2016年12月28日

アルバム『デイ・ブレイクス』ノラ・ジョーンズのジャズボーカル

ジャージーな一枚




評価:★★★  3.0点

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歌手ノラ・ジョーンズ紹介
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njones.jpgノラ・ジョーンズ(Norah Jones、本名:Geethali Norah Jones Shankar、1979年3月30日 - )は、アメリカ合衆国のピアノ弾き語りジャズ歌手、ジャズ・ピアニスト、女優。父はインドで最も有名な音楽家のひとりでビートルズにも影響を与えたシタール奏者ラヴィ・シャンカル、異母妹はイギリス人シタール奏者のアヌーシュカ・シャンカル。(wikipediaより)


(ノラ・ジョーンズの代表曲@「Don't Know Why」)


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ノラ・ジョーンズ『デイ・ブレイクス』収録曲
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1. バーン
2. トラジディ
3. フリップサイド
4. イッツ・ア・ワンダフル・タイム・フォー・ラヴ
5. アンド・ゼン・ゼア・ワズ・ユー
6. ドント・ビー・ディナイド
7. デイ・ブレイクス
8. ピース
9. ワンス・アイ・ハッド・ア・ラーフ
10. スリーピング・ワイルド
11. キャリー・オン
12. アフリカの花
13. キャリー・オン (ライヴ) (ボーナス・トラック)
14. フリップサイド (ライヴ) (ボーナス・トラック)
15. ピース (ライヴ) (ボーナス・トラック)
16. ドント・ノー・ホワイ (ライヴ) (ボーナス・トラック)

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アルバム『デイ・ブレイクス』感想
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ジャージーな味が濃いアルバムに仕上がっていると思います。
ジャズ・サックスの今や長老と言っていい、ウェイン・ショーターが@、F、G、Kに入っているのも、そんな印象を強くしているように感じます。

キャッチーな曲は、Jキャリー・オン
ノラのハスキーな声が良く映える曲だと思います。


そして、タイトル曲「デイ・ブレイクス


ジャズ・テイストのノラ・ジョンーズが好きな方には、出色のアルバムではないでしょうか?

しかし、個人的にノラのスモキー・ヴォイスが大好きですが、それは逆にジャズであろうとカントリーであろうとR&Bだろうと、音楽的なジャンルや曲調に関わらず、彼女の声がメロディーに調和していることが大事なのだと、このアルバムによって分かったようです。

つまりは、音楽的な色よりも、ノラの声の響きをより引き出してさえくれれば、どんな曲調でも構わないという・・・
そこで、私の好みを言わせていただければ、今回のヘビーなジャズの音だと彼女の声が暗く落ち込んでしまったように感じました。

彼女の歌から華やかさが欠けると、沈んだ色調が強くなり響きが悪いと個人的には感じました。

残念ながら標準作という印象です。

ノラ・ジョーンズの歌う、エルビスの"ラブ・ミー・テンダー"

彼女の声が引き立つアレンジがすばらしい・・・・・・・


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posted by ヒラヒ・S at 17:37| Comment(4) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月20日

原田知世『カコ』心地良い癒しの声が聞ける「名盤」

これは私にとって「名盤」ナノダ



評価:★★★★★ 5.0

爽やかで清涼感を味わえるCDのご紹介。
歌うのは映画『時をかける少女』のヒロインを演じた原田知世です。
プロフィール
原田 知世(はらだ ともよ、1967年11月28日 )は、日本の女優、歌手。
長崎県長崎市出身。ショーン・ハラダ所属。原田貴和子は実姉。バンド・pupaではボーカルを担当。

toki.jpeg1982年『角川・東映大型女優一般募集』オーディションで特別賞を受賞し芸能界入りする。1983年、主演した『時をかける少女』(大林宣彦監督)でスクリーンデビュー。「角川三人娘」の薬師丸ひろ子、渡辺典子と同様に主題歌も歌った。『愛情物語』(1984年)、『天国にいちばん近い島』(1984年)、『早春物語』(1985年)に主演。1986年に角川春樹事務所を独立し、その後、『私をスキーに連れてって』(1987年)、『彼女が水着にきがえたら』(1989年)などに主演。最近はNHK連続テレビ小説『おひさま』(2011年)、映画『しあわせのパン』(2012年)・『ペコロスの母に会いに行く』(2013年)、ドラマ『紙の月』(2014年)などに出演している。歌手としては、デビュー以来、継続的にアルバムをリリースしている。オリコンチャートによると、原田のシングルの累計売上は194万枚を記録し、アルバムは81万枚、シングルとアルバムの合計の売上は275万枚となっている。(Wikipediaより引用)


そんな原田知世が歌うこのCDは古今東西の名曲の、カバーアルバムです。
原田知世<カコ
収録曲
kako.jpg1.THE END OF THE WORLD
(詩:Sylvia Dee 曲:Arthur Kent)
2.UN BUCO NELLA SABBIA
(詩:A.Testa 曲:P.Soffici)
3.THE LITTLE BIRD
(詩・曲:John D.Loudermilk)
4.WINCHESTER CATHEDRAL
(詩・曲:Geoff Stephens)
5.BOTH SIDES NOW
(詩・曲:Joni Mitchell)
6.ERECTRIC MOON
(詩・曲:Leitch Donovan)
7.T'EN VA PAS
(詩:Regis Wargnir,Cathrine Cohen 曲:Romano Musumarra)

曲名を聞いただけでは「どんな曲?」なのですが、実際に聞けば「あ〜知ってる」というナンバーです。
60年代を中心とした洋楽の選曲がまたシブい。

原田知世さんは日本語の歌詞をうたうとハラハラするところもあるのですが、このCDに関しては洋楽を歌っているので素直に聞けます。
じっさいのところ、英語やフランス語を母国語とする人たちからすれば、ナンだコレは!?となるにしても、日本人であれば言葉の意味が判らない分、純粋に声の響きが心に響くような気がします。

ムーンライダーズで有名なプロデュサー鈴木慶一のアレンジも、ボーカルを最も効果的にバックアップする音作りで盛り上げています。

まずは一曲、最初の「THE END OF THE WORLD」の広がりと、クリアさがこのアルバムの特徴を語っています。

スキータ・デイヴィスの歌う「THE END OF THE WORLD」のオリジナルをまずはお聞き下さい。

対して、原田知世の「THE END OF THE WORLD」

鈴木慶一のアレンジで曲の広がりが出て、原田知世の声とよくマッチングしていると思います。


以下、このCDのオリジナル曲を紹介させていただきましょう。

2.ミーナの歌う「UN BUCO NELLA SABBIA」


3.マリアンヌ・フェイスフルの歌う「THE LITTLE BIRD」


4.ニュー・ヴォードヴィル・バンドの歌う「WINCHESTER CATHEDRAL」


5.ジョニー・ミッチェルの歌う「BOTH SIDES NOW」


6.ERECTRIC MOON
クロディーヌ・ロンジェのアルバム、愛のプレリュード(We've Only Just Begun)の中の一曲
動画は見つかりませんでした。

7.エルザの「T'EN VA PAS」


このオリジナルを、原田知世がどう歌うかCDでご確認下さい。

しかし、ボーカリストというものの不思議さを思わずにはいられません。

このオリジナルの歌手達に較べて、原田知世という歌手は、声量や音域など、音楽的な技術が秀でているとは決していえません。
むしろ技術が低いというほうが正直な感想です。

でも素晴らしい。

純粋に音としての声が際だって響いてきます。

そして生まれた曲逹は、真っすぐピュアでクリアな、まるで聖少女なんて言葉がうかぶぐらい、奇跡的な清潔感を創出しています。

ボーカルという生身の楽器に潜む、千変万化の表現がどれほど豊穣なのかの証明だと思います。

この素直さは持って生まれた力としか、言いようがないでしょう。

つまり天才ということです。

騙されたと思ってお試し下さい。

原田知世の歌う「T'EN VA PAS」


このラストの余韻がまたシアワセだったりします・・・・・・・

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ラベル:原田知世
posted by ヒラヒ・S at 17:44| Comment(4) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月27日

交響曲第1番《HIROSHIMA》

創造の本質



評価:不能  

この世界にまだ誰も聞いた事のない音を響かせるというのは、どういうことなのかと考えて見たりする。
音楽に限らず、絵画や、演劇、小説にしても、今だこの世に存在しない「作品=創造物」を生み出す芸術家の困難さを思わざるを得ない。

今まで誰も見た事のない「創造」に挑戦するという事は、人類の誰一人達成しえなかった地平を開くということだ。
そこには人間の今だ知らない美の可能性に挑む勇気と、先人が誰もなし得なかった創意と工夫が必要とされるだろう。
そんな辛苦の果てに「ユニークな形を持った美=芸術」は生み出されるのだろう。

しかし辛苦の果てに生み出された唯一無二の「芸術」は、一度この世に姿を現せば、それは模倣され、分析され、瞬く間にエピゴーネン達の手で、その独自性を希釈されていく運命にある。

そのエピゴーネンの最たる者が、「技術的熟練者=職人」であるだろう。
彼ら、職人は或る「創造物」を眼にすれば、驚くほど精巧に複製して見せ、それはしばしば本家の「創造物」より緻密で見栄えが良いことすらある。
しかしその模倣物が、どれほど高い完成度を持っていたとしても、彼らを「創造者=芸術家」と呼ぶ事に、私は抵抗を覚える。

やはり「創造者=芸術家」たるもの、無から有を生み出す事こそ、その真髄であるべきだろう。
そしてまた、その虚空から真の美を形作る「神の御業」を可能とするのは、本当に選ばれた一握りの者だけが与えられた力ではないだろうか。
その才能を天から授かったからこそ、彼らは「天才」と呼ばれるのだろう。

そして、現実的な製作現場において真に重要なのは、彼ら「天才」にしか成しえない「美の創造」を、現実の具象的な形として収斂させることにあるはずだ。
そのために「美の創造者」は、自らが実作業をしてその美を成型することもあるだろうし、他者に作業を委託したほうが効率よく達成できるのならば、そうするだろう。

映画監督という仕事を例に出せば、彼が成す仕事は最終的には決定するだけである。
たとえば俳優であり、脚本家であり、カメラマンであり、音声であり、衣装であるという、映画のパーツの担当者がいる。
彼ら担当者とて、自らの関わる映画にとってベストだと信じる選択をして、監督に諮るだろう。
しかし、それが監督の追及する「映画の形」にふさわしくなければ再考を促し、監督は自らの求める形になるまでそのやり取りを続けるだろう。
その決定に従えないパーツ担当者は、監督の意向によって置き換えられることもあるだろう。
結局その「映画」における最終形、完成形は、監督にしか判らない。
それはその作品の創造者だけが成しえる決断だからだ

いま述べたことを整理すれば、最終的な美の形を「監督=創造者」だけが知っていて、それ以外の誰も知ることは出来ないということだ。

それは逆に言えば、彼さえいれば確実に「美」に到達できるが、彼を置いて彼の「美」を具現化する道はないことを意味する。

突き詰めて言えば「創造者」だけが、その「作品」においては唯一無二の存在であり、置き換えが効かない絶対者なのである。


さて、前置きが長くなったが佐村河内氏の「交響曲第1番《HIROSHIMA》」である。

そのスキャンダルにおいてマスコミは、まるで彼を詐欺師のように扱いはしなかったろうか。
真の作曲者が新垣隆氏で、佐村河内氏がまるで何もしていないかのように伝えはしなかったろうか。

私は、佐村河内氏が上で述べたような「唯一無二の創造者」としての役割を、その作品上で果たしていたのだろうと考えている。
それは新垣氏自身「佐村河内は図表や言葉で曲のイメージを伝えてきた」といっている事でも明らかであろう。
その佐村河内氏のイメージに添って、技術者として曲を作り譜面化したのだとすれば、最終的なイメージ決定を他者に任せた「作品」を、新垣氏が自らの作品というのは強弁に過ぎないだろうか。

実際の音楽界の作曲と譜面化の関係であるとかを調べてみれば、大学教授が曲の構想を語り生徒に譜面化や曲作りの実作業をさせることはさほど珍しくはないという。
そんな実態があるのであれば、やはり新垣氏の主張は素直に承服し難いと思う。

正直言って私は、佐村河内氏がなんと呼ばれようと構わない。
私が気になるのは、彼が真の才能を持った選ばれた一人だったとしたら、彼が天から授かった力を、その力を持たないものに奪われる事を危ぶむのだ。
彼が真の才能を持つ者でありながら、この騒動で作曲が出来なくなり「創造者」としての能力を発揮しえないとしたら、この世界に生まれるはずだった「美しい音」が永遠に失われてしまうことになる。
それは、人類が手にするはずだった至宝を、永遠に奪われてしまう事を恐れるのだ。

また仮に、新垣氏が「交響曲第1番《HIROSHIMA》」が自分の作品であると言うのであれば、新垣氏に才能は与えられているのである。
この曲に匹敵する曲を、早く世に問うべきだ。
その曲が世に示されなければ、このスキャンダルの真の決着が付くことはあるまい。

そして新垣氏が主張するように、佐村河内氏がプロデューサー的な存在として在り、そして少しでも作品の上で力になるのであれば共同作業を行うべきだ。
才能を授かった者は、それに見合った作品を作り出すためにあらゆる努力を成さねばならないと、あえて言わせていただきたい。
それが才能を持った物の責務であり、人類を代表して仕事を成すことが、選ばれた者にとっての真の幸福であると同時に、人々の希望であるからだ。


ここまでで語ってきたのは、創造者と技術者が芸術作品の上で如何なる役割分担が成されているかという問題であった。

それを踏まえてもう一つ語りたいのは、芸術作品と鑑賞者という問題である。

このスキャンダルを通じて、多くの人々が「騙された」とか「私の感動を返してほしい」と、声高に非難するのを聞き違和感を覚えた。

いったい誰に「騙され」て、誰に「感動を奪われた」のだろうか。

本来は人が何事かを、己の五感を通じて感じるとき、そこには他人が絶対踏み込めない唯一無二の感性があるはずである。
それは「芸術家」が、唯一無二の美を作る事と対応する。

つまり人が何かを感じるとは、その対象に呼応する自らの内的経験を覚醒させる事であって、それは一種の「創造行為」としてあるのだ。
したがって極端に言えば、人類の数だけ違う評価が生まれるのが正しいと信じている。

たとえばピカソの絵を見て、「子供の描いたような絵」だという印象を受けたのであれば、それはそう感じた人にとって真実であり、そこに他者が介入する事自体誤りである。
そこに第三者の介在を許せば、たちまちその鑑賞対象と鑑賞者の間の神聖な、唯一無二の「心の作用=創造行為」は失われてしまうだろう。

もちろん画家であれば、ピカソの絵の持つ構成やデッサン力の秀逸さを称賛するだろうし、美術史家であれば近代絵画にピカソが果たした役割の大きさを語るであろうが、それは専門的知見に基づく感想であり評価であって、絵画と親しんでこなかった圧倒的多数の言葉として語られる筋合いのもではないし、仮に絵画に関する専門的訓練を受けていない者が、このような言葉を発したら、それこそ詐欺師ではないかと疑うべきだろう。

ピカソの絵のが偉大だと美術会で認められていたとしても、それが自分に取っては無価値であるという判断は有って然るべきだ。

そういう個人的な評価に関して言えば、私は村上春樹氏の小説が読めない。何度もトライしたが、そのつど挫折した。
村上氏の文章・文体が、私個人のリズム韻律とどうも折り合わないらしい。
それこそ「生理的に嫌い」ということで、申し訳ないが私にとっては「嫌いな文体の作家」という感想しか持ちようがない。

そんな、鑑賞者の個性と鑑賞対象との関係は、やはり唯一無二の衝突としてあるだろう。
それであればこそ人は、自らの先天的・後天的な特徴・個性を唯一の拠り所として鑑賞対象に向き合うことで、初めて、自分にとって真に価値の或る「モノ」を見出せるはずだ

逆に言えば自らの個性を唯一の価値基準として置いていないからこそ、誰かに「騙されたり」「感動を奪われた」りするのであろう。


告白すれば、私は「交響曲第1番《HIROSHIMA》」を聞いていない。
それゆえこれから聞いて見るつもりだ。
その時、ただ純粋に響く音が、私の中で何を生み出すかに集中するだろう。
結果として、私を感動させてくれる作品であれば、生涯この曲を愛するに違いない。
そして、「私にとっての名曲」を生み出してくれたその作者に、私は感謝し続けるだろう。

正直言えば、私を感動させてくれる作品を作り出してくれるのであれば、それがペテン師だろうと、悪魔だろうと、私がこの世で最も嫌うゴキブリだろうと厭わずに賞賛を惜しまないだろう。

仮にゴキブリが私を感動させてくれたならば、私の命が嫌悪と恐怖のため絶命する事になっても、そのゴキブリとハグしキスするぐらいの覚悟はある。


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ラベル:佐村河内 守
posted by ヒラヒ・S at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする