表)第50位
2010年「エッセンシャル100」(トロント国際映画祭発表)第6位
2013年「オールタイムベスト100」(米『エンターテイメント・ウィークリー』誌発表)第17位


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「七人の侍」感想・解説
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この映画の活劇の、その迫力と激しさは、凡百のアクション映画の比では無い。
白黒画面も相まって、肉弾相撃つという重量感のある格闘は見る者を圧倒する。
戦闘シーンにおける、雨の描写、格闘の激しさ、細部の徹底した作りこみ、そのあくなき黒澤監督の職人的な追及が、一つ一つのシーン、シークエンスに、その場に立ち会うかのような臨場感を与えたのである。

例えばこの後リメイクされた「荒野の7人」と見比べてみるといい、アクション・シーンが軽いものだから、派手さはあるものの映画全体にリアリズムが感じられず、結果として表現に強さと迫力がなく、説得力が失われてしまった。


黒澤監督の映画で評価が高い作品は、この映画における大活劇のようにエンターティーメント性が高い。
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不思議なことこの監督の場合、テーマの追求と娯楽性は矛盾しないらしい。


そもそも黒澤監督の資質は、芸術家というよりは職人として、純文学ではなく大衆文学作家として、優れているように思う。

その、娯楽表現の重要な要素としてリアリズムを追求したのではないかと想像する。
黒澤監督自身、それまでのチャンバラのような舞踊的表現では目新しさがないと言った言葉に表されるように、新しい娯楽表現、新しい刺激の追及の果てに、この「七人の侍」や「用心棒」のような、「黒澤リアリズム」に到達したように思える。

アクションシーンのリアリティ

複数のカメラによって一シーンを撮影する「マルチカメラ方式」を取ったことで、格段に編集の自由度が上がった。状況説明のカットから、アップの場面への転換のリズムで迫力を生み、観客の目線の誘導をカメラと同調させることで臨場感を高めて、強いリアリティーを生んだと感じる。

しかし、たとえ娯楽の追求の結果だとしても「リアリズム」自体が「創作物」にとっては錬金術の役目を果たしうるのである。

seven-poster.jpgなぜならリアリズム=「現実感・本当らしさ」を表現でき得れば、見る者を映画世界に取り込み、その世界に感情移入を促す強い力を持ち得るからである。

それは日々現実を生きる観客にとって、現実と同様の「ホンモノ」を認識するならば、それを虚構の中に見出したにせよ、その「映画=虚構」は自らが生きる現実と等価となり得る。
そのとき観客は「無から有」を生み出すごとく「映画内を実際に生きる」経験を得るだろう。

これは端的にいえば「オレオレ詐欺」と同じ詐術、構造ではある。
つまり嘘が現実味を帯びて、本当としか思えなければ、現実的に人を動かし得る力を持つということだ。
大事なのは、「本当」として感じさせることであり、黒澤の映画にはそれがあったのである。

このリアリズムに騙された観客は、再度言うが、もう映画内のイカナル出来事も我が身に起きた事件としなければならない。
そしてつまるところ、物語の成功とは観客を物語内に参加させることに尽きるであろう。
なぜなら、強い感情移入が促されれば、たとえ宇宙人が宇宙に帰るというドラマであっても、人はその運命に涙するのだ。

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いずれにせよ、この「七人の侍」は細部に対する徹底した作りこみによって、リアリズムを構築するための教科書とも言うべき一本だと思うし、その結果として感情移入を促された観客にとって、この映画の娯楽としての力が増したことは、間違いないはずである。


同時にこの「リアリズム」という錬金術は、例えばイタリアン・リアリズムでも判るとおり、現実を映す強い力が有るがゆえに、その表現自体が社会的・芸術的な力を保持する。

芸術というものの属性に、未だ知りえない新しい世界を切り取る力を想定するとき、リアリズム以外に近代に至って否応なく直面させられた「神の不在」という、現実の世界を映し出す方法を持ち得なかった。
それゆえ、神に頼れないという無慈悲な世界を生きる人間が、現実の救済を求めて物語を構築するためには、リアリズムに寄らざるを得なかったのである。

従って、この「7人の侍」におけるリアリズムが仮に娯楽に奉仕するためのそれであっても、同時に芸術性を保持することが可能であったのは、その映像表現のリアリズムが、近代に有ってはそのまま芸術表現と同義であるという事情によるものだったというのは言い過ぎだろうか。


更に邪推をすれば「羅生門」「七人の侍」に向けられた評価に、海外から芸術としての言及が増えるにつれ、黒澤本人に芸術志向が生まれ、強まっていくように思うのである。

seven-kuro-l.jpgだがそこに、黒澤の混乱を個人的には感じてしまう。
黒澤作品で評価された芸術性が「羅生門」「七人の侍」の持つ、映像のリアリズム表現という「美術的な力」に在ったにも関わらず、黒澤自身は人文学的な「理念」こそが芸術性だと、考えてはいなかったろうか・・・

だが、黒沢が表現したかった人文学的な「理念=黒澤ヒューマニズム」は、生硬な「理想主義」を掲げた作品となって、往々にして陰惨な硬直性を持ってしまうと、個人的には感じられるのである。
その芸術志向が、作品の映像として消化され違和感なく表出されるには「デルス・ウザーラ」まで待たねばなるまい。

いずれにせよ、この映画「七人の侍」は大衆と評論家の両方の支持を得て、不朽の名声を勝ち得た。
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この映画が世界映画史に残る名作であることに異論はないが、しかし気になるところがある。

この映画のラスト「また負け戦だったな・・・勝ったのは百姓達だ」という、セリフに関してである。


これを、エリート層(侍)が苦しい闘いをしたとしても、結局、労働大衆(百姓)を導くことはできないという詠嘆であり、そのアキラメこそがこの映画のテーマだと言ったら、お前はへそ曲がりだと怒られた事があった。

まぁ私がへそ曲がりなのは間違いないが、クロサワのこの手の教条的な言葉を聞くたびに皮肉なことを言いたくなってしまう・・・・・・・しかし、このラストのセリフどう見ます?


関連レビュー:『羅生門』真実を問う黒澤映画の古典
この映画も完璧な一本。「七人の侍」がアクションのリアリティーを語っているとすれば、「羅生門」は人間存在のリアリティーを語っていると感じます。



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以降「七人の侍」ネタバレがありますので、ご注意下さい。
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雨の中、野武士と、侍に指揮された村人の存亡ヲ賭けた決戦が始まる。

久蔵、五郎兵衛が倒れた。怒りに燃えた菊千代は最後の一人を屋根に追いつめたが、敵の弾をうけ、差しちがえて討死した。
決戦の終焉

英語文はマルチカメラによる撮影によって編集素材を増やした上で、アクションシーンのテンポやリズム、目線誘導を、卓越した編集力で表現し、アクションシーンの革新をもたらした事を検証している。
野武士は去った。しかし百姓も数人倒れ、七人の侍の中四人が死んだ。
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「七人の侍」ラストシーン
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新しい土鰻頭の前に立った勘兵衛、七郎次、勝四郎は、六月の爽やかな風の中で働いている百姓達を静かに眺めた。田んぼには田植唄が流れていた。

「勝ったのはあの百姓達だ。わし達ではない。」


余韻のある、素晴らしい終わり方だと思う……

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posted by ヒラヒ・S at 16:06| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月26日

『それでもボクはやってない』司法の闇を暴く・ネタバレ・あらすじ・結末・意味

それでもこの映画がやったのだ。



評価:★★★★★ 5.0

日本の司法関係者は否定するだろうし、証拠が有るわけでもないが、この映画のせいで裁判員制度が始まったとニラんでいる。
映画中で、裁判の実際や、そこに関わる法曹界の面々が、いかに実世間から遊離しているかが白日のもとにさらされてしまった。
有罪率99.9%という、司法における無謬性の強引な構築の実態が、この映画で露になった。
この異常な村社会によって、法が司られているというのがほぼ事実だというのが、一市民としてはホントに怖い・・・・・・・
それでもぼくはやってない・あらすじ

面接に向かう満員電車で痴漢に間違えられた金子徹平(加瀬亮)は、現行犯逮捕された。徹平は警察署と検察庁での取調べでも、容疑を否認し無実を主張する。しかし受け入れられず、起訴され裁判に付される。徹平にはベテラン弁護士・荒川(役所広司)と、新米弁護士・須藤(瀬戸朝香)がついた。徹平の母・豊子(もたいまさこ)や友人・達雄(山本耕史)、痴漢冤罪事件の体験者の佐田(光石研)も参加し、事件調査や署名活動を開始した。裁判が始まり、弁護士荒川は警察の捜査が不十分であることを立証し、裁判は有利に進んで行ったのだがが、裁判長の交代により事態は予断を許さなくなっていく・・・・・・・・・・

(日本/2006年/143分/監督脚本・周防正行)

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それでもボクはやってない感想・解説
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周防正行監督は、いままでも仏教界、学生相撲、社交ダンスなどマイナーな世界を描いてヒットを飛ばしてきた。
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この人のスゴイ所は、普通の人が知らない情報を拾い上げ、その情報が世間一般の人にはエンターテーメントとして受け入れられると見極める、その眼力にあるように思う。

またその情報を、通常であればドキュメント的に提示しそうなものだが、しっかりと映画の物語として落とし込んで、見る者にドラマとしての強さを伴って伝える能力がすばらしい。
 
そういう力を持ったこの監督が、この映画ではマイナーなだけではなく、タブーともいうべき世界に手を広げてしまった。

sore-sihou.jpg恐ろしい事に国家権力である。
これほど取材が難しい世界はない。
なぜなら役所官公庁は、情報を一般に知らせない事で円滑に運営出来ている面がある。
例えば、この映画で語られているように、刑事事件の99%が有罪になるという情報を聞いただけで、誰もがおかしいと思うはずだ。


soredemo-posu.jpgこの99%の有罪率のカラクリは、司法制度の中にいる人々、裁判官、検事、弁護士、は法曹界という閉鎖社会の中の同僚であるため、例えば検事が起訴した事件を引っくり返すと、その裁判官の評価が下がるというように、その法組織の体系を暗黙の内に守ろうとする過度の防衛本能が原因なのである。

日本の役所組織にこういう例は山ほどあり、その内容を秘匿とまでは言わないまでも、敢えて公開をせずに済むよう、どこが担当部署か分からなくしたり、書類関係を煩雑にしたり、組織的な迷宮を構築して面倒事を極力減らし組織を外部から守ろうとする体質があるのだ。


しかし、これは単にお役所お役人の世界と簡単に言ってすむことであろうか。

実は日本の社会構造全般、日本の全ての組織に共通することだと思えるのである。


つまり、日本人は多かれ少なかれ所属する組織の中で、組織を守る為にこの映画の司法制度と似たような行動様式を持ってはしないか。

sore-hiza.jpgたぶん大多数の日本人は、集団を守るために個人の意思を犠牲にする事で、組織=社会を円滑に運営してきたのだ。
そのシステムが決して悪いばかりだとは思わないが、社会から敵対視された個人にとっては絶望的なシステムである。

つまり社会全体が、組織=集団の和を乱さないという行動様式を個人に求めているのに対して、真逆の行動を取るという意味を考えてみるべきだ。
たぶん日本社会で個を主張することがどれほど困難か、等しく日本人であれば過去に経験をしているであろうし、想像するだに恐ろしい事態だと了解されるであろう。

sore-taiho.jpg 
少なくとも普通に日本社会で育って来た人間であれば、社会=集団に従いなさい、全体の和を乱す行動は慎みなさい、自己主張をするより協調性を優先しなさい、という教育を受けているはずだ。

そしてまた日本人はこの社会的要請に実に忠実に従う。
これほど善良従順な民族が地球上にいるかと、朝方4時に車も誰もいない交差点で赤信号を待っている日本人をみて、心の底からいじらしくなる

この教育の行きつく先が、小はサービス残業という組織に対する奉仕であり、その最大値こそ、第2次世界大戦時に日本軍で見られた、玉砕であり、特攻隊であったのだと思わざるを得ない。


sore-army.jpg
よき日本人とは、為政者・支配者にとっては、扱いやすく、どんな要求にも従う、従順なコマであった。
その個人というコマを、先の大戦で見るように、為政者は平然と使い捨てたし、これからも使い捨てるはずだ。

sore-taitei.jpgなぜなら、組織に反抗するような日本人はいないし、”正しい”日本人であれば組織に献身することこそ喜びだと感じるはずなのだから、日本の為政者は、国民を国家に奉仕させることに、多文化ほど痛痒を感じないですむ。

こう考えて来たとき日本の組織に対する個は、旧日本軍軍人やこの映画の様に、いつも悲劇的な結末を迎えざるを得ないのであろうか?

 
私はそうは思わない。
sore-sihoumega.jpg絶対に日本においても、個人が「組織=社会」と戦って勝てる道が有ると、信じる。

例えば、周防監督とこの映画が成し遂げたように、個が勇気を持って組織の不合理を糾弾しさえすれば、組織は「裁判員制度」の如く、自ら開示せざるを得なくなるのだと信じたい。

そして、個が社会に在るその不合理を追求しなければ、日本は容易に全体主義に陥ることは、過去の歴史からも明らかである以上、自戒を込めて、個は社会と対決する覚悟を持つべきなのである。

その対決の一端が、その勝利の証明こそ、この映画だと信じる。
 
再び期待も込めてこう言おう。
「裁判員制度」を実施させたのは・・・・
日本の司法関係者は否定するだろうが―
それでもこの映画がやったのだ。」と・・・・

加瀬亮インタビュー

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以降「それでもボクはやってない・ネタバレ」を含みます。ご注意下さい。
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裁判の証拠として、現場状況の再現ビデオが提出され、徹平の犯罪が不可能だとの証明がされたと思われた。
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更には事件の目撃者の女性が見つかり、無罪も証言した。
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そして、ついに判決の日を迎えるのだった・・・・
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それでもボクはやってないラスト・シーン
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しかし、判決結果は有罪。
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判決を聞きながら徹平は、裁判所は真実を明らかにする場所ではなく、とりあえずの判決を下す場所でしかないことを悟る。
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そして、判決を不服として控訴した。
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このラストの、司法関係者に対するメッセージは強烈だ。裁判官自身、自らの罪と罰を、こんな裁判の形で誰かに決められたいと思っているのか?という問いである・・・・・・

この結論を見て、不満を感じる観客も多いだろうと思う。
しかし、そのフラストレーションこそ、周防監督の目指した物だったろう。
この映画は結末で、司法制度の現実を見る者に突きつけ、そこで感じる不充足や憤懣の強さによって、即ち日本の法制度がどれほど国民感情から乖離しているかを証明して見せたのだ。


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posted by ヒラヒ・S at 18:29| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする