2016年12月15日

『武士の家計簿』経理侍の実話映画・あらすじ・ネタバレ・ラスト・感想

平成の時代劇



評価:★★★★ 4.0点

この映画は、新たな時代劇の形、もっと言えば新たな劇空間の地平を切り開いた、ある種のパイオニア作品として、映画史に残すべきとすら思います。

武士の家計簿・あらすじ

代々加賀藩の財政の御用を勤めてきた御算用侍(経理・会計係)の猪山家。江戸末期になり、八代目の直之(堺雅人)は、ただひたすらそろばんを弾き、数字の帳尻を合わせて毎日を暮らしている。彼は、町同心・西永与三八(西村雅彦)の娘お駒(仲間由紀恵)と結婚し家庭を持った。しかし直之が御蔵米の勘定役となった時、帳簿上の齟齬を見つけ、米の横流しがある事に気付く。藩内で横領をしていた一派が断罪され、直之は異例の昇進を果たす。武家社会は身分が上がれば出費が増え、猪山家の財政は逼迫していく。父・信行(中村雅俊)は江戸で膨大な借金がすでにあり、母・お松(松坂慶子)は着道楽だった。直之は猪山家の“家計改善計画”を断行。売れるものは全て売り、お家を潰す恥を回避すべく、家族は一丸となって借金返済のため、直之の指導の下倹約生活が家計簿に記される。直之は息子・直吉も御算用者として、4歳にして家計簿をつけるよう命じ、そろばんで子の額を割るほどスパルタで鍛えていく。しかし、時は幕末に移り直吉(伊藤祐輝)は、御算用侍が激動の時代に意味があるのかと父と反抗しつつも、時代の中心地・京都の加賀藩邸に向かうのだった・・・・・

(日本/2010年/129分/監督・森田芳光/脚本・柏田道夫/原作・磯田道史)


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武士の家計簿・感想
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時代劇の新しい地平と言えば、大げさに聞こえるかもしれませんが、それくらいユニークな物語になっていると思いました。
逆に言えば、過去の時代劇の「見せ場・快感」を期待して見ると、肩透かしを食らうかもしれません。
この映画は日本史歴史学者、磯田 道史著の『武士の家計簿〜 「加賀藩御算用者」の幕末維新』という歴史教養書を脚色しています。
内容は"猪山家に残された約37年間の家計簿を元に仔細に書き残された収入、支出の項目から武士の暮らし、習俗、とくに武士身分であることによって生じる祝儀交際費などの「身分費用」に関する項目や、江戸末期の藩の統治システムが実証的、具体的に描かれている。"(Wikipediaより)ということです。

そんな原作だけに、歴史的事実の研究事例を組み合わせてドラマとしたこの映画は、元が加賀藩の会計担当者の日常を描いたものだけに、刀を抜いての戦いや、劇的な苦悩や、封建社会の矛盾などという、激しい対立や対決を持った映画ではありません。

busikake-titi.jpg映画の終わり30分程は、幕末の時代の変転に対して語られますが、戦闘シーンは一切でてきません。
ここで描かれたのは歴史の激動ではなく、
家庭の不協和音の原因としての時代の変化
でしかありません。

むしろ今までの「時代劇」が描いてきた、激しいドラマを否定するかのように、日常の平安な生活感に満ち満ちており、まるでぬるま湯に漬かってうたた寝をしているような映画です。

busikake-tai.jpg
しかし、この日々の淡々として積み重なる日々の集積こそが、歴史というものを築いてきたのだという、至極当たり前のことを教えてくれる物語です。


なるほど、今も昔も平凡で変わり映えのしない日々こそが、人が生きる時間というものの本質だと気づかせてくれます。

そして、静かな日々の中に職場や家庭で大小のイザコザや衝突が生じて、泣いたり怒ったりするのも、その大小の波がまた元の静けさに帰っていくのも、現代と変わらぬ人の営みでしょう。

busika-houken.jpg考えてみれば人々は何時の世も、平和な日を、平穏無事を、家内安全を願って、生きるのです。
だとすれば、過去の時代劇で描かれた激しいドラマは、有り得ないほどの異常事態を描いてきたのだとも言えるでしょう。


歴史の中を圧倒的に占めて来たであろう時間が、どちらの時間であったかは明確だろうと思うのです。

そういう意味で、この映画には「歴史の真実の時」が定着されています。

busika-morita.jpg
蛇足ながら、この映画を撮った森田芳光監督は、この歴史の平凡こそが「歴史劇=時代劇」の本質であると語る、理由があったのでは無いかと個人的に邪推しています。


森田監督が初めて撮った時代劇は「椿三十郎」で、黒沢監督のリメイクでしたが、評価的にも興行的にも失敗と見なされるものでした。
その作品は、まるで「クロサワ映画」のイミテーションで、そこに森田監督の個性や主張を見出せないものでした。


このことは、アクションを描いた作品がない森田監督の資質という問題も有るでしょうが、それ以上に監督自身が活劇を描く必然を、現代に見出せなかった事に原因があったのでは無いかと思うのです。
何故なら過去の森田作品では、原作の世界を現代社会にあわせて大胆に改変しています。
大胆な解釈の変更が見られる例「失楽園」
当ブログのレビュー:
『失楽園』過激ベッドシーンの不倫映画のワケを解説してみる


そう考えた時、森田芳光監督は黒澤監督の戦後の荒々しい時代に生まれた「椿三十郎」の激しい殺陣の必然を、現代社会の中に見出せず、途方に暮れたのではないかと想像するのです。
その必然を求めて、時代劇に再度対峙したとき生まれた作品こそ、この映画だったように思います。
busikake-onbu.jpg
平和な日常を描いた時代劇こそ、この平成で求められるドラマだという森田監督の答えではないでしょうか。

つまりは、禄を得るために親から伝えられた家職を淡々とこなすのが江戸期の武士であり、それは今のサラリーマンと同じように将来の安定を第一に考えた実直な人生だったのです。
つまりは、現代サラリーマン、特に経理畑の方ならなおさら、とても共感できる日々の常態が描かれたこの作品こそ、平和な時代の時代劇として価値が有るように思います。

またこの映画のあと『武士の献立』や『利息でござる』などの、「平和な時代劇」というべきジャンルが成立し、時代劇の可能性を広げる一本となったと思います。

作家という人々は自らの個性に向き合えば、どんなジャンルにおいても、その個性を反映した作品を作り出しえるのだという証明となる一本だろうと思います。
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以降「ネタバレ」と「ラスト」を含みますので、ご注意下さい。
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父に反抗した息子・直吉も、父祖代々の家職である加賀藩御算用者としての技能を持って、加賀藩の京都出兵に参加します。
そして大政奉還後の鳥羽伏見以後の戦いで、その高い計算能力は時の官軍を率いた大村益次郎をして、君の能力は兵隊1万人に匹敵すると言わしめます。
武士家計−官軍
busikake-oomura.jpg大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政8年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。(wikipediaより)

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武士の家計簿・ラストシーン
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この映画の最後は、明治の世になり海軍の主計官として立身出生した息子が、父を背負って歩む姿がえがかれます。
武士−明治

ここには、一時親子の間に断絶があったとしても、実際子供が社会に出て行ったときに、父の苦労や仕事の価値を理解し、相互理解が生まれる姿が描かれているように思います・・・・・

そして、直吉の息子達も父と同様海軍に入ったという後日談が語られます。
こんな風に親から子に、何かが引き継がれることを伝統と言うのでしょう・・・・

こんな平凡な家庭が幾千、幾万集まって、泣いたり笑ったりしながら歴史を織り成して来たのだと、しみじみと思う、そんなラストです・・・・・・

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因みに明治の代で直吉、長じて猪山成之は、兵部省会計少佑海軍掛を経て大日本帝国海軍の主計官となり、海軍主計大監(大佐相当官)まで昇進して、呉鎮守府会計監督部長を最後に、1893年(明治26年)に予備役となっている。1920年(大正9年)没。
尚、東京・九段の靖国神社に立つ「大村益次郎」像の建立に力があったのは、加賀前田家の「猪山成之(しげゆき)」だった。(原作本より/右写真:猪山成之)


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posted by ヒラヒ・S at 17:27| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月06日

『父と暮せば』原爆の痛みを描く映画の意味・あらすじ・ラスト・感想

喪失の痛みと再生の祈りの物語



評価:★★★★★ 5.0

昭和20年8月6日、午前8時15分、ヒロシマ上空。
ピカッと光りドンとなる。
そして人々の生活も、愛も、絆も、思いも、一人一人決して同じもののない命が一瞬のうちに失われる。


死者と生者・・・・・等しく持つ喪失。
亡くなった人々が残す万感の思い・・・・・
生き残った人々の永遠に取り戻せない平安・・・・・・

生き残った者が言う「私は幸せなっちゃいけんのじゃ」「生きとるのが申訳のうてならん」
        
霊は答える「なぜ生かされてるのか考えてみんしゃい」
父と暮せばあらすじ
1948年夏、広島。原爆によって目の前で父・竹造(原田芳雄)を亡くした美津江(宮沢りえ)は、自分も生きていてはいけないと思い、自らが幸せになることを許せない日々を送っていた。そんな彼女の前に、ある日竹造が現れ、美津江が気になる木下(浅野忠信)という青年との関係を進展させようと働きかける。なんだかだと言葉を変え翻意させようと努めるのだが、娘は自分は幸せに成ってはいけないと拒み続けるのだった。しかし、やがて美津江は父の本当の願いを知り、心を動かされ出す・・・・・・

(日本/2004年/99分/監督・黒木和雄/脚色・黒木和雄、池田眞也/原作・井上ひさし)

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父と暮せば感想
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この映画はヒロシマの原爆投下の悲劇を描きます。
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戦争、また原爆投下という人類史上未曾有の特殊状況下ゆえに、その傷の深さは平時には到底想像しきれるものではありません・・・・・
しかしこの映画によって、間違いなくその喪失に伴う悲痛な苦しみの一端を知ることができると思います。


そんなことを思えば「生きとるんが申し訳なくてならん」という
言葉の重さが響きます。
あの日の広島では「死ぬのが当たり前で、生き残るのが異常だった」と言うセリフも、悲惨な災禍の状況を伝え突き刺さる言葉です。

その傷ついた魂が、いかに再生されうるか、救済されうるか、前を向きうるかを描き深い感動を呼びます。

chichito-butai.jpg
長回しのカメラワークや舞台的な演技演出・・・・・井上ひさしの舞台脚本に敬意を表し、可能な限り「演劇」的な表現を黒木監
督は試みています。


titi-futari.jpgまた出演者の宮沢りえと原田芳雄の演技は、何度見ても汲みつくせぬ深い魂を演じて、圧倒されます。

そして途中途中に挟まれる、映画的なモンタージュや演出が、テーマ・情感の描写を補足し効果的です。

titi-asa-miya.jpg特に注目したいのは、映画でのみ描かれるヒロインとその恋人の交流のシーンです。

このシーンでは宮沢りえと浅野忠信の二人にたいしては、リアルな演出がなされています。
その対比により演劇的演出がなされた映画のパートが、ヒロインの内的葛藤であることをより鮮明にする効果が出ています。

しかしそれと同時に、このオリジナルシーンをリアルな演出にした事と、浅野忠信の存在にこそ、黒木監督のこの映画に込めた秘められた祈りが込められていると思うのです・・・・・・

たとえばこのヒロシマの悲劇は、アメリカの軍事力の行使によってもたらされました。

しかし同様の喪失の痛みを、旧日本軍も他国にもたらしたものです。

そして時代は下って、アメリカも9.11のテロによって同様の痛みを感じたでしょう。

これら歴史上で無数に繰り返された、繰り返される、この喪失の連鎖。

この連環を断ち切るには、自分たちが敵と憎む者達に対しても、理解と許しを持つことでのみ可能だと、この映画は語っているように思うのです。

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黒木監督はその未来に対する希望を、浅野忠信という日本とアメリカの血を受けた俳優を恋人役に起用することで表現したと考えます。

ヒロインと恋人が結ばれる予感の内に、かつての敵同士がともに歩むこと、ともに許しあい新たな関係を築いていく姿を、未来に向けた伝言にしたのだと個人的には解釈しました。

いずれにしても・・・・・この映画で表現された、過去と現在の絶望から未来への希望への道は、負の感情を乗り越える道を示して感動的だと思いました。

すでに多くの戦争体験者が物故し、右翼的な言説が聞こえるにつれ、このような映画の存在が新たな争いの抑止力になるように祈って止みません。
オバマ大統領の原爆ドーム演説

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以降「父と暮せばネタバレ」を含みますので、ご注意下さい。
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titi-futari.jpg実は娘は原爆投下の日、家の前で同時に被爆した「父」を見捨てて逃げた自分を許せなかったのです。

男で一つで育ててくれた父を死なせた自分が、幸せになるわけにはいかないという悲痛な思いだったのです。

原爆が落とされた日、父は自分を助けようと、そばを離れない娘を「親孝行したければ逃げろ」と言います。
titi-ariga.jpg逃げないんだったら「自分で死ぬ」と言います。

そして、こんな酷い死が、こんな酷い別れが、一万もあったと言う証人としてお前は生かされてるんだと父は血を吐くように言うのでした。

そして、俺の孫を生んでくれと、この事実を伝える命を継承してくれと娘に頼むのです・・・・・


娘は、それを聞いて自らが生きていく意義を見出し「おとったんありがとありました」と言うのでした。
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父と暮せばラストシーン
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この映画のラストシーンは廃墟となった原爆ドームを映し出し、その廃墟・瓦礫の中に可憐に咲く二つの花を捕らえて終わります。

この描写は、どれほど破壊されたとしても、この戦争の惨禍を二度と繰り返さないというメッセージを乗せて、命は継続し続けるという希望でこの映画を終えているように思います。

それは、喪われた魂の代表として父が言う「生き残った者は生き残った理由がある」という言葉は、原爆や戦争で死んでいった者達の真情だと思います。そんな生きたいのに死んでいかざるを得なかった人々の分まで、今、生を受けてる者が有意義に生き得ているでしょうか?

戦後半世紀を過ぎた今、再び問い直すべきだろうと思いました。

黒木和夫監督戦争レクイエム4部作予告

黒木和夫監督は戦争時、旧制の中学生で勤労動員で空襲を受け、すぐ傍にいた友人が死に、その友を助けず夢中で逃げたことに自責の念を持っていたと言います。そんな戦争の悲惨な経験が反戦映画の魂として結実しているように思います


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posted by ヒラヒ・S at 17:18| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月03日

『羅生門』真実を問う黒澤映画の古典あらすじとネタバレ・ラスト

黒沢の法廷劇!見てない人がうらやましい!!



評価:★★★★★ 5.0

黒澤明の傑作法廷劇!!!
その後リメークが何度作られようと、この作品の圧倒的な描写力に比べれば足元にも及ばない。
同時にこの映画は、間違いなく高い娯楽性を持っている。
羅生門あらすじ
長い戦乱と疫病の流行に天災で、荒れ果てた平安時代の京の都。雨やどりに羅生門に下人(上田吉二郎)が駆け込むと、そこに杣売り(志村喬)と旅法師(千秋実)が疲れ果てて座り込んでいた。下人は二人から奇妙な殺人事件の裁判の顛末を聞く・・・・・・
盗賊・多襄丸(三船敏郎)は、森の中で通りかかった侍夫婦を獲物と定め、夫(森雅之)を縛り目の前で妻(京マチ子)を強姦する。そして、現場には夫の死体が残され、妻と盗賊は消えていた。この殺人事件の裁きが始まり、目撃者の杣売と旅法師、当事者の捕らえられた盗賊(三船敏郎)と侍の妻(京マチ子)、更には死んだ侍の霊まで呼び出し証言させた。ところが事件の真相は、盗賊と侍の妻と侍の三者の証言がくい違い、各々が自らを擁護し、プライドを守ろうとし、結局どれが真実なのか不明瞭なまま。それを聞き終えた下人は、その事件にはまだ隠された事実があるはずだと指摘する・・・・

(日本/1950年/88分/監督・黒澤明/脚本・黒澤明、橋本忍/原作・芥川龍之介)
羅生門受賞歴第12回ヴェネチア映画祭グランプリ、第24回アカデミー賞外国語映画賞 、1951年ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞、
羅生門出演者三船敏郎:多襄丸/森雅之:金沢武弘/京マチ子:金沢の妻・真砂/志村喬:杣売り/千秋実:旅法師/上田吉二郎:下人/加東大介:旅免/本間文子:巫女

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羅生門感想
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このドラマはテーマ的な要素よりも、まずその娯楽性に注目したい。
この映画の娯楽性は、法廷劇なら必ず持つ要素によっている。 
rasyou-coat-mifune.jpgすなわち、法廷における当事者の利害の対立だ。
この映画では、事件に関わる3人の供述が喰い違い、利害関係が相反する。
この時、お互いの主張が対立すればするほど、ドラマとしての強さは増し、観客の興味を惹く誘引力として作用するだろう。

そのために黒沢は、再現フィルムを持ち込み一人一人の供述を唯一絶対の真実のように描くことに力を注いだ。それは、証人の言葉が真実として響けば響くほど、相互の対立が深く強くなるのを計算してのことだ。

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また同時に黒澤は、ここで当時の映画の約束事「再現シーンの無謬性」を覆した。
つまり、「羅生門」以前のフラッシュバックは、事実を語るものだという映画的な約束事を無視して、再現シーンで真実か否か曖昧な事実を語って見せた。
それゆえ、公開当時の観客からすれば尚更、再現シーンに信憑性を感じたと想像される。


結果として、見る側はある者の供述を見せられる内に、その供述者に感情移入をしてしまう。
感情移入をした結果、その者と精神的に「同化=同情」せざるを得ない。

それゆえ、一人の供述が終わった時点でその人物を信じている観客は、次の証人の供述が終わったときには、前の供述者を信じた自分と今の供述者を信じている自分を抱えて、混乱し途方にくれざるを得ない。
 
Rashomon-pos.jpg
そして、最終的には映画の中の登場人物を疑うのと同時に、観客自身が自分の信じたものは何だったのかと反問することになる。
 
ついには「真実=自分が真に信じられる事実」の存在を疑わざるを得なくなるであろう。

以上の帰結として、法廷劇で必ず必要とされる「真実」という結果
(それは往々にしてそのままドラマのテーマになるものだが)は存
在しないという、法的劇自体を否定するドラマとなった。
 
そして、見る者は考えざるを得まい。

裁きとは何なのかと。

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この映画が撮られた1950年は、第二次世界対戦が終わって5年が経過している。
1948年12月のA級戦犯の絞首刑を持って「東京裁判」はほぼ結審を迎えるが、まだまだ世相は戦後の混乱の真っ只中にあって、この日本の悲劇をもたらした真実がなんだったのかという、「苦い問い」がこの映画にあると思うのである。

さらに突き詰めれば、ついには「東京裁判」「ニュールンベルグ裁判」等、戦争犯罪を裁いた法廷、ひいてはその裁判を元にして成立しようとしている戦後民主主義体制自体が、真実なのかという問いとして、突きつけられるであろう。

kurosawa.jpg
いずれにしても黒沢は娯楽性を高める事で、同時に真実とは正義とは何なのかという重いテーマをドラマとして昇華する事に成功し、更に、物語の娯楽性とテーマ両方の価値を高めるという、希有の成功を収めたのである。

 
やはり、すべてが完璧な一作と思う。
 
ちなみに、この映画はすでに映画史に残る傑作として各所で高い評価を受けている。
2012年:「映画批評家が選ぶベストテン」第26位(英国映画協会選出「映画史上最高の作品ベストテン」)
2012年:「映画監督が選ぶベストテン」第18位(英国映画協会選出「映画史上最高の作品ベストテン」)
2000年:「20世紀の映画リスト」第10位(米『ヴィレッジ・ヴォイス』紙発表)
2010年:「史上最高の外国語映画100本」第22位(英『エンパイア』誌発表)
2010年:「エッセンシャル100」第14位(トロント国際映画祭発表)

などなど

しかし批評家がどう評価しようと、何が真実なのかは「藪の中」である。
自らしっかり確かめようというのがこの映画のメッセージではなかったか?
ぜひ、ご自分の眼でご確認下さい。

あ〜まだ見てない人は、この映画をこれから楽しめるんですね・・・・・・・ホントウに羨ましい

【休憩タイム】黒澤明 1990年アカデミー名誉賞受賞シーン
スピルバーグとルーカスがホントに憧れの視線で見ているのが印象的。
ハッピーバースディーの歌は、何度見ても感動的です・・・・・


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以降「ネタバレ」と「ラスト」を含みますので、ご注意下さい。
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実はこの映画で、事件の真相は明かされない。
それは、この世に「絶対の真実などないではないか」と問う映画であれば、当然の帰結だったはずだ。

しかし、唯一つ明瞭な悪が語られる。

rasyou-simura.pngこの映画の最後で、話を聞き終えた下人が羅生門に捨てられた赤ん坊の産着を剥ぎ取る。

それを咎める杣売りに対し、下人は事件現場から紛失した短刀がどうなった、それを盗めるのは杣売りしかいないではないかと責める。
杣売りは力なくうなだれ、盗んだことを無言の内に認めます。

そして、以下のラストへとつながるのだ・・・・・・・

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羅生門ラストシーン
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このラストシーンには、誰も信じられない、何が正義なのか分からない、混乱した終戦直後の日本の現状が志村喬の口を通じ「今日という日は誰も信じられない」という言葉で表されていただろう。

しかし同時に、それでも、人を信じて歩むしかないという希望が描かれているように思える・・・・

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posted by ヒラヒ・S at 18:12| Comment(5) | TrackBack(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする