2015年06月17日

ル・バル

サイレント映画であるべき必然



評価:★★★★★  5.0点

この映画を取り上げたのは、実は「アーティスト」という映画を見たからです。
その世評が高い映画を見て、私は心の中から湧き上がる怒りを禁じえなかったのです。
怒りの理由は、レビューを見ていただくのが一番早いのですが、要約すれば「サイレント映画」という技法を、ただ玩具のように弄ぶがの如き製作態度が、映画という文化に対する裏切りとしか思えなかったからです。

そんな怒りを静めるために、登場していただくのがこの「ル・バル」です。
イタリアの名匠エットーレ・スコラがその実力を遺憾なく発揮した、傑作です。
この監督は、あまり日本では評価されていないようで、探そうと思っても見つけるのが大変です。
しかし、ビスコンティ、フェリーニと並んでイタリアの三大巨匠といいたいぐらい何ですが、実は人情話の名人で芸術的というよりは大衆作家としての力量が優れた人なので日本では評価されないのかななんて思います。

でもほんとに上手い監督で、どの映画も泣けて笑えて、イタリアの山田洋二といったら判り易いでしょうか?

そんな実力は監督が撮ったこの映画が、なぜ「サイレント」の引き合いに出されたかというと、この「ル・バル」という映画がセリフが一切ない映画だからです。

そう、サイレント映画なのです。

この「ル・バル」は第二次世界大戦をはさんで、戦前と戦後の時代の、世相と人生を描きます。
その舞台となるのが「バル=酒場」です。
カメラはこの酒場から外に出ません。
そして、この酒場を訪れる人々の描写によってドラマが生じます。
しかし、この人たちは一言も喋りません。
流れる音楽の旋律が高まり、見詰め合う男と女の視線が交錯するとき、若者たちの人生が生まれるのだと教えてくれます。
そして、若い男女が人生を生きる姿をダンスに仮託して、表現してくれます。
そんな、個々の愛おしい人生が、大きな時代のうねり=運命によって、蹂躙され、踏みつけられ、寸断される様子が「バル」から一歩も出ずに、一言の言葉もなく、完璧に表現されます。

実を言えば、この映画を見てスコラ監督に心酔してしまったのです。

それは、「サイレント映画」で「一場もの舞台」という、映画的な規制を自らに課して「あざとさ」や「無理」が微塵も感じられない。
例えば、ヒッチコックですら「ロープ」という実験作では、どこかムリヤリな感じがしたものですが、見ていてそんな不自然さを感じないのです。

なぜ、こんな無理な「スタイル=様式」を選択しても、不自然に思わないのかヨクヨク考えてみました。
そこで気がついたのは、この映画で取られた「スタイル」は必然だったのではないかという事です。

つまりエットーレ・スコラは自分の人生と重なる、半世紀にもわたる時代の流れ、その時代を生きた人たちの軌跡ををどう表現しようかと考えたときに、必然的に「酒場」と「台詞なし」が必要だったと思うのです。

それは、この無言のうちに、踊ったり、泣いたり、愛し合ったり、傷つけあったり、喜んだり、悲しんだり、そんな人生の騒動を見ていると、いつかこの「バル」という舞台で発生する全てのことが、本当に愛おしく感じられてきます。

それは言葉が介在しないがゆえに、生物、ひいては生命が有るということの本質が、抽出されてくるのではないかと思うのです。
また同時にこの無言劇は、大きな運命の前では一個人の言葉や訴えが無力で、ただ黙って耐えるしかないのだということも、教えてくれるように思います。

そんな「踊ること=生きること」には、言葉=「知性、社会、ルールなど人工的な知見」を超えた、運命や力が働くものだと訴えてるとしたら、これはもう人知を超えた「神の世界」です・・・・・・
この「この超絶者のテーマ」を映像として伝えるために、言葉の不在と、「バル」という小宇宙の存在が、必然として求められたでしょう。
そう考えれば、つまりは、「物語」が必然的に要求する様式であれば、観客は不自然さを感じないことの証明でしょう。


今更ながら映画「アーティスト」に戻りますが、その映画は「サイレント映画という様式」である物語的必然性があるでしょうか?
結局「アーティスト」は、その映画によって何を表現したいのか、観客に何を届けたいかのかという、根本的な姿勢から間違っているのだろうと言わざるを得ません。

そんなわけで、「アーティスト」で各映画賞を総なめにできるぐらい高い評価を受けられるなら、この映画はノーベル賞をもらいたいぐらいだと思うわけです。

だってこの作品、レンタルビデオやさんでも、インターネット通販だって手に入らないなんてあんまりです。
この監督は本当にかわいそうで、例えば「マカロニ」なんていう作品は、本当に傑作なのに中古ですら手に入るかどうか・・・・・
そんなスコラ監督復権キャンペーンの一環でもあります。

All Movies Need Love!!

関連レビュー「マカロニ」:http://hirahi1.seesaa.net/article/406120160.html
関連レビュー「アーティスト」:http://hirahi1.seesaa.net/article/420345734.html

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posted by ヒラヒ・S at 19:00| Comment(0) | イタリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月27日

マカロニ

人情話の教科書。



評価:★★★★★ 5.0点

この映画はお勧めです。
傑作です。

俳優はジャックレ・モンとマルチェロ・マストロヤンニ。
往年の映画ファンならこれだけでも、見たいと思うはず。
米伊を代表する実力派スターの競演です。

監督がエットーレ・スコラ。
「イタリアの山田洋次」と勝手に思っています。
「星降る夜のリストランテ」「BARに灯ともる頃」「特別な一日」など、人生の機微を描いて名人の域にあるお方です。
そんな、ツボを抑えた演出にシビレること請け合いです。

この映画も、もちろん期待に違わず笑わせてくれてホロリとさせて、本当によく出来た映画です。

第二次世界大戦当時、イタリアに駐留したアメリカ兵で、数十年ぶりで仕事でイタリアに来た男の役がジャック・レモン。
そのジャック・レモンと恋に落ちたイタリア娘の兄が、マルチェロ・マストロヤンニ。
ジャック・レモン演じるアメリカ兵は、恋に落ちた娘にいつか帰ってくると約束をしながら、その約束はスッカリ忘れています。
それなのになぜか、彼はマルチェロ・マストロヤンニの歓迎を受け、その妹とかつて駐留した村で自分が英雄になっている事を知る・・・・・・・

どうですか?いい感じでしょう?
この映画は、若き日の夢が現実に侵食された、哀れな中年男の再生を描いて完璧です。

ジャック・レモンがかつて演じてきたシャレた都会派コメディに対するオマージュのような作品です。

エットーレ・スコラ監督は、アメリカの明るいヒューマン・コメディを愛してきたのでしょう。
それはかつてのハリウッド映画が表わした、明るく自由で元気なアメリカという国に対するオマージュでもあります。
この映画のアメリカ人が苦しみ疲れているのは現実のアメリカを反映した姿であり、このイタリア監督は自らの喜びを生み出してくれたアメリカ映画とアメリカに対して、イタリアからエールを送っているように思います。

そんな物語をイタリア映画特有のウェットな情感と、良い意味で予定調和的な世界観で、見る者の心を感動させ共感を呼びます。

そんな人情話のお手本のような、このお話の最後には落語のようなオチまで付いています。

絶対に見て損はないですが、問題は手に入るかどうかですナ・・・

ホントにヨーロッパ映画は見たい作品が・・・・・・

どんどん消えていく・・・・・



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posted by ヒラヒ・S at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月01日

魂のジュリエッタ

「フェリーニ」魔術の入門書



個人的な評価:★★★★★ 5.0

ときどき写真という技術がない世界を想像する事がある。
写真がない世界であれば、画家たちは具体的なモノ(物象)を正確に写せば事足りた。

しかし写真という技術のおかげで、熟練の画家達と同様の具象画像(写真)が世に出回り、困った画家達はカメラでは写す事の出来ない、キュービズム・フォービズム・そして純粋抽象へと進まざるを得なかった。

同時に抽象画が切り開いた、画像と概念の新しい関係は、人間の思考自体を変える事となった。

すなわち、線と色を元にして2次元上に描かれた一見何も具体的な事物を表していない図画が、人間意識の深部にある何者かを刺激し、また表現する事が可能だという発見である。

この発見は同時に、具象であってもその中に抽象的な概念が、潜み隠れている事を意味するであろう。
そして、具体的な何者かに見えたとしても、その形象の構成物としての色と形は、抽象的な無意識の訴求力を秘匿している事に、近代を迎えた人々が気づいてしまった。

具象の持つ無意識世界の仮託、その最も直截な例が夢である。

このフェリーニによって紡がれた映画は、その具象と抽象の間で展開される心的表象のせめぎ合い、現実世界に潜む夢幻のイマージュを定着して見事である。

現実の世界と幻想の世界が混然一体となり、具象物の中に潜む抽象的な刺激が、見る者の深層に少しずつ少しずつ棘のように突き立つのである。

その棘の集積は、見る者の意識を映像に呼応して共振する鋭敏な地震計のような、ただ剥き出しの感性・受容体の化身へと変えてしまうに違いない。

そしてついに映画の鑑賞者は、その折り重なる映像イメージに絡めとられた操り人形と化すのである。

それゆえ、彼「フェリーニ」は、映像の魔術師と呼ばれたのである。

この監督は、そのモノクロ世界の映画において、すでに衝撃的な作品を提示しているため、その時期で評価が定まって、それ以降の作品に対して語られる事が少ないように思われるのだが、個人的にはカラーになってからの「フェリーニ」作品にこそ、その「魔術」が、純粋に抽象化された形で現わされていると思うのである。

またこの映画では、これ以降の作品のような何の注釈なしに、そのイメージの奔流を展開するわけではないので、「フェリーニ的」抽象的映像イメージと具象イメージの切り替わりが明確な分、その「魔術」のカラクリが明快であり、フェリーニ的世界に興味を持ったのであれば入門映画としては最適だと思われる。



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posted by ヒラヒ・S at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリア映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする