2016年02月21日

オールドボーイ

「ファンタスティック」とタランティーノは叫んだ!



評価:★★★★   4.0点

カンヌでこの映画を見たタンラティーノ監督は、興奮のあまり審査員特別グランプリの授与を強硬に主張したという。

私も、そのタランティーノの評価に深い共感を覚える一人だ。

この、突然誘拐された主人公が理由も分からず15年間監禁され、己を監禁した相手を突き止め復讐しようとする映画をみて、私はその過激なドラマ性に強い衝撃を受けた。

ブッチャケ、コーフンもし、カンドーもし、サケビ声すら上げたくなった。

まず、この過剰な復讐を破綻なく構築した脚本がスゴイといいたい。
さらに、現実離れした物語を更にショーアップして見せた、構図や特殊効果、編集などのコッテリとした映画的技術がスバラシイ。
また役者陣も、熱い情念の、見るものを焼き尽くすかのごとく見据える眼の力が、ブッ飛んでいてシビレル。

変に聞こえるかも知れないが、この映画はまるで、その圧倒的なパッションとテンション、そして叙情的なシーンで、レッドホットチリペッパーのアルバム「カリフォルニケーション」を想起させた。

それ位のパワーを持って、まるでブラックホールのように、見るものを異世界に力ずくで放り込む。

観客は問答無用で、この異常で歪んだ世界で延々と続けられる復讐という名の非日常行為を見せられ、自らの平常時では決して出会えない事態に直面するはずだ。
この現実離れした、過激な、異様な、不可思議な、挑発的な、激情に満ちたドラマを、現実世界を舞台に語られるとき、観客は自分のいるこの世界に潜む誇張された歪みに直面するだろう。

この映画を見る者は、その現実世界の日常に潜む澱や淀みを極端に表現されることで、自らの心の奥に閉じ込めていたその無意識の領域に有る情念を噴き出させるに違いない。
この映画は、観客に成り代わって物語内の登場人物が復讐を代行する事で、そんな隠れていた危険な歪みを浄化させるのである。

そういう意味で、この映画は超絶的な非日常を観客に経験させることで、「祭祀」と同様のカタルシスを生む力を持つ。
そしてまた、この効果を劇として現すとき、それは「ファンタジー」と呼ばれるはずだ。

それゆえ、祭りにおける一種の狂気に近いトランス状態や、ファンタジーの本来持つ残酷でグロテスクさとは、過激であればあるほど現実を異化することが可能となり、同時に浄化作用を強める効果を持つだろう。

それゆえ、この映画における過激さ執拗さが必要とされたと思うのだ。

またこの方法論は、そのままタランティーノのハイテンションムービーが求めるものであったがゆえに、彼はこの映画に対し賛辞を惜しまなかったのだろう。


と・・・・・・・書いてきて、ナンナンデスガ・・・・・

韓国ドラマ好きのとある女性が、この映画に関して恐るべき情報をもたらした。
この映画で描かれた、怨念に満ちた過激な行動は、絵空事ではないというのだ。

「エ、マジ!」と言わざるを得ない。

彼女が言うには、チョットでも韓国ドラマを観てみれば、この映画に類した復讐が何千回も繰り返されるのを見る事ができるのだそうだ。
最初はエンターテーメントとして捉えていた彼女も、ドラマを見るにつけこれは韓国の人の国民性として、「復讐」など他者を攻撃する事に強い執着を持つのではないかと考えるようになったという。

たとえば「ナッツリターン事件」や「セオルグ号事件」の容赦ないバッシングや、「慰安婦問題」も含め日本に対する執拗な官民上げての非難も、結局その国民性から生じていると彼女は言うのである。

そう言われてみれば、サッカーファンの私にも心当たりはある。
サッカー国際試合における、まるでスポーツとは思えないぐらい陰惨な「日韓戦」の記憶だ。
その試合では韓国選手の異様な情念と、勝利に対する執着心に、最終的に勝とうが負けようが見ていて憂鬱になってしまう。
韓国チームも日本戦以外では、さほど粘着質の試合をするわけではないのだが、やはり日韓戦の韓国チームは異様だ。
最後にはもう「そんなに勝ちたいんだったら負けでいいです。でも日本選手を傷つけないでね」と言いたくなる。

やはり韓国の国民性として、「復讐」に対して強い執着心を持っている事を認めないわけには行かないだろう。

そう考えれば、この映画のように「復讐」が人生の目的と考える人々・民族が、現実にいるということを日本人は知るべきだろう。
それと同時に、日本のような島国の単一民族が考える「全て水に流すとか」「人を恨んではいけない」というような人種を、韓国人には理解できないだろう。

この違いを考えれば、日本人が戦時中に犯した罪を、韓国の人は子々孫々まで許さないかもしれない。
そして、日本人は「もう昔の事だし水に流そう」なんて平気で言っては、さらに火に油を注ぐだろう。

このお互いの国民性の違いは、驚くほどの隔たりを持っているように思えるが、それをどっちが正しい悪いというのは不毛な議論だ。
どんなに毛色が違っていても、お互い隣人として付き合って行くという運命は変えようがないのだ。

それでは、この二国間に真の友愛が生まれる事がありえるだろうか?

私は希望はあると思っている。
なぜなら韓国ドラマ好きの女性は、こんな韓国の「復讐心」の強さに辟易しつつも、韓国ドラマは大好きだと言い切る。

そう「愛」が有ればナントカナル。

という訳で話が横道に逸れたが、映画の話だった。
ことほどさように、この映画の「ファンタジー性」ゆえに傑作だと思った私にとっては、この映画が現実となりかねないという話は、驚天動地の事態なのだ。

それはまるで「オレ実は宇宙人で、地球征服にキテンダヨネ。ハハハ」といっていた友人が、ある日本当にUFOの中から冷たい眼でこちを見つめていたというぐらい、怖い話だったのである。

だからスミマセン、☆いっこ、減らします。

いや〜ビックリダワ〜ぜひタランティーノに「これファンタジーじゃないんだって」と伝えてあげたいものだ。

キット彼も「エ、マジ!」というんじゃないかナ。


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posted by ヒラヒ・S at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 韓国映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月13日

アジョシ

浮かび上がる国民性



評価:★★★★   4.0点

この映画はたまたま知り合った子供のために、犯罪組織を敵に回して戦わざるを得なくなった男の話です。
子供を守るために自ら死地に赴く主人公という、このストーリー展開はすでに古典的な筋立てとすら感じます。
そういう意味では、ストーリーや、設定として、特別新しい所は見当たりません。

そしてまた、この物語パターンの傑作として、リュック・ベッソン監督の「レオン」や、さらにはジョン・カサベテス監督「グロリア」など名作が思い浮かびますので、ハードルも自ずと高くなります。

逆に韓国映画の中で比べて見れば、普通よりも刺激とコッッテリ感が少ないほうだと思います。
それでも、他国に比べれば相当ドロドロですが・・・・・・

ともあれ、映画全体から見れば使い古した素材で、韓国映画的には低刺激の作品でしかないといえます。
しかし、それなのに、この映画に引き込まれている自分がいます。

一つには激しいアクションと、どぎつい演出によって、目を逸らすことができないという点があるように思います。
また、その激しいアクションに見合った情念を持った、主演のソン・ドヒョンの存在感が素晴らしい。
どこか、高倉健のような大スクリーンに映える、映画スターとしての「格」を備えているように見えます。

しかし何より、韓国映画特有の全てを焼き尽くすような「情念」の発露が、この映画に力を与えているように感じます。
この映画で描かれている、激しいアクションや、どぎついセリフ、エグさグロさは、すべて感情に直結しているのでしょう。
つまりは、主人公の「情念」が燃え上がるほどに、暴力が過激になり感情の爆発が強くなるという構図です。

そういう意味で、韓国映画は「情念=エモーションに」従って、全てが「エキセントリック」に表現されるということだと思うのです。
そういう意味で、アメリカや日本の猟奇的な物語とは表現の目的・方向が違うというべきでしょう。

もう一度その韓国映画の性格を整理してみます。

例えばこの物語の原型とも言うべき「グロリア」は、この映画同様に主人公が子供を守りますが、その理由はアメリカ人の持つ「正義・フェア精神」からだと思います。
そしてまた「レオン」の主人公は、フランス人が命を捧げても悔いのない「愛・アムール」ゆえに助けたのでしょう。

そう考えるとき、この韓国の主人公の行動原理は、自分が苦しみ傷を負ってしまったことに対する「恨み・復讐」の為のように思います。
この映画を良く良く見れば、この主人公はこの少女を助ける為というよりは、この少女を喪ってしまった自分の傷に対して、復讐せずにはいられないのだと語られていないでしょうか。

そういう意味で、ある共通の「物語原型」を通して、その作り手の民族性が表出されてしまうのは、面白くも恐ろしいモノだと感じます。

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posted by ヒラヒ・S at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 韓国映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月14日

親切なクムジャさん

韓国映画の表現様式に関する私見-修正



評価: ★★★★ 4.0

この映画で感心するのは、その感情表現です。
人間の怨念、情念、恨み、つらみ、そうゆう人の持つ負の表出を、人の演技だけで伝えて圧倒的な迫力です。
 
この映画は主人公の女性=クムジャが、誘拐事件の真犯人に脅され、誘拐した子供の殺人犯として服役する。その主人公の復讐譚です。

ストーリーとしての整合性は不完全ですし、人物造型、心理描写、モンタージュなど、映画の伝える技術としては破綻に近い・・・・・・というのが言いすぎなら、整備しようとはしていないと言いましょう。

しかし、この映画は冒頭で書いたように、確実に人を惹き付ける力がありますし、目を離せない光景が繰り広げられるのです。

その理由は、この映画の「様式」が物語を伝える事よりも、登場する人間の情念を伝える事を優先しているせいだと思うのです。

極端にいえば、人の情念表出が映画の「主人」でそれ以外の映画的要素は全て「奴隷」なのです。

たとえば、この場面に子供がいちゃいけないだろうというシーンであっても、「情感が強まる」と思えば子供が現れますし、物語として断絶があったとしても「情感が弱まる」時には省略されます。

そういう意味で、復讐の際のあり得ないほどのドギツサ、クドサ、執拗さは決してサディズムによるものではなく、この「様式」に乗っ取った、この復讐者達がどれほどこの犯人を恨んでいるかの、エモーショナルな表出なのだと解釈します。

実を言うと、この映画のように韓国作品は多かれ少なかれ感情表現を最優先した「様式」を持っているように感じられます。

それゆえ、狂おしいほどの「感情」、それもドロドロした「負の感情」や「悲しみ」を役者の演技で表現させると、世界一だと個人的には思います・・・・

さらに「様式」について言わせていただければ、ある「映画の様式」で作られた作品は、分かり易い説明やドラマ的な整合性を犠牲にすることも在るやも知れません。
しかし全ての「表現様式」はその表したいテーマを最も効率よく伝達するための、選ばれた形です。

そういう意味で、あるテーマを表すため選択された「様式」の評価は、映画としての体裁が良い悪いではなく、その「様式」がどれほどテーマを表すのに効果が在ったかで評価されるべきだと思います。

したがって仮に、小津安二郎の「様式」をこの映画のような感情の表出のために用いるのは、間違いということになります。

以上を踏まえて、言わせて頂ければ−

この映画のテーマは13年以上も復讐のために全てを捧げても、結局虚しさだけしか残らないということがラストシーンで語られているかと思うのですが、映画全体を通して「感情的映画様式」に乗っ取った表現により、復讐の念の過剰さが際立ってしまい、ややもすると復讐はすべきだという誤解すら生まれそうな描写です。
 
やはりどんな「様式」であれ、その「映画テーマ=観客に最も伝えたい核」が十分に伝わらない場合には映画として成功とは言い難いのではないかと思うのです・・・・・最もテーマすらも「様式の奴隷」として扱われているのであれば、言葉もありませんが・・・・

と書いてから・・・・・・・・・・
もう一度映画を見直したのは・・・・・・・・・
やはり自分の書いたことに確信を持てなかったからです。

そして、自分なりに理解したのは、この映画の訴えたいテーマとは理性的な「復讐の是非」ではなく、徹頭徹尾ドロドロした情念、恨み、憎しみ、怨みを表現する事ではないかと思うようになりました。
そう考えれば、ラスト・シーンの意味するものはどれほど、虚しくとも、悲しくとも、人生をかけてでも「恨み」を果たさずには済ませられないという「人間の業」を語っているのでしょう。

だとすれば「復讐が虚しい」などというのは、私個人の勝手な思い込みで、この映画のように、どんなことがあっても「復讐は果たさずに終われない」人達が居て、その思いは人生を懸けてでも「復讐」がされるのだと、この映画は語っている事になります。

こういう形で、整理すればこの映画は首尾一貫し混乱は無いことになります。
従って、映画的な構造、テーマと表現様式に破綻は無いといわざるを得ません。

その上で★マイナス1の言い訳です。

この映画が人生を懸けてでも「復讐」をせざるを得ない情念を語っているのだとすれば、実は、韓国映画に共通の感情的表現のベースに、この「恨みつらみ」が有るように思えてきました。
だとすれば、もうこれは「韓国民族」に共通の情念だといえるのではないでしょうか。

これが正しければ、小津の様式、静かに耐え水に流す「日本人の心性」を持つ私としては、正直この情念の強さに辟易してしまい、もうチョット人を許してもいいのではないか、許さなければ復讐された側にまた恨みが生まれ、永遠に恨みが拡大し続けるのではないかという考えから★マイナス1です。

ここからは映画と関係ないのですが、もう一言言わせてください・・・・・
日本人は時間が解決してくれるとか、水に流してなどと言いますが、この映画でハッキリしているように、時間とともに「恨み」を育ててでも「復讐」を追求するのが「韓国」の民族性なのでしょう。

正直、理解できない心理で、マジですか・・・・・という気もしますが、そう思うのは私が平和な日本に育ったせいで、そんな心情を持つ必然性が韓国の歴史と風土に在るのでしょう。

そして全ての「様式」は必然として導き出されるというように、民族性もその民族の地理、環境、歴史、文化の必然としてあります。従って、どちらが正しいという問題ではないはずです。

この「韓国」と「日本」の民族性、心理的バックボーンの違いを理解しつつ、話し合わないかぎり「日韓」の問題は決して解決しないのではないでしょうか?

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posted by ヒラヒ・S at 12:40| Comment(0) | 韓国映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする