2016年10月30日

アニメ『秒速5センチメートル』中二病のリリシズム/感想・あらすじ・ネタバレ・ラスト・解説

新海誠監督の基礎力の証明



評価:★★★★   4.0点

このアニメは中学生のリア充の恋愛がうらやまし過ぎるとか・・・・・・
この最後のあんまりな結末に、鬱になるとか・・・・・・・・・
いろいろご意見もあるかと思いますが、やはりそれでも『君の名は』につながる美しさがここにはあると思えます。

『秒速5センチメートル』あらすじ


短編3本の連作として製作された、主人公遠野貴樹の物語。
<桜花抄>東京の小学校に転校通してきた遠野貴樹(声:水橋研二)と篠原明里(声:近藤好美)は、同じ環境の似たもの同士ということで、互いに好意を持ち同じ中学校に進学しようというとき、明里は宇都宮に引っ越す。二人はその後文通を重ねるが、中学1年時のとき貴樹も種子島に転校することが決まり、転校の前に明里に会うために宇都宮に向かう。しかし折悪しく豪雪に見舞われ大幅に約束の時間に遅れてしまう・・・・
<コスモナウト>種子島の夏で高校三年の澄田花苗(声:花村怜美)は、中学二年の時に東京から引っ越してきた遠野貴樹(声:水橋研二)に片思いをしている。同じ帰り道を一緒に帰りながらも、自らの思いを打ち明けることができない。打ち込むサーフィンで波に乗れたら告白しようと決め、ついに成功した日に貴樹と一緒に下校する。しかし花苗は共に歩きながら、思いがあふれ泣き出す。その二人の上をH2Aロケットがどこまでも昇って行くのだった・・・・・・・
<秒速5センチメートル>社会人になった遠野貴樹は、がむしゃらに仕事をし、疲れ果て、仕事を退職する。彼女にもフラれ、抜け殻のようになって思い出すのは、中学時代の明里との思い出だった。また、明里も新たな生活に踏み出す前に、貴樹との記憶を蘇らせていた・・・・・・

『秒速5センチメートル』予告


(日本/2007年/60分/監督・演出・脚本・原作・絵コンテ・キャラクター原案・新海誠)

『秒速5センチメートル』感想・解説


このアニメ映画で表しているのは、届かない思い、遥かな距離を隔てて、なお追い求めとめようとする切ない思いにあると感じました。
そんな儚く哀しい心を見事に表現した、新海誠監督の画面の細部にまでリリシズムを込めた表現力が素晴らしいと感動しました。
この映画の持つリリシズムとは、永遠に手に入らないからこそ成立する、崇拝の姿ではないかと思うのです。
だとすれば、この映画のラストは「崇拝すべき存在」を天上に止め置き、崇め続けられる幸福を手にしたハッピーエンドではないでしょうか・・・・・
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意向の文章には

『秒速5センチメートル』ネタバレ

がありますご注意下さい。

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この映画の主人公は、中学一年の3学期に人生のピークを迎えたのだと思う。
好きな女の子と相思相愛になり、ファーストキスを交わす。
そして一晩、二人きりでそれぞれの思いを語り朝を迎える。

そんな完璧な時を過ごして、その思い出は残像としてなお光り続けただろう。
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この中学生のカップルは、お互い遠く離れた物理的距離を越えられず、特に主人公の遠野貴樹は自らの『永遠の時』を越えられず、その思いは転じて遥かな宇宙を夢想したり、仕事を通じて自己実現を成そうとして果たせない。
それは、高校時代に自らを思ってくれる相手が傍に居てすら気が付かないほど、遠くにしか焦点があっていないという描写に明らかだ。

結局、遠野貴樹にしても、その貴樹に高校時代に恋した澄田花苗にしても、隔たって離れているからこそ「想い」が募るのだろう。
なぜなら、彼等が求めた対象とは「現実の存在」ではなく「胸の内の理想」に他ならないのだから。
決して手に入らない「理想」を思う時、人が成す行為を「祈り」と呼ぶのではなかったか。
つまりここに在るのは「人が神を思う=信仰」の姿である。

祈りが完全に適えば「信仰=祈り」が消え去るように、人は現実に安住し得ないがゆえに「誰かを恋し」「宇宙を目指し」「理想を求める」のではないのか。

そして、間違いなく、自分の「望むモノ」を不可能なほどの高みに設定したとき、その無理な望みのために自らを修道士のごとく、純粋に高潔に保とうと努めるはずであり、そこにはある種の気高さを伴った美が生じるはずである。
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主人公の恋する相手を「マドンナ化」する姿とは、一見現実の中で満足を見出せずに、自らの幻想の中で「欲望」を生み出す、思春期の少年達とおなじ心理的作用「中二病」として見える。

しかし、本質的に違うのは中学生の「夢想=理想」は、成長し現実世界の経験を重ねることにより、夢は日々の摩擦を経て「矮小化された日常」へと向かい、輝きと気高さを喪うということだ。

対してこの映画の主人公は、高校時代や社会人時代に3年付き合った彼女が居たという描写を見れば、他者からみれば「リア充」として現実を生きていたはずだが、それでも一度手にした「篠原明里=理想」を捨て切れなかった。

実際は彼にも分かっていたはずだ、それは現実の相手ではなく、13歳の時に生まれた、相互の隔たった想いが完璧なタイミングで融合した一期一会の「奇跡の瞬間」なのだと。
その「美しき奇跡」を残像として心に宿し、矮小な現実の苦しさを前に、その「美」に磨きをかけさえしたのだろうと想像する。

そんな「美しき奇跡」を「初恋」と呼ぶこともできる。

そして、しばしば言われるように「初恋」は実らない方が良いというのは、その恋が多分に自己愛の発露であり、自らの願望を相手に投影した結果であるからである。

つまりは初恋という現象は、現実の恋人を己の理想でコーティングし美化するする行為に他ならない。
その試みは、最終的に破綻せざるを得ないのは、現実の恋を重ねるとは、「他者=恋人の理想」を前に自らの「自己愛的理想」を打ち崩される工程であるからだ。
その、無惨で無慈悲な現実に、自らの理想を侵されずにすむ道は、ただ一つしかない。

触れずに敬して遠ざかり、崇めることだ。

これこそ、この主人公の成したことではなかったか・・・・・・
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『秒速5センチメートル』ラストシーン


そして、この映画のラストで示されたのは、この主人公はかつて恋人であった存在を現実で手に入れようと思っていないと言う事実だ。
過去の甘やかで理想の姿をした、中学生時代の彼女ほど完璧な存在が無いことを知っている彼は、そうできるのに、現実の彼女に駆け寄り抱きしめることをしない。

明らかに現実の彼女よりも、過去の彼女に対する「想い」の方に価値があると、知っているからだ。

それゆえこの主人公は、これから先も自らが作り上げた「美しき奇跡」を前に、永遠の彷徨を続けなければならないだろう。
それは不幸であったとしても、現実の小さな幸福よりも、美しき甘美な決して手に入らない「完璧な理想」に殉ずるというロマンチズムを生きるという決意でもある。
そしてその姿とは、間違いなく、現実の中から永遠の美を抽出しようとする、芸術家の魂に通じるものであり、新海誠監督のリリシズムの本質を表すものだったろう。

だが、この映画で語られた「隔たれた理想」「美しき奇跡」を、今この時代に語るのは冷笑を持って切り捨てられるのが関の山だが、それをアニメーションで描くことで、一見陳腐なテーマを昇華し、再生することを可能としたと思う。

つまり「中二病」の如き、甘く幼い「夢想」ですら、この監督のアニメーションのデティールに表現された美の鮮烈な説得力をもってすれば、十分語れることを意味する。

新海誠という作家はアニメにより『ロマン派』を再興・復権することだろう。

この映画のエンディングテーマにして、全てといってもいい・・・・・

『秒速5センチメートル』主題曲

山崎まさよし / One more time,One more chance



ぜひこの作品本編で、主人公達のドラマとこの歌が重なる感動的なエンディングをご覧ください。


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ラベル:新海誠
posted by ヒラヒ・S at 16:59| Comment(4) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月30日

アニメ『おおかみこどもの雨と雪』ファンタジーの語る母性・あらすじ・感想・意味

ファンタジーを着た娘



評価:★★★★   4.0点

じつは、この映画は何度も見ていて、その度に胸が熱くなるのです。
それでいながら、その感動が何故であるのか、どこから来ているのか、どこか掴みきれないもどかしさがあって、レビューを書くことにためらいがありました。
おおかみこどもの雨と雪あらすじ
大学生の花(声:宮崎あおい)は大学で、人間の姿をしていながらもおおかみという狼男(声:大沢たかお)と出会う。二人は惹かれあい同棲を始め、やがて子どもを授かる。生まれて来た姉の雪と弟の雨も、父と同じ狼人間だった。家族4人は都会の小さなアパートで、ささやかながらも幸せだった。しかしある雨の日、父が死んでしまい、おおかみこどもの姉弟を女手一つで育てる花は、豊かな自然の残る田舎に移住する。そこでは、家族3人慣れない田舎暮らしに戸惑いながらも、周囲の人々に助けられながら自給自足に近い生活を営み、子供達も成長していくのだった・・・・・・・

(日本/2012年/117分/監督・脚本 細田守/キャラクターデザイン貞本義行)


おおかみこどもの雨と雪・感想・解説
このアニメが語るもののヒントを得たと思ったのは、ハリウッド映画の「赤ずきん」を見たときでした。
その映画自体は混乱してちょっと困った出来でしたが、リスクを知りながらも「恋」ゆえに「狼」を待つ主人公の姿が、なかなかメロウでロマンチックでした。

そして気が付いたのです、この映画も「狼=危険な恋」に魅せられた「娘=赤ずきん」の物語であり、同時に「狼=危険な恋」が終わったあとの後日談ではないかと。
そして主人公の女性が表わしているのは、危険と知りつつ近寄ってしまう人間の性と、その危険を引き受けてでも相手と添おうとする、人の想いの強さだと思うのです。
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これは女性側から見れば、男性を選び、恋をして、結ばれることが「赤ずきん」の物語と同様常に危険を伴う行いであり、同時に危険であればある程強く執着せざるを得ないという「恋」の真実を表しているように思います。

その結果「赤ずきん」が背負うべき過酷な運命、新たな命の養育が待っているのです。

そう思ってみれば、この映画の「狼」が早々に映画から消え去るのは、この女性が「赤ずきん=無垢な少女」から「母」と変わるその変化は、最終的に女性が自ら選択して初めて成し得る変容であり、結局男性が女性の人生に根本的に関わる事はないと語られているように思います。

ookamikodomo.jpg女性にとって本質的に関わる人々が、母であり自ら産んだ子である時、命の系譜を紡ぐ必然の中で危険な恋を経ざるを得ないし、同様に男性とは「子=命」を生むための一過性の必要でしかないと告げているように感じました。

それゆえ、娘の「雪」は母と同様「恋=危険」の味を知って「女」の人生を歩みだし、息子の「雨」は母の手の届かない場所に去ってゆきます。

そういう意味で、この映画は「女性映画」であり、同時に人類の「命のつながり」を描いた映画だと思いました。

こんな形で考えてみれば、このテーマを描くためには「恋という危険な行為」を表す「狼」、「命を宿し育てる女性」を表す「強く自立した女性」、そして「女性の本質が命=自然である」ことを現す「自然=田舎」の描写が必要であったと思うのです。

そして何よりも必要だったのは、このテーマを際立たせるための理想的な人間や自然の裏側に、現実ではあるモロモロの苦しみを感じさせない事だったのではないでしょうか?

Wolf.jpg例えば、実写でこのアニメのまま母を描けば、世の子育て世代の母親たちから「有り得ない=リアリティを持ち得ない」存在だと非難されるでしょう。
かといって実写に合わせ、もっとシングルマーザーの現実の労苦を書き込むのであれば、ファンタジーとして成立しないに違いありません。
またこの美しい自然も、そこに潜む禍々しい脅威が、実写映像にしたならば峻厳過酷に感じざるをえないでしょう。
そして何よりも、ここで描かれた狼人間の生活を実写化するのは、特殊効果を駆使しても、物語のイメージに合わせるのは相当困難かと思います・・・・

そういう意味で「アニメ」には実写化した時の現実の重みから自由でいられる「ファンタジー化作用」を持つように感じました。

ただ惜しむらくは、自然・現実的描写が上手すぎて、ややもすると「アニメ」として見れないためイメージに混乱が生じたように思います・・・・それゆえマイナス☆1です・・・・・

と書いておいて何ですが・・・・・・・どんなに過酷な現実でも、恋というファンタジーをまとったならば、少女は否応なく母になるのかも知れません・・・・なんてキザなことを思ったりしました。

細田監督作詞、高木正勝作曲、歌:アン・サリー。主題歌「おかあさんの唄
この歌詞に細田監督の思いが詰まっているようにおもいます・・・・

関連レビューはこちら⇒「赤ずきん」



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ラベル:細田守
posted by ヒラヒ・S at 19:27| Comment(4) | TrackBack(1) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月01日

今敏『千年女優』アニメの開く虚構の新世界/解説・あらすじ・感想・意味

sennennjyoyu.jpg

評価:★★★★   4.0点

harasetuko.jpg「わたくしずるいんです。」

「わたし、いつだって夢のような事ばかり考えて・・・・・」

「いつまでも、こうしていたいんです。」


私はこのアニメ映画を見た夜の夢で、こんな原節子の夢を見ました・・・・・・
このアニメの主人公「藤原千代子」のモデルが、大スターでありながら銀幕を後にした原節子だと感じたからでしょう・・・・・・・
この映画は、そんな「現実世界」と「夢=非現実=虚構」が融合して、一つの物語世界を構築する作品だと感じました。
千年女優あらすじ
銀映撮影所が解体されることとなり、その70周年記念に、大女優として映画界に君臨しながら三十年前に銀幕から姿を消した藤原千代子にインタビューをする企画が立案された。千代子のファンだった立花源也は、その部下井田恭二と共に、インタビュアーとして千代子の隠棲する家を尋ねる。
立花は古びた小さな鍵を携えて、その鍵を藤原千代子に渡す。その鍵こそは藤原千代子が、昭和20年代、少女の時に愛した「鍵の君」と呼ぶ男性が彼女に残した物だった。藤原千代子は「鍵の君」を追い求めて女優になり、満州や、第二次世界大戦、混乱の戦後を、女優として生きたのだと思い出を語る。いつしか、回想の物語は現実と交差を繰り返すにつれ、一つに溶け合っていくのだった・・・・・(2001年/日本アニメ/今敏監督) 

この映画で現実のパートは「インタビューシーン」であり、夢の部分とは「藤原千代子の回想シーン」になります。
さらに、「藤原千代子の回想シーン」には回想シーン内の「映画シーン」が挿入されます。
そして、そのインタビューの答えを聞いているインタビュアー「立花源也と井田恭二の脳内イメージ」が、「藤原千代子の回想シーン」上に、重なり始め、ついには「回想シーン」は「藤原千代子と立花源也と井田恭二」の共同製作による「脳内イメージ」へと昇華していくように思われます。

つまり観客は、映画を見ながら、まるでマトリョーシカのように、無限に続く「脳内イメージ=虚構」のトンネルを進んでいくのです。

この「重複した虚構」の物語を更に「アニメーション」として製作する事で、実写映画以上に、より「強い虚構性」を持って見る者に迫ってきます。


つまり、この作品は何重にも積み上げた「虚構性の深化」を意図した作品だと感じます。
そう考えてみた時、現実とは何なのかと問われねば、虚構性を深くする事の意味も不明瞭に成るに違いありません。

いったい現実とは何でしょう。
それは、最も確実で単純な考え方をすれば、自分の身に起きた、実体験という事になるでしょう。
たとえば、赤ん坊が生まれて来て触れる現実とは、その赤ん坊の五感が届く範囲でしかない事になります。
しかし、本当の世界の広がりは自分の身の回りだけではなく、地球や宇宙やもしかしたら、多元宇宙という可能性まで含めれば広大な現実世界を持っている事を、私たちは知識として知っています。

つまり、我々は本来一個人として触れるべき「個人の現実」の他に、実際には触れ得ない「想像上の現実」を持っているという事になります。
そして、この想定に立てば、「個人の現実」や「想像上の現実」という人間が認識し得る世界を超えた「現実」があるとも考えられるはずです。
例えばいま我々は、水を入れた風船が割れた時の姿をどう思い浮かべるでしょうか?



実際は、下部右の画像が人間の視覚に見える現象です。これは、個人の体験として触れられる「現実世界」です。
しかし、上のスーパースローの形で何万分の1秒の「現実世界」では、風船が割れているのです。
そしてこの風船が割れる姿は、赤外線の眼を持つ虫達には「違う現実世界」として見えているし、聴覚や触覚が発達した生物にとっても「違う現実世界」として感知されているはずです。
結局、人間が感じられる世界や、このスーパースローのように知識として知った世界の他に、人間か感じられず、想像も及ばない「現実世界」も存在するに違いああリません。
そんな三つを含む「現実世界の総体」とでも呼ぶべき物が理論的には存在するはずです。

つまりは「現実世界の総体」から見た時、映画という虚構も、人が現実だと感じている世界も、等しく人の心が生んだ幻ではなかったでしょうか・・・・・・・・・結局「現実世界の総体」から見れば、人間の言う現実は皮相な「虚構」でしかないとすら思えるのです。

この映画では、主人公が少女の時に会った「鍵の君」を、その憧れの人の忘れ形見の鍵を持って、追い続けます。それは、まさに現実世界に存在する者を探すというよりは、自らの心の中の「憧れ=虚構」を追い求める姿であると感じます。

そして、その「憧れ」を追い求める、この女優をインタビューする側も、この女優に憧れているのです。
こんな、どこまでも追い求めて、手にし得ない、そんな「憧れ」をスクリーンに投影したモノこそ「映画」ではなかったでしょうか・・・・・・・

けっきょくこの映画が語るのは、人は「憧れ=虚構」のために「映画=虚構」をつくり、その「映画=虚構」を「憧れ=虚構」を持って見るのだという真実だったでしょう。
そして、この人間の果てる事の無い憧憬「虚構の重複」こそ、「現実世界の総体」に触れるための唯一の道のようにも思えるのです。

なぜなら人間の感覚を超えた「現実世界の総体」は、それが人間の持つ知覚や知識を超えたところにある以上、そこにいたる鍵は「人の現実」からは想像し得なかった「虚構」によってのみ到達できると信じます。

考えて見れば、それは、過去の卓越した芸術家や科学者たちが、その鋭敏な感性を持って「虚構」を生むことで「現実世界の総体」を切り崩し、人類は「人間の現実」の範囲を広げてきたのではないでしょうか・・・・・・
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その虚構を生成する道具として「アニメーション」がどれほど有用かを示したのが、この作品であるように思うのです。

「私ずるいんです。私いけないんです・・・・」と夢のなかの原節子が言った
「いや〜いけなかないさ。それでいいのさ」と、夢の中で笠智衆になった私が言った。
「じゃーいいんですの。私は夢の中で永遠に生きても?」
「そうさ。それでいいのさ」
そういうと、原節子と私は虚構の奥へ奥へと、歩んでいくのでした・・・・・
その先に、確かに今敏監督の影を見たような気がします。
それで、もう、ずっと眼がさめることはないのだなと覚悟しました。


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ラベル:今敏
posted by ヒラヒ・S at 17:53| Comment(4) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする