2016年08月05日

映画『地獄に堕ちた勇者ども』巨匠ビスコンティーの描くファシズムのエロス

映画あらすじと解説

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評価:★★★★★  5.0点

この映画を撮った、ルキノ・ビスコンティーは「ゲイ」だった。
イタリア貴族の息子に生まれて、映画監督となり1942年、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で映画監督としてデビューし、イタリアン・リアリズム主義(ネオレアリズモ)の作品を世に問うて世界的な評価を勝ち得た。しかし、後年になればなるほど、自己の美意識に耽溺した、豪華絢爛な作品で世界を魅了した。

その貴族的な美は余人の追随を許さぬもので、王族達の豪奢と洗練が華麗に映像として留められており、その映画が上映されれば、そこは忽ち美の宮殿と化すのである。

しかし、その美は王族の高踏的な芸術性に眼を奪われがちだが、その美の底に彼の性癖である男色家の色が深みと引力を生み出していると思うのだ。
以下の画像を見て欲しい。何がしかの妖艶さを感じまいか?

c4e7d8172dbbeab56a190966b4872b5b.jpgleopard03.jpg20090720134209.jpg 『若者の全て』(1960年)より
アラン・ドロン。

彼はビスコンティーの恋人だったと
故・淀川長治は語っている。

 



『山猫』(1960年)より
  アラン・ドロンと
クラウディア・カルディナーレ


アラン・ドロンに較べてクラウディア・カルディナーレが魅力的ではないと思うのは、私の思い込みのせいだろうか
 

 『ベニスに死す』(1971年)より
  ビョルン・アンドレセン

ビスコンティーの描く美しき「ショタ・コン」映画


 
やはり作家とは、自らの一番愛するものを描くときに、最も美しい芸術を生むのではなかったろうか。


地獄に堕ちた勇者どもあらすじ
ナチスが政権を掌握した1933年2月のドイツで、プロイセン貴族の製鉄王エッセンベック男爵(A・ショーンハルス)家では男爵の誕生パーティーが開催され、一家の面々が趣向を凝らした演目を演じているが、老男爵の財産を皆が狙っている様子が描かれる。総支配人フリードリッヒ(D・ボガード)は、男爵の子息の未亡人ソフィ(I・チューリン)と愛人関係にある。その息子マーチン(H・バーガー)は男爵の地位を狙っていた。一族は他に、姪の娘エリザベート(C・ランブリング)と自由主義者の夫ヘルベルト(U・オルシーニ)、甥のコンスタンチン男爵(R・コルデホフ)とその息子ギュンター(R・ベルレー)などがいる。そんな一族にナチスの力が及び、一族の崩壊が始まる。


この映画はなるほど、かつての支配階級である鉄鋼財閥の崩壊を描きはする。そしてその崩壊をもたらす勢力がファシズムである時、野蛮に征服される貴族的世界と、読み取る事も可能であろう。

しかし、やはりビスコンティ監督の隠された想いは、そこにはないと信じている。

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なぜならファシズムを描いてここまで美しい映画を私は知らない。
実を言えば小説では、三島由紀夫の幾つかの著作には、この映画に通じる美を描いた作品を見出す。
この二人の芸術家はその形として、共通の構造を持っているのではないかと疑っている。

すなわち三島といい、ビスコンティといい、良家の後嗣として生を受け、その運命と己の虚弱さ=劣等感の相克から、作品を創作せざるを得なかったのではないかと想像するのである。

さらにまた、この二人の劣等感の本質が、男としてのジェンダー(社会的性的役割)を十分に担えない事に起因するのだとすれば、往々にしてその男性は同性愛に向かうのだという。
この同性愛的な性癖は、単純に図式化すれば、自らに足りない男性性を外部に求める事を意味し、それゆえ、より男性的特徴が明瞭な男達を求める傾向がある。

その最も端的な例が、軍隊である。

そして、この軍隊組織の純度を高めて行った時、ファシズムと呼ばれはしまいか。
なるほどファシズムとは、人間を支配するには違いないが、その制度には男性にとってある種の快感をもたらす必然がある。

なぜなら、その政治体制は個を切り捨て社会全体の理想への献身を求めるものだが、社会という制度自体が男達の理性によって構築された「人工的バベルの塔」である時、その体制の為に己の命を捧げる行為とは最も崇高な男性的な行為に他ならない。

また、男性におけるセクシャリティが他者を征服する事と不可分である事に注目すれば、男たちにとっての至上のエロスとは、巨大な敵を討ち果たす時にこそその頂点を迎えるであろう。

この男性にとってのジェンダーとエロスが結ばれたとき、ファシズムが咲き誇るのである。

実際、男性であれば経験があるはずだ。
男同士集団的に何かを成す行為の中に、シンパシーと共に同性愛的な情動を見出すのを。
それこそ、このファシズム的エロスの発露によりはしまいか。

この映画で、ファシズムに身を投じたその若き男たちが持つ、剛健、優美、秀麗、は男としての使命感と野心によって、甘美と呼ぶ以外に形容のしようが無い姿となって現れる。

ビスコンティの男色家としての官能が、ファシズムにエロスを見出し、それを描かずにいられなかった、そんな妖艶な映画であると思うのである。


関連レビュー:「奔馬―豊饒の海」


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posted by ヒラヒ・S at 23:54| Comment(4) | TrackBack(0) | イタリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月24日

『ニュー・シネマ・パラダイス』映画ファンに捧げる傑作の感想

映画こそ天国



評価:★★★★★  5.0点

この映画はイタリアの名匠ジュゼッペ・トルナトーレの、間違いなく映画史に残る名作だと思う。
イタリアのシチリアを舞台にした、ノスタルジックで甘美な物語だ。
幼いトト少年と映写技師アルフレードが心を通わせていく様子を、美しく懐かしい音楽とともに描き出す。

しかし、これまでに見てきたイタリア映画からすると、若干の違和感を感じたのも事実だ。
イタリア人というのが家族を大事にし、さらには「マンマ・ミ〜ア」という母系中心の家族体系だとの印象を持ってきた。

しかしこの映画の場合、母親は主人公の「トト少年」を叱り、彼の望む場所「アルフレード」から、強引と言ってもいい力で引き剝がそうとする。
また同時に、母親こそが全てのイタリア人の少年なのに、「トト」は母から必死に逃れて「アルフレード」と共に過ごす方を選ぶ。

また、この「トト」には、第二次世界大戦で戦死してしまって父親がいない。
その欠落を埋めるように、アルフレードという村の映画館の映写技師が、幼少期の「トト」を人間的に育てると映画は語ているように見える。

しかし、その文脈でいくと、母は親代わりのアルフレードを認めないことで、家族の絆を断ち切り、同時に「トト」は母よりも父を選ぶという、反イタリア的な家族の物語になってしまう。
しかし、それなら何故これほどイタリア的なノスタルジックな主題歌を準備したのだろうか。



いろいろと考えるうちに、彼「アルフレード」は真に父としての役割を担って、この映画に登場したのだろうかという疑問を持つようになった。

本来「トト」の父であるならば、トトの母から頑なに拒否されていることに違和感を覚える。
また「トト」が「アルフレード」に対して異常に執着し、本来の親子にあるべき精神的な離反が見えないところも、本来の意味での「父親」という役割をこの映画の中で求められているとは考えづらい。

結局「アルフレード」は、映画内で、別の関係性を持って物語に登場しているのだと思われる。

その役割がはっきりするのは、物語の中盤である。
彼は映画フィルムを焼失する場で、失明する。
フィルムが焼けると同時に映写技師としての役割を喪失する、この共時性は、彼が映画の擬人化された象徴である事を意味するとしか思えない。
さらに、この「アルフレード」が「映写技師」を失明により続けられなくなり、その後を「トト」が引継ぐとき、それは「アルフレード」に変わって「トト」が「映画」となって生きるということを意味しただろう。
そう考えた時、「トト」は映画という幻影に育てられた存在であり、そして自ら「映画」を生きる者となったと考えるべきだろう。

それゆえ、母が厳しい叱責と共に、幼少期に息子を「映画=アルフレード」から引きはがそうとする理由も了解されるのである。
 
母親には分かっていたのだ、現実を生きない者が不幸になる事を・・・・
 
あまりに美しく、完璧な世界を目にしたとき、それが「幻影=映画」だと分かっていても・・・・愛し執着するものではなかろうか。
そしてまた、美しい幻影に生きてしまえば・・・・現実世界が醜く、猥雑で、嫌悪すべき場所に思えてきはしまいか。

なるほど現実は生きられねばなるまい・・・・・・しかし生きるのが困難なのが現実でもある。
トト少年は父の不在という辛い現実を、「映画」を「父」として生き抜いたのだ。
もし現実に適合できなかったならば、それは「親=映画」の責任に違いない。

そう思えば、青年、成人となった「トト少年」の現実世界の不幸は、「幻影」に依存してきた者の当然の帰結であったかもしれない。

そして現実世界に絶望した「成人トト」は、「美しき幻影=映画」の中で人生を生きざるを得ない。
結果的に「トト」は「映画監督」として成功した、しかし、それは映画文脈の上から追って行けば「現実世界不適合」を意味すると解釈すべきだと思う。

結局、この映画で語られる「幻想世界と現実世界の対立」は、現実を生きなければならない人間にとって、常に「現実世界」の勝利で終わるという自明の結論に至らざるを得ない。

しかし ―

監督ジュゼッペ・トルナトーレは、自らも幻影に育てられた一人として、この映画の「最後=ラストシーン」で言う。
無限の慈しみを持って、郷愁とともに、「トト少年」が如何に幸せで、豊穣で、歓喜に満ちていたかを。
目くるめく幻影イマージュの内にある事がどれほど幸福であったかを。

そして私は思う ― 

それらの美しきイマージュ達こそ、自分自身に他ならないことを。
どんなに現実が苦しいものになっても、自らを創っているイマージュに殉ずる運命にあることを。
その「運命」を引き受てでも、美しき幻影たちとともに生き続ける価値が在ると、この映画は教えてくれる。

このラストを見れば映画を愛する者なら、やはりこういわざるを得ないだろう・・・・・

シネマ・パラディソ、映画こそ天国だと。


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posted by ヒラヒ・S at 19:33| Comment(4) | TrackBack(0) | イタリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月13日

ジンジャーとフレッド

30年後のハリウッド・ダンス




評価:★★★★   4.0点

この映画は歳を取れば取るほど沁みてくる一本だ。

フェリー二としては珍しい人情話となっている。
こじんまりまとまった印象だが、その小品としての風情もまた好ましいと感じる。

主人公の二人の芸人は若いときに、ハリウッド・ミュージカルスターのジンジヤー・ロジャースとフレッド・アステアを、イタリアでモノマネをしてスターだった。
その二人が、30年ぶりにTVショーで踊るという企画を持ち込まれ、再開し出演する事になる。

もうこの設定だけで泣ける。
この二人の若い日と、今の様子を見て、30年の間にお互いイロイロな事が起こったかと思うと、大変だったろうな、会えて良かったな、などと一人かってに頷いたりする。

考えてみれば、ジンジャーとロジャースのモノマネでショウをするというのだから、1950年代に彼らは踊っていたのだ。
その輝くばかりのハリウッドのミュージカルをイタリアで見て、世界を想って踊っていた二人の若い時を思うと、その時の未来は輝くものだったに違いない。
人々に戦争が終わり暗い時代からの開放を実感させたのは、ハリウッドの輝くばかりの映画だったはずだ。
その当時の地球上の人類は、みんなハリウッドに恋していた。

彼らが若く美しく輝いていた時を想像し、30年後の姿を見るとき、そこに現れた衰えや疲労は、大げさに言えば人類に共通の戦後の歩みを体現したものだったろう。
30年前に感じた輝く未来は、30年を経たとき疲れた老年者として姿を現す。
その出会った二人の不協和音は、明るい未来を現実にできなった現代世界を象徴するだろう。

しかし、そんな衰え疲れた二人であってもまだ踊れるのだと、この映画は語っている。
どんなに混乱しても、どんなに不幸な時代を経ても、生きていればまだ踊れると語っている。
醜くても、無様でも、手に手を取って、励ましあって、ステップを踏み続ければ、踊れるのだと語っている。

けっきょく、ジンジャーとフレッドのハリウッドのアメリカの理想は、現実のものにはならなかった。
しかしそれでも、その夢を共有した人類は、その未来に向かってまだ踊り続けてもいいのではないかという、呼び掛けをこの二人に託したのだと信じる。

それは、今までフェリーニが取ってきた、エログロ耽美の作品からまるで違う映画となっている事からも、この巨匠が後何本映画を撮れるかと考えたときに、この作品だけは残しておきたいという執念のようなモノを感じる。

映画によって育てられ、映画によって生活し、死ぬまで映画と格闘し続けたこの監督が、そのルーツとしてのハリウッド映画を回顧する、このノスタルジーと、過去に対する悔恨と、現代世界の逡巡を描いたように思える。

しかしそれでもこの映画で、フェリーニは未来に向けて足跡を残さなければならないと、ハリウッドの描いた夢や理想を再び掲げるのだと、観客に告げているように感じた。


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posted by ヒラヒ・S at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする