2016年10月18日

映画『グランドブタペストホテル』技巧性・自己顕示欲/あらすじ・解説・感想・批判

マニエリスムとスノビズム



評価:★★★    3.0点

キレイな色合いに、凝った画面構成。
キャラクターといい事件といい、第二次世界大戦前のヨーロッパの世界観をノスタルジックに描いている。
この映画が求めるのは、重層的な構造を取った、技巧を凝らした欧州レトロ・ファンタジーなのだろう。
グランド・ブタペスト・ホテルあらすじ
東ヨーロッパ、旧ズブロフカ共和国の国民的作家(トム・ウィルキンソン)が語る物語。
1968年、若き日の作家(ジュード・ロウ)は、グランド・ブダペスト・ホテルを訪れる。今やサビれたこのホテルのオーナーのゼロ・ムスタファ(F・マーレイ・エイブラハム)は作家に対して、ゼロの波乱万丈の人生を語り始める。回想は1932年、ゼロ青年(トニー・レヴォロリ)がホテルのベルボーイになった時から始まる。全盛期のホテルはセレブで溢れ、伝説のコンシェルジュ、ムッシュ・グスタヴ・H(レイフ・ファインズ)が、マダムの夜のお相手も含め、完璧なサービスで評判を得ていた。しかし、懇意にしていたマダムD(ティルダ・スウィントン)が殺される事件がおき、遺言により高価な絵画『少年と林檎』を受け取った。しかし遺産を狙う長男のドミトリー(エイドリアン・ブロディ)の陰謀によりグスタヴが殺人の容疑者にされてしまう。さらにドミトリーの部下私立探偵ジョプリング(ウィレム・デフォー)の魔の手が忍び寄ってくる・・・・・
(イギリス・ドイツ合作/2013年/100分/監督・脚本ウェス・アンダーソン)

【受賞歴】ベルリン国際映画祭銀熊賞・審査員賞受賞作/第87回アカデミー賞・美術賞・衣装デザイン賞・メイキャップ&ヘアスタイリング賞・作曲賞
出演】レイフ・ファインズ,F・マーレイ・エイブラハム,マチュー・アマルリック,エイドリアン・ブロディ,ウィレム・デフォー,ジェフ・ゴールドブラム,ハーヴェイ・カイテル,ジュード・ロウ,ビル・マーレイ,エドワード・ノートン,シアーシャ・ローナン,ジェイソン・シュワルツマン,レア・セドゥ,ティルダ・スウィントン,トム・ウィルキンソン,オーウェン・ウィルソン,トニー・レヴォロリ

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グランドブタペストホテル感想

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この映画を見て、マニエリスムという言葉を思い出した。
マニエリスム
Angelo_Bronzino.jpgマニエリスム (伊: Manierismo ; 仏: Maniérisme ; 英: Mannerism) とはルネサンス後期の美術で、イタリアを中心にして見られる傾向を指す言葉である。美術史の区分としては、盛期ルネサンスとバロックの合間にあたる。イタリア語の「マニエラ(maniera:手法・様式)」に由来する言葉である。ヴァザーリはこれに「自然を凌駕する行動の芸術的手法」という意味を与えた。(Wikipediaより引用)


つまりマニエリスムとは、人工的に美を構築しようとする芸術的手法であり、美しいと思えばデッサン的に歪ませ引き伸ばして構図的な完成度を高めたり、ことさら寓意を加えて絵に哲学的な趣向を凝らしたりした。
その技法の本質は「自然の持つ写実美」ではなく「人工的な虚構美」に対する飽くなき追求であったろう。

この映画は正に「人工的な虚構美」を、スクリーンに投影しようとした作品だと感じる。
幾重にも重ねられた時間的な構造や、スクリーンサイズが切り替わるという表現によって、語られているのが「虚構空間」であると明確に主張し、画面を隙間なく埋めた人工的な映像イメージは現実世界に有り得ない形と色で構成されていると告げている。
その最もいい例が、スキー場のアクションシーンで、いかにも可愛いミニチュア風の演出は、この映画がファンタジックなマニエリスム的な夢物語だという事を表していただろう。
つまりは、作品中の全編に渡り人工的な彩色が、監督の美意識の下作り上げられているのである。


スキーシーンをどう撮影したかという質問に対し、監督はウィレム・デフォーのマペットを作りミニチュアセットを走らせたと言い、CG技術を使わなかったおかげで、生き生きとした雰囲気になったと回答している。監督のコダワリが全編を覆っている一例。

そういう目線で見た時、この人工的ファンタジーの完成度や割り切りはティム・バートンなどと同様、高度な洗練を見せていると思う。
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これ以降、本作品に対する悪評があります。ご注意下さい!
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しかし、正直に言えばビジュアルのマニエリスム的な完成度の割には、映画としての感動が薄かった。ウエスモンゴメリー.jpg

結局のところ、この映画の監督ウェス・アンダーソンが構築した世界は、優れて技巧的な煌びやかな人工美に満ちてはいるが、それはそのままこの監督の美的趣味を披瀝するだけの意味しか持っていないと思う。
それゆえ、ここには耽美と言いたくはあるものの、それよりはどこか空疎な美の世界が展開されていると感じる。
個人的な印象からすれば、ここに描かれた世界は美しくは有るけれども、1940年代というレトロ世界に対する監督の「ぺダンチックなお遊び」以上の意味を見出しえなかった。

結局、マニエリスムにおける危険性とは「自然対象を求めない=現実世界に関与しない」でも、作品として成立してしまう点にある。

映画において現実に関与しないとは、即ち現実世界にあるテーマ、「理想」であったり「社会問題」であったり「愛」であったりに、触れない作品だといえるはずだ。

しかし個人的な見解としては、現実世界に関わるテーマを描く事によってのみ、その映画が作られる価値があり、他者に影響を及ぼせると、信じている。

この点において、マニエリスム的人工映画でありながら、タランティーノティム・バートンは、現実世界に関与しようという意思に則ってその作品世界を構築している点で、この映画監督ウェス・アンダーソンとは性格を異にすると、私は思う。
タランティーノのレビューはこちら:『イングロリアス・バスターズ』


特に最近の映画を見てしばしば思うのは、古典映画をコラージュ的に組上げた作品が持つ華やかであるが、現実に関与しない映画が、特に近年の若い作家に多く見られるという事実だ。

それは他者へのメッセージを持たない作品が増えてきたという傾向を示すものであり、この映画もその典型的な一つと思える。
そういう作品を見るにつけ、それらの作品を撮った監督の自己満足と自己顕示欲のみが感じられ、シラケた気分にさせられる。

つまりは、この作品は自己完結した人工世界を、エゴイスティックな欲求の為に、世間に発表したとしか思えなかった。

そんなエゴイスティックな特徴が最も端的に表されているのが、この映画内で使われたウィーン世紀末画家達の作品に対する扱いにある。
左:映画の1コマ壁にクリムトの絵が飾られている/右:クリムトの絵
butapesuto .jpgklimt forest.jpg
左:映画の1コマ壁にエゴン・シーレ風の絵が飾られている/右:エゴンシーレの絵
buta1.jpgegonshier.jpg


そもそも劇中で、クリムトやエゴン・シーレの絵より高価だという「遺産」として使われている、リンゴの絵が、明らかにチープ。ringo-otoko.png


そして、このリンゴの絵の代りに掛けられた絵が、上のエゴン・シーレ。

さすがにシーレのパチモノ作品で、この絵自体もチープだが、明らかにシーレの作風を模しており、ウィーン世紀末の文化風俗をこの映画の中で展開しているのだから、シーレのイメージに対し丁重に扱うべきだと思う。


しかし、あろうことかこの絵を「このクソはどういう意味だ!」と大声で侮辱する!

あまつさえ、このエゴン・シーレの絵を、映画内で破壊しさえするのである。butapesuto.gif

この感覚はちょっと承服できない・・・・・


つまりは、過去の芸術に対する敬意がないと、個人的には哀しく感じた。


実を言えば、このエゴン・シーレの絵画イメージに対する冒涜がなければ、人工的な理想世界がファシズムにより壊されるというストーリー展開から、「理想世界=芸術」を破壊する暴力に対するアンチテーゼ映画と解釈することも可能だった。

しかし、この芸術に対する尊敬心の欠如によって、結局そのテーマも雲散霧消してしまい、残るのはエゴイスチックな自己顕示欲のみになってしまったと言わざるを得ない・・・・・

そんなことで、私はこの監督のマニエリスム的な美意識は好きだが、その美意識の表現力が己の功名心のために使役されているように思われ、この映画をあまり好きにはなれなかった。
いつの日か、他者に対する真摯なメッセージのために、この監督の美意識が有効に発揮されることを願う・・・・

あ〜〜〜〜ぁ!ダメだ!
我慢できない!
正直にブチまけよう!!このクソ映画はどういう意味だ!!!

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posted by ヒラヒ・S at 18:44| Comment(4) | TrackBack(2) | イギリス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月08日

『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』リアル恋愛映画/あらすじ・感想・ラブストーリー解説

恋愛の喪われた夢、恋愛の現実の希望。



評価:★★★★  4.0

この映画は一見そっけなく見えて、実は周到に現代の恋愛というものを表現して秀逸だと思いました。

例えば、原題「ビフォア・サンライズ=夜明け前」は、シンデレラのおとぎ話を思い起こさせます。
スタートのクラシック音楽(バッハのゴルトベルク変奏曲の第25変奏)と電車のシーンは、その昔のハリウッド黄金期に流行った「旅先の運命の恋」を彷彿とさせます。
【ビフォア・サンライズ 恋人までの距離/スタートシーン】

しかし実際のこの作品は、スタートシーンで神の御前で結婚を誓ったカップルがケンカする所から始まるように、過去の「ロマンス=恋愛映画」に対するアンチ・テーゼだと思うのです・・・・・・

ビフォア・サンライズ 恋人までの距離あらすじ
ブダペストからウィーンに向かう列車でジェシー(イーサン・ホーク)とセリーヌ(ジュリー・デルピー)は出会い、会話を重ねるうちに親しくなる。ジェシーは明朝アメリカ行きの飛行機に乗る。それまで一晩をウィーンでぶらぶらして過ごす予定だといい、セリーヌも一緒に列車を下りる。二人はウィーンの町を散歩しつつ大観覧車に乗ったり、食事をしたり、酒場で飲みながら、お互いの話しを重ねるうちに、お互いに好意を持っていることを告白する。そしてついに夜が明け、二人の別れの時は刻々と迫ってきた・・・・・・

(アメリカ/1995年/105分/監督リチャード・リンクレイター/脚本リチャード・リンクレイター,キム・クリザン )

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「恋人までの距離」感想・解説
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いってみれば、映画の歴史は恋愛映画と共にありました。
例えば初期のハリウッドでは、女性を呼べば男性が一緒についてくるというので「恋愛映画」に戦略的に力を入れたそうです。

では、女性にとって「恋愛映画」が魅力的だったのは、なぜでしょうか。

私は、女性の運命が「結婚」によって左右され、その結婚相手が自分で選択できないという歴史的な経緯にその理由があるように思われます。
つまり、親=家に定められた男性と結婚して、その男性しだいで自らの人生が決められてしまう。
そんな女性達にとって「不確実な運次第」の人生の突破口が「恋愛」だったと思うのです。

しかし、親の許しを得ない結婚というものがほぼ不可能な社会において「恋愛」とは「奇跡のような運命」だった事でしょう。
この「奇跡」にしても「運命」にしても、非日常的な「神秘」に連なる言葉であり、それは人智を超えた「超越的な力」であればこそ、なお、女性達はその「奇跡のような運命」に魅かれていったに違いありません。

それゆえ「恋愛映画」は女性の「夢」の結晶として、映画の主要な「テーマ」として君臨し続けてきました。いわく「いつか運命の人と出会う」「永遠の愛」「悲運の恋」・・・・・
歴史的に見れば、映画で表現される「恋愛」は人智の及ばない「神の定め賜うた運命」を描いた「映画」でした。
【ハリウッド黄金時代の恋愛映画】

実はこの「運命の恋愛映画」に魅せられた女性達によって、現実の「恋愛結婚」が促進されたのではないかと疑っています。
これは映画が社会を変え得るという証明ではないかと、思ったりします・・・・・

いずれにせよ、女性達の「夢」が映画のスクリーン上に投射され、「恋愛結婚」が現実になっていきました。


その結果、現実の恋が必ずしも「奇跡のような運命」の輝き、神秘を持つとは限らないという事に否応なく気が付いてしまった。
それは同時に「恋愛映画」から物語が無くなった事を意味したようにも思います。

結局「恋愛」を実際に積み重ねれば、「夢」も「希望」も失われていき、残るのは「恋愛」の残酷な現実だけです。
kenka.jpg

それゆえもう「恋愛映画」は「恋愛」を積み重ねた者たちには効力を持たず、老年世代に向けた「ノスタルジックな恋」と、恋愛経験の少ない「初恋」世代を対象をしたものしか残らないのではないかとすら思っていたのです。

前置きが長くなりましたが、この作品は過去のロマンス=恋愛映画とは違う世界観を「恋愛映画」に持ち込んだと思うのです。
その「世界観」こそ現代の「夢」も「希望」もない「恋愛」を描くための唯一の方法かと思いました。

すなわち、「恋愛」から「奇跡」「運命」「神秘」を取り除くこと。
すなわち、現実の「恋愛」を可能な限り忠実に再現すること。
すなわち、人間の現実の出会いによって引き起こされる、精神的な変化をそのまま現すこと。


koibitokyori.jpg結果として、「恋愛」から「超自然的な力」が喪われた「現実の恋愛」においても、「恋愛」が人の気持ちを「感動」させうるという事をこの「恋愛映画」は証明したように思います。

もちろん「現実の恋愛」ですから、先のことはわかりません。

それゆえ、この映画は「将来の約束」を交わしはするものの、決して「未来」を予言はしません・・・・・・・

それでも、刹那の想いだけだとしても「恋」をする価値があると感じている自分を発見し、この映画の持つ力に「感動」したのです。

この「感動」が意味するのは、夢も希望もない「恋愛」であっても、人はやはり「恋」せずにはいられないという「現実」のように思いました。

劇中で流れる Kath Bloom の歌う【Come Here】
歌詞は「そこには北からの風が吹いている/風はこの道で恋をつかめと囁く/ここにきて ここにきて」というようなそんなラブ・ソングを、恋の初めで聴く二人の距離感が、本当にリアルで感動します。



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posted by ヒラヒ・S at 21:49| Comment(6) | TrackBack(0) | イギリス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月20日

映画『英国王のスピーチ』神ならざる王の苦悩の実話/感想・あらすじ・感想・意味

王と神と人間と



評価:★★★★★  5.0点

「王権神受説」という言葉を、歴史の授業で学んだことを思い出した。
そもそも、かつて王とは神であった。
神ゆえに、国を統べる資格を持ったのである。



英国王のスピーチあらすじ
ジョージ6 世(コリン・ファース)は妻のエリザベス(ヘレナ・ボナム=カーター)にとともに、セレモニーのスピーチの場に立つが、幼い頃からの吃音により失敗してしまう。厳格な父英国王ジョージ5世(マイケル・ガンボン)は、そんなジョージにスピーチの重要さを説き練習を強いる。ジョージは妻と共に数々の吃音修正の専門家の下を訪ね歩く。そんなある日、スピーチ矯正の専門家・ライオネル(ジェフリー・ラッシュ)のもとを訪ね、そこで行われたユニークな訓練によって、スピーチ改善の可能性を感じたジョージは彼に師事する。そんな中、1936年ジョージ5世が亡くなり長男のエドワード8世(ガイ・ピアース)が王座に付くが、すぐに退位してしまい、ジョージは望まぬ王座でスピーチをする立場に追い込まれる・・・・・

(イギリス・オーストラリア/2010/118分/監督トム・フーパー/脚本デヴィッド・サイドラー) 第83回アカデミー賞、作品賞、主演男優賞、監督賞、脚本賞受賞

かつて王は神であったといえども―
「神の絶対的権威」は近代において圧倒的な敵を前に、臨死状態を迎えることとなる。
即ち、共産主義といい、民族主義に基づく軍国主義といい、さらに決定的な役割を果たした民主主義という怪物は、ついに絶対者をも「多勢の声」を武器に解体せしめる。

この映画の主人公「ジョージ6世」は、「神の喪失」した時代に「王」とならざるを得なかった。

そう思えば、彼は「王」でありながら「神」ではないという、「自己存在の喪失」ゆえに、言葉を発する事ができず「吃音症」となったと解するべきであろう。
大衆は、過去の「神に連なる王」達を期待しつつも、同時に現代の王が「神ではない王」である事を知っている。
その大衆に向かって「神ではない王」は、生身の人間として「神に連なる王」に匹敵する存在である事を、証明しなければない。

それは、「人」でありながら「神」に挑戦することに等しい。
この不可能に挑戦することを義務づけられた、史上初の王こそ「ジョージ6世」であったろう。
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左/ジョージ5世:中/ジョージ6世/右:エドワード8世

神として存在した父王ジョージ5世は、その厳格さを持って神になることをその子供に強制した。しかし、既に神の時代が終わったことを悟った、兄エドワード8世はさっさと神の場所を放棄し人間として俗世に下りていく。残されたジョージ6世は、神にもなれず、俗人にもなれず、その中間で逡巡せざるを得ない。

この映画は、その「神ではない王」の苦闘とその克服を、繊細な演出と、存在感のある演技によって丹念に描き感動的だ。

生身の人間が「神」に近づくための道が、主人公とその協力者の言語療法士が取った方法に示されているように思う。

身分や生い立ちを消し去り、己を人間存在のまま認識すること。
素の人間存在となった時、自らの内に「神の似姿=徳性」を人は見出すに違いない。
その内なる「神の徳」を認識した人間の言葉は、自ずと「神性」を持って響くであろう。

この療法士は、それまで「平等の立場」として主人公の前に立ってきたにも関わらず、演説の後に初めて「陛下」と呼ぶ。

それは、主人公が過去のしがらみを捨て去り「素の人間」から、「己の神性」を発見し、真に「神につながる人間存在」=「王の属性」を、その「言葉」によって伝えたからに他ならない。

ジョージ6 世による1938年スコットランド・グラスゴーの帝国博覧会の開会スピーチ
スピーチの途中で口ごもったり、一瞬どもったりするのが見て取れる。

人は誰でも「自らの中に神性」を見出せるのだというメッセージが、静かに、だが確実に、物語の中に埋め込まれており、見る者の無意識にそっと染み込むようなその語り口も、大変魅力的だと感じた。


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posted by ヒラヒ・S at 16:36| Comment(4) | TrackBack(1) | イギリス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする