2016年04月08日

荒野の用心棒

映画の夢想力



評価:★★★★   4.0点

黒澤明の用心棒を、無断でリメイクしたこの作品。
結局、裁判に負けて黒澤側に利益を上納せざるを得なくなった。
しかし、黒澤いわく「用心棒」よりこの「荒野の用心棒」のロイヤリティの方が多かったというのだから、アメリカを制する商品が世界を制するという確かな証拠だったろう。

しかし、よくよく考えてみれば黒澤も、人のことは言えない。
「用心棒」のストーリーはダシール・ハメットの「血の収穫」が元なので、これもパクリだ。
更に言えば、黒澤明が従来のチャンバラ映画から隔絶したは重厚な殺陣を生み出した理由に、ハリウッド西部劇の決闘の迫力を出したいという意向があったことを考えれば、「用心棒」 の表現の多くがパクリだったと言わざるを得ない。

そしてその日本の時代劇「用心棒」が、遠くイタリアでパクられ、西部劇に生まれ変わるという凄まじさだ。

それでもクロサワのパクリは、日本の江戸時代にリアリティを求めようとする「良心」が有った。
しかしセルジオ・レオーネに至っては、イタリアで西部劇という、根も葉もない「空想物語」と化した。
イタリアでチャンバラをしなかったのは、サスガに冗談が過ぎると思ったということか?

なんにせよ、このように、現実から作られた「一次物語=西部劇」は現実の背景が見えるために、リアリティーを疎かに出来ない。
それは、現実というネタを知っている観客からすれば、物語に含まれた非現実とは、現実から生まれた物語の否定を意味するからだ。
つまりはウソ臭くて見るに耐えないと言われてしまう。

しかし、その「一次物語」から派生した「二次物語=黒澤の用心棒」は一次物語ほど現実世界に縛られない。
それは、たぶん現実世界を模した物真似を、時空を越えて更に物真似するときに必然的に物真似の物真似となり、現実がデフォルメされるからだろう。

さらに「二次物語」から派生した「三次物語=荒野の用心棒」に至っては、でもはや何でもありのファンタジーストーリーと化すだろう。
それは「二次物語」の僅かなリアリティーをすら捨て去った、虚構の上の虚構であるから、もはやモラルも真実も道理も神も悪魔も超越し、あるのは純粋にエンターテーメントの追求へと収斂していく。

このように、現実を離れる度合いが強くなればなるほど、物語世界はファンタジーに近づき、ファンタジーであればこそ、ドギツイ暴力や殺人が虚構世界の出来事として、観客から許容されると思うのである。

この映画が先鞭を付けた、アクションのファンタジー化は、タランティーノに見るごとく、いまや「千次物語」ぐらいの重層化を果たし、その暴力と破壊が映画全体を覆うぐらいの進化を見せた。
しかし、その破壊や暴力が血まみれの肉体を生み出したとしても、見るものに衝撃を持って響かないのは、すでに架空の世界の嘘だという整理が観客に着いているからだろう。

この作り手と観客の共通認識としての「ファンタジー作用」があったからこそ、映画の表現が過激になっても許される道を開いたのだと思える。
考えてみれば大衆芸術である映画は、常に人々が求める刺激を提供し、同時に人々の欲望が映画の表現を加速してきた。

そうであれば、映画の夢想力とは観客と製作者の共犯作業の結果だったのだろう。

クリント・イーストウッドの無機質なキャラクターが、この映画の非現実化に一役買っているとすれば、セルジオ・レオーネとイーストウッドの邂逅とは、歴史的事件だと言えるだろう。


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posted by ヒラヒ・S at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月16日

父/パードレパドローネ

統制と開放



評価:★★★★   4.0点

この映画は今や巨匠となった、タビリアーニ兄弟の1977年の作品。
月日の経つのは早いもので、もう30年以上も前の作品となった。

この映画で描かれたのは第二次世界大戦が終わって間もない、つまりは70年ほど前のイタリアのサルデーニャ島の出来事だ。

主人公は、6歳にして学校から連れ出され、羊飼いの生活に入る。
そして、父親から殴る蹴るの暴行を加えられながら、羊飼いとして20歳となる。

この前半の描写は強烈だ。
峻厳とした山に、かろうじてへばりついて命をつないでいる姿は、見ているだけでも辛そうで切なくなってくる。
その上、父親の完全な支配化にあって、自らの欲望を果たせるのは動物だけというのは、これが現実として存在したのかと疑いたくなる。

しかし、間違いなく真実であることを考えれば、私はこの父親が採った教育方法以外に、この主人公が生きていく事は不可能であるように思える。

孤独で辛く苦しい肉体労働の日々を過ごすためには、それ以上の辛苦と恐怖があるということを、体に覚えこませる以外ないのではないか。
世界中の軍隊において「しごき」という名の苦痛を味あわせるのは、「死」よりも勝る苦痛によって、命令を守らなければ「死」んだ方がマシだと思い知らせるためだ。

この羊飼いの生活も、そこまで過酷だという事だったろう。
そして間違いなくこの父親も、同様の厳しい教育をその父から受けているはずだ。
しかし、この家族を見てみれば主人公のほかにも兄弟がいるが、この羊飼いの生活をしているのは主人公だけのように見える。

たぶん、この主人公が長男であるがゆえに、家族としての財産「羊」の継承が、一子相伝で成されているのだと想像する。
だとすればこの父親は、この主人公を自らの後継者として期待もし希望も託していたのだろう。
単純にこの主人公を、自らの奴隷として使役したいだけでは決してなかった。
それであればこそ、この父親が虐待に近い行為をしているのを見てなお、どこか拒絶し得ないと感じる。

人は期待をかけた相手ほど、自らの望む場所まで達していないと、殊更に厳しく鍛えようとするのではなかろうか。
結局、親の行使する権力や支配は、親が子に対して望む理想との落差によって生じるのだとこの映画は語っているだろう。

それはこの映画の最も美しいシーン、子が父親の元を離れようと双方が対峙する場面で、明確である。

父は息子を手元に置き、自らの望む男としての人生を歩ませたいと思う。
息子は、なんとしてでも自分の望む場所に向かいたいと願う。

沈黙のうちに、反発と敵意が交錯しつつ、その緊張が頂点に達したとき、息子は父親のひざに頭を垂れる。
そのシーンこそ親は子に絶望し、子は親を裏切った瞬間だったはずだ。

こうして相互の支配関係が終わりを告げたとき、同時に新しい関係性のもと、親子が再生した瞬間でも合ったろう。

こんな厳しくも情愛に満ちたシーンを、私は他に知らない。

この親子関係の厳しさを描ききった、タビリアーニ監督の表現にはイタリアン・リアリズムの影響を感じる。


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posted by ヒラヒ・S at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月30日

ローマ法王の休日

カトリックの今



評価:★★★    3.0点

突然ですが、イタリアで離婚ができるようになったはついこの前、1974年のことです(でもないか・・・もう40年以上前ですね)
それまで、カトリック教国の総本山イタリアでは、「神の前で誓った聖なる婚姻を破棄するなんて言語道断」と言うわけで、離婚できなかったんです。

そこらへんの騒動を描いたマストロヤンニ主演の[イタリア式離婚狂想曲]を見ると、恋多きイタリア男も大変だというのが良く分かる映画でしたが・・・・そういえば同じイタリアで離婚できない話で言えば、ダスティン・ホフマン[アルフレード・アルフレード]というのも有りましたが、情け無い男をダスティン・ホフマンが好演していました。さらに言えば[クレイマー・クレイマー]というアカデミー賞を獲った「離婚映画」にもダスティン・ホフマンは出ていますが、この2本の映画を見てみると「離婚問題」のイタリアとアメリカのお国柄が見えてオモシロイと思います・・・閑話休題。

それほど、カトリックの教義が強く、信仰心も強いイタリアで撮られたとは思えないぐらい、この映画でのカトリック教会総本山・バチカンはダメダメに描かれています。
なんせ、コンクラーベ(新教皇決定会議)の教皇候補者達が、皆心の中で選ばれない事を祈るテイタラクぶり。
挙句の果てに、次の教皇に決まった司教は重責に耐え切れず、バチカンから逃亡してローマの街に隠れてしまいます。

結構笑えますし、実際にバチカンの「コンクラーベ」という、世界史を動かしてきた会議の実態を垣間見られたのは、大変興味深かったです。
主演のミシェル・ピコリの悲しげな顔が、なんとも痛ましく、思わず守ってあげたいなんて気になります。

しかし、笑いとともに、イタリアのような信心深い(迷信深い)国ですらこんな映画が撮られるほど、「宗教」というものが弱体化してしまったのだという事実に、正直びっくりしました。
カトリック教会=バチカンは、驚くほどキリストの権威を傷つける表現を嫌います(近年で言うと『ダ・ヴィンチ・コード』のボイコットなど呼びかけています)が、この映画には文句が出なかったと監督は語っています。
つまりバチカンとしても、この映画の内容を認めているということになるでしょうが・・・・・・本当にいいの?・・・・・・ちょっと心配になります。

実際「神よ、私を法王に選ばないで下さい」と祈るシーンから始まるこの映画は、この主人公がローマ法王に選ばれた瞬間、神に見捨てられたことを意味しませんか?
しかし正しい宗教心を持っていれば、どんな苦しい運命も「神の御心」なわけですから、喜んでその神の与え給う試練に立ち向かうのが聖職者としての正しい道です。
しかしこの映画では、法王に選ばれるような宗教人のはずなのに、主人公は神の下された運命に従えずに逃げてしまいますし、主人公の苦悩・混乱を癒すための手段が精神分析であると描かれています。
つまりは、宗教を極めた、信仰心の厚い聖職者ですら、神によって救われないと宣言したのも同然です。

さらにご丁寧に、監督自ら精神分析医を演じ、右往左往する聖職者達を仕切ったりします。
あたかも、現在宗教の混乱・迷走は、科学的な原理原則を宗教が無視しているからだと言わんばかりです。
ほんとに映画全体を通して、現代宗教の力のなさを、これでもかとばかりに茶化してくれます。

ホントにこの監督、カトリックに恨みでも在るんじゃないだろうか・・・・・
ホントにイタリアの皆さん、ここまで国教とも言うべきカトリックをオチョクられて平気なんですか?
もしこの映画に対し、宗教側からクレームがホントに出ていないんだとしたら、本格的に宗教の危機だと思ったりしますが・・・・・・
また、いやいやこの映画はそんな事言ってないでしょうと思っているのなら、それはそれで読解力に問題が有るんじゃないでしょうか・・・・・・

ま〜そんなこんなで、個人的には宗教の危機というものは、もうここまできているのだと思い知らされる一本でした。


蛇足ながら、日本題の「ローマ法王の休日」。
ウマイ!!この日本題だけで★五つ進呈しますと言いたいところですが、チョット困った所があります。

この題名は、かの名作「ローマの休日」をもじったモノですが、上で述べたようにストーリーもそっくりです。
しかし、「ローマの休日」の主人公アン王女は、自らの定めに殉じる決断をして、自らの玉座に戻ったが故に「休日」と呼べましたが、本作の「ローマ法王の休日」はそれとは反対の結末を迎えます。
それゆえ、細かいことを言えば「ローマ法王の休日」というよりは、実体を反映すれば「ローマ法王の逃亡」というのが正しい内容となっています。

そんなことを考えれば、原題「法王選定宣言」、英語題訳で「我等の法王誕生!!」なんて言うと、この映画のラストを考えたとき、さらに、今作の皮肉な風刺が際立つようにも思うのです。

関連レビュー「ローマの休日」:http://hirahi1.seesaa.net/article/402617039.html

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posted by ヒラヒ・S at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする