2016年10月08日

『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』リアル恋愛映画のあらすじと感想

恋愛の喪われた夢、恋愛の現実の希望。



評価:★★★★  4.0

この映画は一見そっけなく見えて、実は周到に現代の恋愛というものを表現して秀逸だと思いました。

例えば、原題「ビフォア・サンライズ=夜明け前」は、シンデレラのおとぎ話を思い起こさせます。
スタートのクラシック音楽(バッハのゴルトベルク変奏曲の第25変奏)と電車のシーンは、その昔のハリウッド黄金期に流行った「旅先の運命の恋」を彷彿とさせます。
【ビフォア・サンライズ 恋人までの距離/スタートシーン】

しかし実際のこの作品は、スタートシーンで神の御前で結婚を誓ったカップルがケンカする所から始まるように、過去の「ロマンス=恋愛映画」に対するアンチ・テーゼだと思うのです・・・・・・

ビフォア・サンライズ 恋人までの距離あらすじ
ブダペストからウィーンに向かう列車でジェシー(イーサン・ホーク)とセリーヌ(ジュリー・デルピー)は出会い、会話を重ねるうちに親しくなる。ジェシーは明朝アメリカ行きの飛行機に乗る。それまで一晩をウィーンでぶらぶらして過ごす予定だといい、セリーヌも一緒に列車を下りる。二人はウィーンの町を散歩しつつ大観覧車に乗ったり、食事をしたり、酒場で飲みながら、お互いの話しを重ねるうちに、お互いに好意を持っていることを告白する。そしてついに夜が明け、二人の別れの時は刻々と迫ってきた・・・・・・

(アメリカ/1995年/105分/監督リチャード・リンクレイター/脚本リチャード・リンクレイター,キム・クリザン )

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「恋人までの距離」感想・解説
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いってみれば、映画の歴史は恋愛映画と共にありました。
例えば初期のハリウッドでは、女性を呼べば男性が一緒についてくるというので「恋愛映画」に戦略的に力を入れたそうです。

では、女性にとって「恋愛映画」が魅力的だったのは、なぜでしょうか。

私は、女性の運命が「結婚」によって左右され、その結婚相手が自分で選択できないという歴史的な経緯にその理由があるように思われます。
つまり、親=家に定められた男性と結婚して、その男性しだいで自らの人生が決められてしまう。
そんな女性達にとって「不確実な運次第」の人生の突破口が「恋愛」だったと思うのです。

しかし、親の許しを得ない結婚というものがほぼ不可能な社会において「恋愛」とは「奇跡のような運命」だった事でしょう。
この「奇跡」にしても「運命」にしても、非日常的な「神秘」に連なる言葉であり、それは人智を超えた「超越的な力」であればこそ、なお、女性達はその「奇跡のような運命」に魅かれていったに違いありません。

それゆえ「恋愛映画」は女性の「夢」の結晶として、映画の主要な「テーマ」として君臨し続けてきました。いわく「いつか運命の人と出会う」「永遠の愛」「悲運の恋」・・・・・
歴史的に見れば、映画で表現される「恋愛」は人智の及ばない「神の定め賜うた運命」を描いた「映画」でした。
【ハリウッド黄金時代の恋愛映画】

実はこの「運命の恋愛映画」に魅せられた女性達によって、現実の「恋愛結婚」が促進されたのではないかと疑っています。
これは映画が社会を変え得るという証明ではないかと、思ったりします・・・・・

いずれにせよ、女性達の「夢」が映画のスクリーン上に投射され、「恋愛結婚」が現実になっていきました。


その結果、現実の恋が必ずしも「奇跡のような運命」の輝き、神秘を持つとは限らないという事に否応なく気が付いてしまった。
それは同時に「恋愛映画」から物語が無くなった事を意味したようにも思います。

結局「恋愛」を実際に積み重ねれば、「夢」も「希望」も失われていき、残るのは「恋愛」の残酷な現実だけです。
kenka.jpg

それゆえもう「恋愛映画」は「恋愛」を積み重ねた者たちには効力を持たず、老年世代に向けた「ノスタルジックな恋」と、恋愛経験の少ない「初恋」世代を対象をしたものしか残らないのではないかとすら思っていたのです。

前置きが長くなりましたが、この作品は過去のロマンス=恋愛映画とは違う世界観を「恋愛映画」に持ち込んだと思うのです。
その「世界観」こそ現代の「夢」も「希望」もない「恋愛」を描くための唯一の方法かと思いました。

すなわち、「恋愛」から「奇跡」「運命」「神秘」を取り除くこと。
すなわち、現実の「恋愛」を可能な限り忠実に再現すること。
すなわち、人間の現実の出会いによって引き起こされる、精神的な変化をそのまま現すこと。


koibitokyori.jpg結果として、「恋愛」から「超自然的な力」が喪われた「現実の恋愛」においても、「恋愛」が人の気持ちを「感動」させうるという事をこの「恋愛映画」は証明したように思います。

もちろん「現実の恋愛」ですから、先のことはわかりません。

それゆえ、この映画は「将来の約束」を交わしはするものの、決して「未来」を予言はしません・・・・・・・

それでも、刹那の想いだけだとしても「恋」をする価値があると感じている自分を発見し、この映画の持つ力に「感動」したのです。

この「感動」が意味するのは、夢も希望もない「恋愛」であっても、人はやはり「恋」せずにはいられないという「現実」のように思いました。

劇中で流れる Kath Bloom の歌う【Come Here】
歌詞は「そこには北からの風が吹いている/風はこの道で恋をつかめと囁く/ここにきて ここにきて」というようなそんなラブ・ソングを、恋の初めで聴く二人の距離感が、本当にリアルで感動します。



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posted by ヒラヒ・S at 21:49| Comment(6) | TrackBack(0) | イギリス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月20日

『英国王のスピーチ』神ならざる王の苦悩の実話あらすじと感想

王と神と人間と



評価:★★★★★  5.0点

「王権神受説」という言葉を、歴史の授業で学んだことを思い出した。
そもそも、かつて王とは神であった。
神ゆえに、国を統べる資格を持ったのである。



英国王のスピーチあらすじ
ジョージ6 世(コリン・ファース)は妻のエリザベス(ヘレナ・ボナム=カーター)にとともに、セレモニーのスピーチの場に立つが、幼い頃からの吃音により失敗してしまう。厳格な父英国王ジョージ5世(マイケル・ガンボン)は、そんなジョージにスピーチの重要さを説き練習を強いる。ジョージは妻と共に数々の吃音修正の専門家の下を訪ね歩く。そんなある日、スピーチ矯正の専門家・ライオネル(ジェフリー・ラッシュ)のもとを訪ね、そこで行われたユニークな訓練によって、スピーチ改善の可能性を感じたジョージは彼に師事する。そんな中、1936年ジョージ5世が亡くなり長男のエドワード8世(ガイ・ピアース)が王座に付くが、すぐに退位してしまい、ジョージは望まぬ王座でスピーチをする立場に追い込まれる・・・・・

(イギリス・オーストラリア/2010/118分/監督トム・フーパー/脚本デヴィッド・サイドラー) 第83回アカデミー賞、作品賞、主演男優賞、監督賞、脚本賞受賞

かつて王は神であったといえども―
「神の絶対的権威」は近代において圧倒的な敵を前に、臨死状態を迎えることとなる。
即ち、共産主義といい、民族主義に基づく軍国主義といい、さらに決定的な役割を果たした民主主義という怪物は、ついに絶対者をも「多勢の声」を武器に解体せしめる。

この映画の主人公「ジョージ6世」は、「神の喪失」した時代に「王」とならざるを得なかった。

そう思えば、彼は「王」でありながら「神」ではないという、「自己存在の喪失」ゆえに、言葉を発する事ができず「吃音症」となったと解するべきであろう。
大衆は、過去の「神に連なる王」達を期待しつつも、同時に現代の王が「神ではない王」である事を知っている。
その大衆に向かって「神ではない王」は、生身の人間として「神に連なる王」に匹敵する存在である事を、証明しなければない。

それは、「人」でありながら「神」に挑戦することに等しい。
この不可能に挑戦することを義務づけられた、史上初の王こそ「ジョージ6世」であったろう。
eikokuou2.jpg
左/ジョージ5世:中/ジョージ6世/右:エドワード8世

神として存在した父王ジョージ5世は、その厳格さを持って神になることをその子供に強制した。しかし、既に神の時代が終わったことを悟った、兄エドワード8世はさっさと神の場所を放棄し人間として俗世に下りていく。残されたジョージ6世は、神にもなれず、俗人にもなれず、その中間で逡巡せざるを得ない。

この映画は、その「神ではない王」の苦闘とその克服を、繊細な演出と、存在感のある演技によって丹念に描き感動的だ。

生身の人間が「神」に近づくための道が、主人公とその協力者の言語療法士が取った方法に示されているように思う。

身分や生い立ちを消し去り、己を人間存在のまま認識すること。
素の人間存在となった時、自らの内に「神の似姿=徳性」を人は見出すに違いない。
その内なる「神の徳」を認識した人間の言葉は、自ずと「神性」を持って響くであろう。

この療法士は、それまで「平等の立場」として主人公の前に立ってきたにも関わらず、演説の後に初めて「陛下」と呼ぶ。

それは、主人公が過去のしがらみを捨て去り「素の人間」から、「己の神性」を発見し、真に「神につながる人間存在」=「王の属性」を、その「言葉」によって伝えたからに他ならない。

ジョージ6 世による1938年スコットランド・グラスゴーの帝国博覧会の開会スピーチ
スピーチの途中で口ごもったり、一瞬どもったりするのが見て取れる。

人は誰でも「自らの中に神性」を見出せるのだというメッセージが、静かに、だが確実に、物語の中に埋め込まれており、見る者の無意識にそっと染み込むようなその語り口も、大変魅力的だと感じた。


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posted by ヒラヒ・S at 16:36| Comment(4) | TrackBack(1) | イギリス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月19日

『リトル・ダンサー』『フラ・ガール』英・日ダンス映画のみた夢を解説してみる。

「ダンス」この映画的なモノ




「フラ・ガール」評価:★★★★   4.0点
「リトル・ダンサー」評価:★★★★   4.0点

この2本の映画を見てみれば、本当に似ているのに驚くに違いない。
「フラ・ガール」は 2006年公開で「リトル・ダンサー」は 2000年だからといって、パクったとかパクられたとかを語るのが目的ではない。
両方とも間違いなく良作だったから、有難く鑑賞させて頂いた。

そしてよくよく見れば浮かび上がる、この映画に見られる差異こそが重要であるように思う。
この文章はその差異を語る為に書いている。

リトル・ダンサーあらすじ
1984年イングランド北部の炭坑町は閉山間際で炭鉱夫はストを決行していた。父(ゲアリー・ルイス)と兄トニー(ジェイミー・ドラヴェン)と暮らす主人公ビリー(ジェイミー・ベル)。彼はボクシング教室に通っているが、偶然目にしたバレエ教室に強く惹かれる。そしてバレエ教師ウィルキンソン夫人(ジュリー・ウォルターズ)から、女の子たちに混じってレッスンを受け始める。ウィルキンソン先生はビリーに才能を見出し、熱心に彼を教える。しかし、家族の金をバレエに使っていたため、父は激怒しバレエを止めろと迫る。しかし、ビリーが踊っている姿を見て、息子の真剣な想いに父の気持ちも動かされる。彼はビリーをロンドンの名門、ロイヤル・バレエ学校に入学させる決心をし、炭鉱夫仲間を裏切ってでも入学金を工面しようとするが・・・・・(2000年・イギリス・スティーヴン・ダルドリー監督)



フラ・ガールあらすじ
昭和40年、福島県いわき市の炭鉱町は石炭需要の減少から、不況に喘いでおり閉山が相次いでいる。この危機を救うために炭鉱会社が構想したのが、レジャー施設「常磐ハワイアンセンター」だった。女子高生の早苗(徳永えり)はフラ・ダンサーに応募する事を決め、紀美子(蒼井優)を誘う。紀美子の母・千代(富司純子)も兄・洋二朗(豊川悦司)も、炭鉱で働き、亡父は落盤事故でこの世を去った。千代や町の住人達は、閉山に向けての会社側の陰謀だとして「常磐ハワイアンセンター」を作る話に大反対でいる。しかし会社は
東京からSKD(松竹歌劇団)で踊っていたダンサー平山まどか(松雪泰子)を、フラダンスの教師として招聘する。まどかは母親の借金を背負い、しかたなくこの田舎町にやって来た。しかし紀美子たちの熱意は、平山を本気にさせ、それぞれの家族の心を動かし、ついに「常磐ハワイアンセンター」の初日を迎える。(2006年・日本・李相日監督/第80回キネマ旬報ベストテン・邦画第1位/第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品)




とはいうものの、こうしてあらすじを見てみれば、改めてこの2本に共通項の多さに気付かざるを得ない。
ざっくり言えば、落ち目の炭鉱町で今後どう生きるかという話であり、そして2本の映画の主人公ともダンスで生きることを志す。
この主人公達の、強い意志に感動する。
そして二人とも、親や家族の反対を押し切ってでも踊り続け、最後には周囲も祝福するという、スポコン物語のカタルシスを間違いなく味あわせてくれる。

この主人公達の、不幸な境遇による鬱屈の描き方が暗くていい。
この負の状態が、見る者の心に沁みて暗く辛いという状況に共感を呼べばこそ、ダンスのシーンにおけるハレが燦然と輝くという図式である。


そんなこの物語の基本構造を可能にしているのが、貧しい労働者に属しているという設定だ。
炭鉱という時代遅れの仕事で低賃金で働いていても、体を張って生きる者の矜持を強く持っている登場人物に感動する。
困窮の度合いに比例して、人はプライドを育むのかとも思う。
その労働者達の誇りを、ダンスに昇華させるからこそ見る者の心を打つのだ。

しかしこの2本の映画の差異は、この労働者の描き方にこそ見出せると思った。

「リトルダンサー」の労働者達は、基本的には欧州階級社会の反映として、先祖代々未来永劫において労働者だといっていい。実際「労働者階級」というその階級を、飛び越える事は基本的には難しいのが現実だ。Billy Elliot.png

それゆえ、この映画における親達の反対というのは「労働者階級」の男が、チャラチャラ踊るなんてありえないという怒りだ。
労働者階級の男達は汗水たらして労働する事が運命なのだから、それ以外の無駄な夢を見るなという親心でもある。
しかし、主人公の少年は「夢」を見たのだ。
そして「階級」を飛び越える可能性に賭けた。
それが「バレエ」なのである。
それゆえ、この少年の「バレエ」とは、自分を育んだ場所を離脱する象徴である。
だからこの少年は「バレエ」の選択が、そのまま家族との離別を同時に意味することとなる。
いずれにしても、英国労働者階級という引力圏を脱するには、「労働者階級の少年とバレエ」という組み合わせほどに、異常な力や場を必要とするということかもしれない。
そう思えば奇跡のダンスであったかもしれない。

対する「フラガール」の労働者とは階級というよりは、日本社会の反映であったろう。Furagirl.pngこの映画のような肉体労働従事者は戦後すぐには7〜8割にも上った。
しかし徐々に産業構造が変化していく中で、その比率は年々下がっていく。
第二次世界大戦前に在った階級制度が消滅した日本人は、戦後は共通の夢をもち全国民が同じ方向に進んだのだ。

つまりは、この映画における労働者達とは、そのまま戦後日本人の肖像なのである。

当時の日本人が、高度成長期の中で未来に向かって進む姿を、この映画はフラ・ダンスに仮託したものだったろう。この主人公の母親が、汗水たらさない労働があってもいいという時、それは当時の日本人全体の意識を象徴する言葉として響く。
つらい農作業、肉体労働など止められるものなら止めて、楽しくて華やかな世界を目指そうという意思表明である。

そういう意味でこのダンスは、敗戦の廃墟から立ち上がり、さらに飛び立とうとする「日本人の夢」であったろう。

そう考えたとき、同じダンスを描きながら個人の自立を目標とする「リトルダンサー」と、共同体の夢を描いた「フラガール」が似て非なるもので有ることが判る。

さらに言えば、西洋文明における幸福とは、個としての自己実現であり、日本における幸福が共同幻想の中に有ることを示しているのかとも思うのである。

ま〜それはそれとして「ダンス」って映画的な素材だな〜っと思いました。


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クリストファー・ウォーケンの燻しギン・ダンスはいかが?フローム「ペニーズ・フローム・ヘブン」


最後は一番好きなダンスシーン「パルプ・フィクション」


踊りつかれたって?ふざけちゃいけない!「生きることは、踊ること」心臓が鼓動を打つ限り、踊リ続ける運命なんだぜベイベー!!!


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posted by ヒラヒ・S at 18:08| Comment(4) | TrackBack(0) | イギリス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする