2016年12月06日

『父と暮せば』原爆の痛みを描く映画の意味・あらすじ・ラスト・感想

喪失の痛みと再生の祈りの物語



評価:★★★★★ 5.0

昭和20年8月6日、午前8時15分、ヒロシマ上空。
ピカッと光りドンとなる。
そして人々の生活も、愛も、絆も、思いも、一人一人決して同じもののない命が一瞬のうちに失われる。


死者と生者・・・・・等しく持つ喪失。
亡くなった人々が残す万感の思い・・・・・
生き残った人々の永遠に取り戻せない平安・・・・・・

生き残った者が言う「私は幸せなっちゃいけんのじゃ」「生きとるのが申訳のうてならん」
        
霊は答える「なぜ生かされてるのか考えてみんしゃい」
父と暮せばあらすじ
1948年夏、広島。原爆によって目の前で父・竹造(原田芳雄)を亡くした美津江(宮沢りえ)は、自分も生きていてはいけないと思い、自らが幸せになることを許せない日々を送っていた。そんな彼女の前に、ある日竹造が現れ、美津江が気になる木下(浅野忠信)という青年との関係を進展させようと働きかける。なんだかだと言葉を変え翻意させようと努めるのだが、娘は自分は幸せに成ってはいけないと拒み続けるのだった。しかし、やがて美津江は父の本当の願いを知り、心を動かされ出す・・・・・・

(日本/2004年/99分/監督・黒木和雄/脚色・黒木和雄、池田眞也/原作・井上ひさし)

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父と暮せば感想
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この映画はヒロシマの原爆投下の悲劇を描きます。
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戦争、また原爆投下という人類史上未曾有の特殊状況下ゆえに、その傷の深さは平時には到底想像しきれるものではありません・・・・・
しかしこの映画によって、間違いなくその喪失に伴う悲痛な苦しみの一端を知ることができると思います。


そんなことを思えば「生きとるんが申し訳なくてならん」という
言葉の重さが響きます。
あの日の広島では「死ぬのが当たり前で、生き残るのが異常だった」と言うセリフも、悲惨な災禍の状況を伝え突き刺さる言葉です。

その傷ついた魂が、いかに再生されうるか、救済されうるか、前を向きうるかを描き深い感動を呼びます。

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長回しのカメラワークや舞台的な演技演出・・・・・井上ひさしの舞台脚本に敬意を表し、可能な限り「演劇」的な表現を黒木監
督は試みています。


titi-futari.jpgまた出演者の宮沢りえと原田芳雄の演技は、何度見ても汲みつくせぬ深い魂を演じて、圧倒されます。

そして途中途中に挟まれる、映画的なモンタージュや演出が、テーマ・情感の描写を補足し効果的です。

titi-asa-miya.jpg特に注目したいのは、映画でのみ描かれるヒロインとその恋人の交流のシーンです。

このシーンでは宮沢りえと浅野忠信の二人にたいしては、リアルな演出がなされています。
その対比により演劇的演出がなされた映画のパートが、ヒロインの内的葛藤であることをより鮮明にする効果が出ています。

しかしそれと同時に、このオリジナルシーンをリアルな演出にした事と、浅野忠信の存在にこそ、黒木監督のこの映画に込めた秘められた祈りが込められていると思うのです・・・・・・

たとえばこのヒロシマの悲劇は、アメリカの軍事力の行使によってもたらされました。

しかし同様の喪失の痛みを、旧日本軍も他国にもたらしたものです。

そして時代は下って、アメリカも9.11のテロによって同様の痛みを感じたでしょう。

これら歴史上で無数に繰り返された、繰り返される、この喪失の連鎖。

この連環を断ち切るには、自分たちが敵と憎む者達に対しても、理解と許しを持つことでのみ可能だと、この映画は語っているように思うのです。

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黒木監督はその未来に対する希望を、浅野忠信という日本とアメリカの血を受けた俳優を恋人役に起用することで表現したと考えます。

ヒロインと恋人が結ばれる予感の内に、かつての敵同士がともに歩むこと、ともに許しあい新たな関係を築いていく姿を、未来に向けた伝言にしたのだと個人的には解釈しました。

いずれにしても・・・・・この映画で表現された、過去と現在の絶望から未来への希望への道は、負の感情を乗り越える道を示して感動的だと思いました。

すでに多くの戦争体験者が物故し、右翼的な言説が聞こえるにつれ、このような映画の存在が新たな争いの抑止力になるように祈って止みません。
オバマ大統領の原爆ドーム演説

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以降「父と暮せばネタバレ」を含みますので、ご注意下さい。
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titi-futari.jpg実は娘は原爆投下の日、家の前で同時に被爆した「父」を見捨てて逃げた自分を許せなかったのです。

男で一つで育ててくれた父を死なせた自分が、幸せになるわけにはいかないという悲痛な思いだったのです。

原爆が落とされた日、父は自分を助けようと、そばを離れない娘を「親孝行したければ逃げろ」と言います。
titi-ariga.jpg逃げないんだったら「自分で死ぬ」と言います。

そして、こんな酷い死が、こんな酷い別れが、一万もあったと言う証人としてお前は生かされてるんだと父は血を吐くように言うのでした。

そして、俺の孫を生んでくれと、この事実を伝える命を継承してくれと娘に頼むのです・・・・・


娘は、それを聞いて自らが生きていく意義を見出し「おとったんありがとありました」と言うのでした。
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父と暮せばラストシーン
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この映画のラストシーンは廃墟となった原爆ドームを映し出し、その廃墟・瓦礫の中に可憐に咲く二つの花を捕らえて終わります。

この描写は、どれほど破壊されたとしても、この戦争の惨禍を二度と繰り返さないというメッセージを乗せて、命は継続し続けるという希望でこの映画を終えているように思います。

それは、喪われた魂の代表として父が言う「生き残った者は生き残った理由がある」という言葉は、原爆や戦争で死んでいった者達の真情だと思います。そんな生きたいのに死んでいかざるを得なかった人々の分まで、今、生を受けてる者が有意義に生き得ているでしょうか?

戦後半世紀を過ぎた今、再び問い直すべきだろうと思いました。

黒木和夫監督戦争レクイエム4部作予告

黒木和夫監督は戦争時、旧制の中学生で勤労動員で空襲を受け、すぐ傍にいた友人が死に、その友を助けず夢中で逃げたことに自責の念を持っていたと言います。そんな戦争の悲惨な経験が反戦映画の魂として結実しているように思います


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posted by ヒラヒ・S at 17:18| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月03日

『羅生門』真実を問う黒澤映画の古典あらすじとネタバレ・ラスト

黒沢の法廷劇!見てない人がうらやましい!!



評価:★★★★★ 5.0

黒澤明の傑作法廷劇!!!
その後リメークが何度作られようと、この作品の圧倒的な描写力に比べれば足元にも及ばない。
同時にこの映画は、間違いなく高い娯楽性を持っている。
羅生門あらすじ
長い戦乱と疫病の流行に天災で、荒れ果てた平安時代の京の都。雨やどりに羅生門に下人(上田吉二郎)が駆け込むと、そこに杣売り(志村喬)と旅法師(千秋実)が疲れ果てて座り込んでいた。下人は二人から奇妙な殺人事件の裁判の顛末を聞く・・・・・・
盗賊・多襄丸(三船敏郎)は、森の中で通りかかった侍夫婦を獲物と定め、夫(森雅之)を縛り目の前で妻(京マチ子)を強姦する。そして、現場には夫の死体が残され、妻と盗賊は消えていた。この殺人事件の裁きが始まり、目撃者の杣売と旅法師、当事者の捕らえられた盗賊(三船敏郎)と侍の妻(京マチ子)、更には死んだ侍の霊まで呼び出し証言させた。ところが事件の真相は、盗賊と侍の妻と侍の三者の証言がくい違い、各々が自らを擁護し、プライドを守ろうとし、結局どれが真実なのか不明瞭なまま。それを聞き終えた下人は、その事件にはまだ隠された事実があるはずだと指摘する・・・・

(日本/1950年/88分/監督・黒澤明/脚本・黒澤明、橋本忍/原作・芥川龍之介)
羅生門受賞歴第12回ヴェネチア映画祭グランプリ、第24回アカデミー賞外国語映画賞 、1951年ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、
羅生門出演者三船敏郎:多襄丸/森雅之:金沢武弘/京マチ子:金沢の妻・真砂/志村喬:杣売り/千秋実:旅法師/上田吉二郎:下人/加東大介:旅免/本間文子:巫女

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羅生門感想
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このドラマはテーマ的な要素よりも、まずその娯楽性に注目したい。
この映画の娯楽性は、法廷劇なら必ず持つ要素によっている。 
rasyou-coat-mifune.jpgすなわち、法廷における当事者の利害の対立だ。
この映画では、事件に関わる3人の供述が喰い違い、利害関係が相反する。
この時、お互いの主張が対立すればするほど、ドラマとしての強さは増し、観客の興味を惹く誘引力として作用するだろう。

そのために黒沢は、再現フィルムを持ち込み一人一人の供述を唯一絶対の真実のように描くことに力を注いだ。それは、証人の言葉が真実として響けば響くほど、相互の対立が深く強くなるのを計算してのことだ。

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また同時に黒澤は、ここで当時の映画の約束事「再現シーンの無謬性」を覆した。
つまり、「羅生門」以前のフラッシュバックは、事実を語るものだという映画的な約束事を無視して、再現シーンで真実か否か曖昧な事実を語って見せた。
それゆえ、公開当時の観客からすれば尚更、再現シーンに信憑性を感じたと想像される。


結果として、見る側はある者の供述を見せられる内に、その供述者に感情移入をしてしまう。
感情移入をした結果、その者と精神的に「同化=同情」せざるを得ない。

それゆえ、一人の供述が終わった時点でその人物を信じている観客は、次の証人の供述が終わったときには、前の供述者を信じた自分と今の供述者を信じている自分を抱えて、混乱し途方にくれざるを得ない。
 
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そして、最終的には映画の中の登場人物を疑うのと同時に、観客自身が自分の信じたものは何だったのかと反問することになる。
 
ついには「真実=自分が真に信じられる事実」の存在を疑わざるを得なくなるであろう。

以上の帰結として、法廷劇で必ず必要とされる「真実」という結果
(それは往々にしてそのままドラマのテーマになるものだが)は存
在しないという、法的劇自体を否定するドラマとなった。
 
そして、見る者は考えざるを得まい。

裁きとは何なのかと。

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この映画が撮られた1950年は、第二次世界対戦が終わって5年が経過している。
1948年12月のA級戦犯の絞首刑を持って「東京裁判」はほぼ結審を迎えるが、まだまだ世相は戦後の混乱の真っ只中にあって、この日本の悲劇をもたらした真実がなんだったのかという、「苦い問い」がこの映画にあると思うのである。

さらに突き詰めれば、ついには「東京裁判」「ニュールンベルグ裁判」等、戦争犯罪を裁いた法廷、ひいてはその裁判を元にして成立しようとしている戦後民主主義体制自体が、真実なのかという問いとして、突きつけられるであろう。

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いずれにしても黒沢は娯楽性を高める事で、同時に真実とは正義とは何なのかという重いテーマをドラマとして昇華する事に成功し、更に、物語の娯楽性とテーマ両方の価値を高めるという、希有の成功を収めたのである。

 
やはり、すべてが完璧な一作と思う。
 
ちなみに、この映画はすでに映画史に残る傑作として各所で高い評価を受けている。
2012年:「映画批評家が選ぶベストテン」第26位(英国映画協会選出「映画史上最高の作品ベストテン」)
2012年:「映画監督が選ぶベストテン」第18位(英国映画協会選出「映画史上最高の作品ベストテン」)
2000年:「20世紀の映画リスト」第10位(米『ヴィレッジ・ヴォイス』紙発表)
2010年:「史上最高の外国語映画100本」第22位(英『エンパイア』誌発表)
2010年:「エッセンシャル100」第14位(トロント国際映画祭発表)

などなど

しかし批評家がどう評価しようと、何が真実なのかは「藪の中」である。
自らしっかり確かめようというのがこの映画のメッセージではなかったか?
ぜひ、ご自分の眼でご確認下さい。

あ〜まだ見てない人は、この映画をこれから楽しめるんですね・・・・・・・ホントウに羨ましい

【休憩タイム】黒澤明 1990年アカデミー名誉賞受賞シーン
スピルバーグとルーカスがホントに憧れの視線で見ているのが印象的。
ハッピーバースディーの歌は、何度見ても感動的です・・・・・


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以降「ネタバレ」と「ラスト」を含みますので、ご注意下さい。
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実はこの映画で、事件の真相は明かされない。
それは、この世に「絶対の真実などないではないか」と問う映画であれば、当然の帰結だったはずだ。

しかし、唯一つ明瞭な悪が語られる。

rasyou-simura.pngこの映画の最後で、話を聞き終えた下人が羅生門に捨てられた赤ん坊の産着を剥ぎ取る。

それを咎める杣売りに対し、下人は事件現場から紛失した短刀がどうなった、それを盗めるのは杣売りしかいないではないかと責める。
杣売りは力なくうなだれ、盗んだことを無言の内に認めます。

そして、以下のラストへとつながるのだ・・・・・・・

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羅生門ラストシーン
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このラストシーンには、誰も信じられない、何が正義なのか分からない、混乱した終戦直後の日本の現状が志村喬の口を通じ「今日という日は誰も信じられない」という言葉で表されていただろう。

しかし同時に、それでも、人を信じて歩むしかないという希望が描かれているように思える・・・・

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posted by ヒラヒ・S at 18:12| Comment(5) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月30日

『壬生義士伝』新撰組隊士の悲運の映画・ネタバレ・あらすじ・ラスト・感想

壬生「不」義士伝



評価:★★★    3.0点

この映画は、幕末の新撰組を舞台にした、下級武士の悲劇の物語だ。
この映画は今も昔も変わらない、貧困は人をこうも苦労させるのだと語られているのだが・・・・・・

壬生義士伝あらすじ


東京の明治三十二年冬の晩、大野医院に元新撰組隊士、今は老人となった斎藤一(佐藤浩一)が、孫の診察のため訪れる。病院に新選組の隊士・吉村貫一郎の写真を発見する。南部藩下級武士出身の貫一郎(中井喜一)は、朴訥な人柄ながら剣の達人だったが、反面、命を惜しみ、金銭に汚かった。故郷南部に赤貧に喘ぐ家族を養うため、脱藩し新選組に入隊したからだ。斎藤はそんな貫一郎を嫌ったが、新撰組の反乱騒ぎの際「義」を通す姿を見て一目置くところもあった。時代は大政奉還を迎え、賊軍となった新選組は官軍に追われる。貫一郎は新撰組として最後まで戦うが、傷つき南部藩、大阪蔵屋敷に逃げ込む。そこには幼なじみの家老・大野次郎右衛門(三宅裕二)が居り、藩を守るため貫一郎に非情な言葉を掛けるのだった・・・・・

(日本/2002年/137分/監督・滝田洋二郎/脚本・中島丈博/原作・浅田次郎:『壬生義士伝』)

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壬生義士伝感想

この映画は『2004年・第27回日本アカデミー賞』最優秀作品賞など数々の高い評価を受けた作品です
**但し、以下の文章には個人的な印象に基ずく、この作品に対する良くない評価が書かれています。ご注意ください。**
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実はハリウッドの映画界というのは、ほぼ完璧な分業制で、それぞれの役割分担が契約書で明確に規定されるという。

mibu-katinko.jpgその場合、監督は演出と映画の完成イメージを決定するものであり、カメラマンは絵作りの責任者として撮影をし、編集者は撮影した映像素材のどこを切ってどうつなぐという編集権を持つ。

しかも、映画のビッグビジネス化を背景にコケたときの保障を保険会社が担うことになり、今やハリウッド映画を支配しているのは、保険会社だという。

保険会社が、資金に見合う収益を上げられないと判断すれば、監督、脚本は言うに及ばず、ビッグスターですら更迭する権限を持つというから驚く。

こんな話をしたのは、そんなハリウッドの異常さを言いたいからではなく、実はその制度によって必然的に客観的な眼が映画作品に対して注がれることの利点を語りたいと思ったからだ。

つまりは、保険会社を筆頭に、徹底したマーケッティングにより、それこそシーンごとに観客にどちらがいいかとお伺いを立てる位の徹底振りだという。

その結果、映画としての基礎的なクオリティーを、ハリウッド映画は確保するのだ。

そんなハリウッドの映画製作は、作る方には不自由極まりないだろうが、反面、観客に対してはサービス精神に満ちているとは思うのだ。

さて、この映画って「壬生義士伝」の話ですが・・・
実は、そんな客観的な基礎確認を行うべき部門が、日本映画のシステムとして保持しえているのかと問いたいというのが、この文章の目的なのでした。

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この映画、個人的には、最後の中井の一人芝居が長〜〜〜〜〜〜〜いと感じた。


映画的な構造としてみても、ここまで(時間にして35分)延々と泣かせようとするシーンを描くのは、映画全体のバランスを崩すと言わざるを得ない。

この映画前半を反映しての、クライマックスとしては不均衡な表現であるがゆえに、一定数の観客は同様の感慨を抱くはずであり、それは映画として勿体無いと感じる。

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そもそも作り手とは、しばしば作品をよくしようとして「情緒過多」になるものだ。

その代表が「ディレクターズ・カット」の映画であり、「オリジナルカット」よりツマラなくなってしまうのは、映画ドラマの持つエモーションを、監督が主観的に裁断するがゆえに客観的に判断できていないからだろう。

この映画に在る過剰さも、作り手側の情感=「主観」が観客の求める情感=「客観」以上に、表出された結果だと感じる。


それであればこそ、ハリウッド的な客観化の過程を経ることは、決して無駄な事だと思わない。

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特に日本の比較的安価な映画制作費(日本映画の一本の平均制作費6億は、アメリカのTVドラマ一本分の最低金額だそうだ)は比較的安価だ。

それは映画専門家ではないシロートであっても安易に映画を作れる状況を作り出し、それこそ映画と呼べないような映画が粗製乱造される傾向にある。

お笑い芸人で映画を作ろうと言う、あなた!あなたの事です!!

だからこそ業界を守る意味でも、ぜひとも映画産業界としてチェックしてもらいたいものだと思う。

と言うのが映画製作作業上のナンクセです。

スタートから迫力ある剣戟で、期待は高まる。人情話も上手くできているのだが・・・・


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これ以降

壬生義士伝ネタバレ

壬生義士伝ラスト

を書いています。ご注意下さい
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ま〜〜〜〜〜だ終わらない。
さて、ここからは物語に対するイチャモンだ。

この映画の最後で、主人公の貫一郎は官軍に引き渡されることなく、南部藩の温情により故郷を想いながら切腹させて貰う。

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当時の武士であれば、この賊軍として刑死(斬首)されてしかるべき状況で、旧友の
家老の仕置きとは、真に情愛に満ちた処置
だと感得されたはずである。

なぜなら当時の切腹とは、武士にとっては罰ではないのである。

それは、往々にして強制であるにしても、基本は自らを自発的に裁く結果、死を持って社会に対して償うべきだと自ら判断し、実行される行為であったのだ。
だからこそ、自ら死を選ぶその精神力に対し、その心映え潔さを賞賛し、名誉の死と捉えられたのである。

その配慮に対して、感謝し潔く腹を切るのが武士であり、その死に対して延々と泣き言を披瀝する姿は武士にあるまじき行為であると感じられてならない。

mibu-konndou.jpg因みに言えば、新撰組総長・近藤勇の最後は斬首であった。
その死を切腹とするか斬首とするかで土佐藩と薩摩藩でもめたというのも、上の事情を反映したものだ。
薩摩藩は一軍の将を斬首するのは武士として忍びないとしたのに対し、土佐藩の谷干城は近藤は賊であり斬首以外無いと主張し押し通した。一説には土佐の坂本竜馬と中岡慎太郎を暗殺したのが新撰組だと、谷および土佐藩は信じていたための意趣返しだと言う。

つまり当時の武士にとって、この映画で描かれた切腹の前の命惜しみは、過剰な心情の吐露であり、脆弱に過ぎると思わざるを得ない。

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「武士道とは死ぬことと見つけたり」というように、いつでも死を迎える準備を常日頃の鍛錬によって培う者こそ武士だったはずだ。

その違和感は、幕末という動乱を生きていた他の武士を想起したとき、更に深まる。
そういう意味では、この映画に描かれた中井貴一演ずる貫一郎は、武士にあるまじき人格であると個人的には感じた。

更に言えば、この映画に描かれた主人公が、本当に義士なのかという疑問である。

自分の家族を食わせる為に、新撰組と言う政治結社の色を持つ戦闘組織に身を投じる事が、「義」であり得るのかと問いたい。

mibu-sinsenn.jpg一般的に「義」とは「公=社会」に尽くす心であり、それは「私」と相対する概念である。

新撰組の「義」とは、幕府という当時の政治権力を強化し、徳川中心の近代国家として、諸外国の圧力に対抗しようという主張に則っている。
それは明治維新を成した「薩摩・長州」の、国を崩壊させかねない荒療治に較べて、ずって混乱が少ない方法だったろう。

そんな新撰組の、日本幕末期の社会治安維持という「義」を、この主人公は真実持っていただろうか。
その「義=公」があってこその、殺人であり、暴力の行使であるのは、現代社会の警察官や軍人にも共通の公倫理であるはずだ。

mibu-nakai-musume.jpg仮に自らの家族の生活を守る「生活費」を得るためだとすれば、公的な目的を私的に捻じ曲げた結果だと、言わざるを得ない。

これを「不義」と表現せず、なんと呼べば良いだろうか。
総じてこの映画の主人公の描写は、当時の幕末志士、武士達の姿を、現代的な小市民に矮小化しすぎているように感じる。

それゆえ個人的には、この「不義士」の最後に対して同情を持ち得なかった。

結局この映画は、制作上は最後の一人芝居に表現された、作り手側の情感という「私」が観客が要求する「公」以上に表出されたことで映画のバランスを崩し、更にドラマとしては武士という「公」を生きた者達を、平成的な「私」の姿を基準に描いたがゆえに、さらに不均衡な歪みを生じたと感じる。

つまりはこの映画で表されたのは、「私」というものが優先されれば、「公」の意識は比例して希薄になるということだったように思う。

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posted by ヒラヒ・S at 18:08| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする