2016年09月30日

アニメ『おおかみこどもの雨と雪』ファンタジーの語る母性・あらすじ・感想・意味

ファンタジーを着た娘



評価:★★★★   4.0点

じつは、この映画は何度も見ていて、その度に胸が熱くなるのです。
それでいながら、その感動が何故であるのか、どこから来ているのか、どこか掴みきれないもどかしさがあって、レビューを書くことにためらいがありました。
おおかみこどもの雨と雪あらすじ
大学生の花(声:宮崎あおい)は大学で、人間の姿をしていながらもおおかみという狼男(声:大沢たかお)と出会う。二人は惹かれあい同棲を始め、やがて子どもを授かる。生まれて来た姉の雪と弟の雨も、父と同じ狼人間だった。家族4人は都会の小さなアパートで、ささやかながらも幸せだった。しかしある雨の日、父が死んでしまい、おおかみこどもの姉弟を女手一つで育てる花は、豊かな自然の残る田舎に移住する。そこでは、家族3人慣れない田舎暮らしに戸惑いながらも、周囲の人々に助けられながら自給自足に近い生活を営み、子供達も成長していくのだった・・・・・・・

(日本/2012年/117分/監督・脚本 細田守/キャラクターデザイン貞本義行)


おおかみこどもの雨と雪・感想・解説
このアニメが語るもののヒントを得たと思ったのは、ハリウッド映画の「赤ずきん」を見たときでした。
その映画自体は混乱してちょっと困った出来でしたが、リスクを知りながらも「恋」ゆえに「狼」を待つ主人公の姿が、なかなかメロウでロマンチックでした。

そして気が付いたのです、この映画も「狼=危険な恋」に魅せられた「娘=赤ずきん」の物語であり、同時に「狼=危険な恋」が終わったあとの後日談ではないかと。
そして主人公の女性が表わしているのは、危険と知りつつ近寄ってしまう人間の性と、その危険を引き受けてでも相手と添おうとする、人の想いの強さだと思うのです。
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これは女性側から見れば、男性を選び、恋をして、結ばれることが「赤ずきん」の物語と同様常に危険を伴う行いであり、同時に危険であればある程強く執着せざるを得ないという「恋」の真実を表しているように思います。

その結果「赤ずきん」が背負うべき過酷な運命、新たな命の養育が待っているのです。

そう思ってみれば、この映画の「狼」が早々に映画から消え去るのは、この女性が「赤ずきん=無垢な少女」から「母」と変わるその変化は、最終的に女性が自ら選択して初めて成し得る変容であり、結局男性が女性の人生に根本的に関わる事はないと語られているように思います。

ookamikodomo.jpg女性にとって本質的に関わる人々が、母であり自ら産んだ子である時、命の系譜を紡ぐ必然の中で危険な恋を経ざるを得ないし、同様に男性とは「子=命」を生むための一過性の必要でしかないと告げているように感じました。

それゆえ、娘の「雪」は母と同様「恋=危険」の味を知って「女」の人生を歩みだし、息子の「雨」は母の手の届かない場所に去ってゆきます。

そういう意味で、この映画は「女性映画」であり、同時に人類の「命のつながり」を描いた映画だと思いました。

こんな形で考えてみれば、このテーマを描くためには「恋という危険な行為」を表す「狼」、「命を宿し育てる女性」を表す「強く自立した女性」、そして「女性の本質が命=自然である」ことを現す「自然=田舎」の描写が必要であったと思うのです。

そして何よりも必要だったのは、このテーマを際立たせるための理想的な人間や自然の裏側に、現実ではあるモロモロの苦しみを感じさせない事だったのではないでしょうか?

Wolf.jpg例えば、実写でこのアニメのまま母を描けば、世の子育て世代の母親たちから「有り得ない=リアリティを持ち得ない」存在だと非難されるでしょう。
かといって実写に合わせ、もっとシングルマーザーの現実の労苦を書き込むのであれば、ファンタジーとして成立しないに違いありません。
またこの美しい自然も、そこに潜む禍々しい脅威が、実写映像にしたならば峻厳過酷に感じざるをえないでしょう。
そして何よりも、ここで描かれた狼人間の生活を実写化するのは、特殊効果を駆使しても、物語のイメージに合わせるのは相当困難かと思います・・・・

そういう意味で「アニメ」には実写化した時の現実の重みから自由でいられる「ファンタジー化作用」を持つように感じました。

ただ惜しむらくは、自然・現実的描写が上手すぎて、ややもすると「アニメ」として見れないためイメージに混乱が生じたように思います・・・・それゆえマイナス☆1です・・・・・

と書いておいて何ですが・・・・・・・どんなに過酷な現実でも、恋というファンタジーをまとったならば、少女は否応なく母になるのかも知れません・・・・なんてキザなことを思ったりしました。

細田監督作詞、高木正勝作曲、歌:アン・サリー。主題歌「おかあさんの唄
この歌詞に細田監督の思いが詰まっているようにおもいます・・・・

関連レビューはこちら⇒「赤ずきん」



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ラベル:細田守
posted by ヒラヒ・S at 19:27| Comment(4) | TrackBack(1) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月01日

今敏『千年女優』アニメの開く虚構の新世界・あらすじ・感想・意味

sennennjyoyu.jpg

評価:★★★★   4.0点

harasetuko.jpg「わたくしずるいんです。」

「わたし、いつだって夢のような事ばかり考えて・・・・・」

「いつまでも、こうしていたいんです。」


私はこのアニメ映画を見た夜の夢で、こんな原節子の夢を見ました・・・・・・
このアニメの主人公「藤原千代子」のモデルが、大スターでありながら銀幕を後にした原節子だと感じたからでしょう・・・・・・・
この映画は、そんな「現実世界」と「夢=非現実=虚構」が融合して、一つの物語世界を構築する作品だと感じました。
千年女優あらすじ
銀映撮影所が解体されることとなり、その70周年記念に、大女優として映画界に君臨しながら三十年前に銀幕から姿を消した藤原千代子にインタビューをする企画が立案された。千代子のファンだった立花源也は、その部下井田恭二と共に、インタビュアーとして千代子の隠棲する家を尋ねる。
立花は古びた小さな鍵を携えて、その鍵を藤原千代子に渡す。その鍵こそは藤原千代子が、昭和20年代、少女の時に愛した「鍵の君」と呼ぶ男性が彼女に残した物だった。藤原千代子は「鍵の君」を追い求めて女優になり、満州や、第二次世界大戦、混乱の戦後を、女優として生きたのだと思い出を語る。いつしか、回想の物語は現実と交差を繰り返すにつれ、一つに溶け合っていくのだった・・・・・(2001年/日本アニメ/今敏監督) 

この映画で現実のパートは「インタビューシーン」であり、夢の部分とは「藤原千代子の回想シーン」になります。
さらに、「藤原千代子の回想シーン」には回想シーン内の「映画シーン」が挿入されます。
そして、そのインタビューの答えを聞いているインタビュアー「立花源也と井田恭二の脳内イメージ」が、「藤原千代子の回想シーン」上に、重なり始め、ついには「回想シーン」は「藤原千代子と立花源也と井田恭二」の共同製作による「脳内イメージ」へと昇華していくように思われます。

つまり観客は、映画を見ながら、まるでマトリョーシカのように、無限に続く「脳内イメージ=虚構」のトンネルを進んでいくのです。

この「重複した虚構」の物語を更に「アニメーション」として製作する事で、実写映画以上に、より「強い虚構性」を持って見る者に迫ってきます。


つまり、この作品は何重にも積み上げた「虚構性の深化」を意図した作品だと感じます。
そう考えてみた時、現実とは何なのかと問われねば、虚構性を深くする事の意味も不明瞭に成るに違いありません。

いったい現実とは何でしょう。
それは、最も確実で単純な考え方をすれば、自分の身に起きた、実体験という事になるでしょう。
たとえば、赤ん坊が生まれて来て触れる現実とは、その赤ん坊の五感が届く範囲でしかない事になります。
しかし、本当の世界の広がりは自分の身の回りだけではなく、地球や宇宙やもしかしたら、多元宇宙という可能性まで含めれば広大な現実世界を持っている事を、私たちは知識として知っています。

つまり、我々は本来一個人として触れるべき「個人の現実」の他に、実際には触れ得ない「想像上の現実」を持っているという事になります。
そして、この想定に立てば、「個人の現実」や「想像上の現実」という人間が認識し得る世界を超えた「現実」があるとも考えられるはずです。
例えばいま我々は、水を入れた風船が割れた時の姿をどう思い浮かべるでしょうか?



実際は、下部右の画像が人間の視覚に見える現象です。これは、個人の体験として触れられる「現実世界」です。
しかし、上のスーパースローの形で何万分の1秒の「現実世界」では、風船が割れているのです。
そしてこの風船が割れる姿は、赤外線の眼を持つ虫達には「違う現実世界」として見えているし、聴覚や触覚が発達した生物にとっても「違う現実世界」として感知されているはずです。
結局、人間が感じられる世界や、このスーパースローのように知識として知った世界の他に、人間か感じられず、想像も及ばない「現実世界」も存在するに違いああリません。
そんな三つを含む「現実世界の総体」とでも呼ぶべき物が理論的には存在するはずです。

つまりは「現実世界の総体」から見た時、映画という虚構も、人が現実だと感じている世界も、等しく人の心が生んだ幻ではなかったでしょうか・・・・・・・・・結局「現実世界の総体」から見れば、人間の言う現実は皮相な「虚構」でしかないとすら思えるのです。

この映画では、主人公が少女の時に会った「鍵の君」を、その憧れの人の忘れ形見の鍵を持って、追い続けます。それは、まさに現実世界に存在する者を探すというよりは、自らの心の中の「憧れ=虚構」を追い求める姿であると感じます。

そして、その「憧れ」を追い求める、この女優をインタビューする側も、この女優に憧れているのです。
こんな、どこまでも追い求めて、手にし得ない、そんな「憧れ」をスクリーンに投影したモノこそ「映画」ではなかったでしょうか・・・・・・・

けっきょくこの映画が語るのは、人は「憧れ=虚構」のために「映画=虚構」をつくり、その「映画=虚構」を「憧れ=虚構」を持って見るのだという真実だったでしょう。
そして、この人間の果てる事の無い憧憬「虚構の重複」こそ、「現実世界の総体」に触れるための唯一の道のようにも思えるのです。

なぜなら人間の感覚を超えた「現実世界の総体」は、それが人間の持つ知覚や知識を超えたところにある以上、そこにいたる鍵は「人の現実」からは想像し得なかった「虚構」によってのみ到達できると信じます。

考えて見れば、それは、過去の卓越した芸術家や科学者たちが、その鋭敏な感性を持って「虚構」を生むことで「現実世界の総体」を切り崩し、人類は「人間の現実」の範囲を広げてきたのではないでしょうか・・・・・・
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その虚構を生成する道具として「アニメーション」がどれほど有用かを示したのが、この作品であるように思うのです。

「私ずるいんです。私いけないんです・・・・」と夢のなかの原節子が言った
「いや〜いけなかないさ。それでいいのさ」と、夢の中で笠智衆になった私が言った。
「じゃーいいんですの。私は夢の中で永遠に生きても?」
「そうさ。それでいいのさ」
そういうと、原節子と私は虚構の奥へ奥へと、歩んでいくのでした・・・・・
その先に、確かに今敏監督の影を見たような気がします。
それで、もう、ずっと眼がさめることはないのだなと覚悟しました。


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ラベル:今敏
posted by ヒラヒ・S at 17:53| Comment(4) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月17日

アニメ『思い出のマーニー』少女の夏を生きる・意味・あらすじ・感想・解説

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評価:★★★★   4.0点

今日、自分を嫌うということ。
それは今まで、愛を感じ取れなかったということ。
愛を感じ取れないとは、愛を他者に与えられないということ。
愛を他者に与えられないとは、孤独になるということ。
孤独になるとは、生きれないということ。

しかし、今、生きているということ。
今、命が有るということ。
命が有るとは、愛は必ず在るということ。


人が愛なくして成長しないというのは、生物学的な真理なのだから。

たとえ、自分が愛に気づかなくとも。
たとえ、この世界で一人ぼっちだと嘆いていても。


一つの細胞が、分裂を開始した瞬間から、その成長とは愛によって育まれているという証。

この映画の少女達のように、一人立ちするには幼く、誰かに頼るには大人すぎる時期に、迷い、戸惑い、自分を見失うときには、この映画を見て思い出して欲しい。

あなたが今、存在するということ。
そこに必ず愛が介在しているということ。
それが、今、生ているということ。

<あらすじ>
主人公の杏奈は内気な少女で、いつも人の輪の外に一人でいると感じている。唯一の肉親の祖母が亡くなり、里親に育てられる。杏奈を育てる事で、里親が市からの補助金を受けている事を知り、里親を信じられなくなっている。杏奈は喘息の療養のために海辺の町で過ごすことになるが、そこで湿っ地(しめっち)屋敷と呼ばれる古い屋敷を見つけ、杏奈はその屋敷に住む不思議な少女マーニーと会い親友となる。しかし後日訪れた湿っ地屋敷は、なぜか無人の廃屋だったためマーニーとは幻だったのかと思い始める。そんなある日、湿っ地屋敷に引っ越してきた少女から、彼女が見つけたというマーニーの日記を見せられ、杏奈はマーニーが現実に存在したことを知った。そして杏奈はマーニーと再び合った時に、二人の間に不思議な絆と、自分と同じ悩みがあることを知り、彼女達は嵐の夜マーニーが恐れていたサイロを克服しようと挑む・・・・・

このアニメは、「少女の一夏の冒険を通して、人生を勝ち取る」という意味で、女性版の「スタンド・バイ・ミー」のようにも思います。


栗林監督の抑えたクールな味わいが、この物語を静謐なファンタジーとして輝かせているように思います。
そんな少女達の悲しみを表現した、プリシラ・アーンの歌うマーニーの主題歌が、切なく沁みます。

タイトル:「 Fine On The Outside」(外側でいいの:うわべは元気に)
I never had that many friends growing up
(大きくなるまでに、友達は多くなかった)
So I learned to be Ok with Just me, just me, just me, just me 
And I’ll be fine on the outside
(それで、外側にいれば、うわべは明るくしていられるから、一人ぼっちでいいって学んだ、一人ぼっちで 、一人ぼっちで 、一人ぼっちで )
I like to eat in school by myself
(私は学校で一人で食べるのが好き)
Anyway So I’ll just stay Right here, right here, right here, right here And I’ll be fine on the outside
(とにかく、外側にいれば、うわべは明るくしていられるから 、それで、私はただここにいる、ここにいる、ここにいる、ここにいる)
So I just sit in my room after hours with the moon
(それで、私は月と一緒に深夜部屋に座っている)
And think of who knows my name
(そして思う、誰か私の名前を知っているのかしらと)
Would you cry if I died
(あなたは泣いてくれる、もし私が死んだら)
Would you remember my face?
(あなたは思い出してくれる、私の面影を?)


この切ない歌にも、他者(ヒト)を求める、魂の呼びかけがあります・・・・・
だからもう一度書きます。

あなたが今、存在するということ。
そこに必ず愛が介在しているということ。
それが、今、生ているということ。



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ラベル:米林宏昌
posted by ヒラヒ・S at 20:59| Comment(4) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする