2016年07月27日

『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』細田守監督のデジタル世界の神話

世界の三位一体




評価:★★★★★  5.0点

この作品は、上映時間が40分にすぎませんが、後の細田作品にもない「革新的な世界観」を持った傑作だと感じました。


<あらすじ>
物語はTV版デジタル・モンスターの設定と登場人物を引き継ぎ、少年4人が、インターネット上で誕生した、邪悪なデジモンと対決する物語。
ネット上でデジモンの卵が孵化し、どんどん進化を続け、ネット上から世界中を大混乱に陥れ、更に現実世界にも影響は波及し、ついに核爆弾を発射。世界の破滅を少年達とデジモンは阻止すべく“デジモン・ワールド”に向かう・・・・・・




このアラスジを読んで、この物語は『サマーウォーズ』そのものじゃないのと思った方もいらしゃるでしょう。
そ〜です、間違いなくこの作品は『サマーウォーズ』の原型なのです。

しかし、両作品の間には明らかに違いがあり、その差異こそがこの作品を名作にしていると感じるのです。
その差異を説明する前に整理しておきたい点があります。
それは、物語の世界観という要素についてなのですが・・・・・

基本的に、映画にしても小説にしても、ドラマが展開する「世界観」というものが有ります。
それは従来、現実世界、幻想世界という二つの世界観で作られて来ました。

例えば、現実世界で完結する物語としては『ゴッド・ファーザー』のように、フィクションでありながら現実から一歩も出ない作品があります。
また、幻想世界で完結する物語として『ハリーポッター』や『ロードオブリング』などが上げられるでしょう。
そして、現実世界と幻想世界が交錯・重複する『となりのトトロ』のようなドラマがあります。



そして、この作品で導入されている世界観は、20世紀と共に進化・拡大してきた「デジタル世界=仮想世界」です。

しかし、よ〜く考えて見れば、デジタル世界というのは非常に不思議な世界だと感じられます。
例えば、カメラを趣味にしている人がデジタル・カメラで撮影した時、その写真というのは現実世界に存在しないのです。
ナニ言ってんの、画像ファイルとして間違いなく存在するじゃないかと、お叱りの声が聞こえてきますが、それは「01」のデジタル記号の集積であって、それはそのデジタルデーターを読める機器がなければ無価値であり、ただの「01」という数字の組み合わせが続いているだけなのです。

つまりデジタルには、かつてのフィルムのような「現実世界の物理的な実体」が無いのです。
結局、デジタル世界は電子的記号だけの幽霊のような存在だと言えないでしょうか?
しかし、その実体を持たない幽霊が世界を網羅し、現実世界を制御しているという不可思議さはどうでしょう?

人類はそんな不思議な「デジタル世界」という、新たな「幽霊世界」を、たった100年で構築し成立させてしまったのです。

そんな、仮想世界を正面からこの映画は描いていると思うのです。
もちろん、これまでにも「デジタル世界」を描いた作品として、『トロン』などの作品がありました。
また「現実世界」と「デジタル世界」の交差を描いたものとして『甲殻機動隊』『マトリックス』を思い浮かべます。

そういう意味でこの『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』という作品は、「デジタル世界」「現実世界」の重複の上に成立した物語だと思うのですが、この映画の革新性はさらに「ファンタジー世界」を併せ持っている点だと感じます。


つまり、この映画において主人公の少年達は、人間でありながらデジタル世界で実体を持ちます。
それは人間のまま、コンピューターモニターの中に突入する描写で明らかです。
このシーンこそは、人間が人のままデジタル世界に入り込むというファンタジー性を描いた瞬間だったと信じます。

つまりこの作品おいて、初めて「デジタル世界」を「現実世界」の少年達が「ファンタジー的変換力」によって侵食し得たのだと主張したいのです。

それは同時に、デジタル世界に生まれたデジタル・モンスターという住人達のもとに、神が降臨した瞬間であったようにも思うのです。

これは、デジタル世界に神が生まれた瞬間を描いた傑作だと思いました。

この作品と『サマーウォーズ』の違いとは、ひとえに「デジタル世界」の中に、人がそのまま介入し得るか否かであったはずです。
『デジモンアドベンチャー』はデジタル世界に人間存在のまま存在していますが、『サマーウォーズ』では人間はデジタル機器を介してデジタル世界に関与するだけです。

この作品の持つ革命的な「世界観の交錯」に較べれば、『サマーウォーズ』は「現実世界」と「仮想世界」の対立という、古典的な設定をただ利用しただけになってしまいました。
もちろん、『サマーウォーズ』は「人間ドラマ」であり、人の持つ持つ情感を描く細やかな手腕は細田監督の実力を示すものです。
細田監督が本当に描きたいのも、その後の作品群を見れば、実は『家族』なのかなとも感じます。
そういう意味では『サマーウォーズ』は、家族を描き日本人のノスタルジーを呼び起こした点で、間違いなく成功だったでしょう。

しかし、この作品の世界観を見た後では、明らかにこの映画の「革新性」に較べれば、後退していると言わざるを得ません。

この映画の、現実とデジタル世界をファンタジーで超越し一体化することこそ、アニメにしか出来ない世界観の構築だと思うのです・・・・・・
これを、現実世界、デジタル世界、ファンタジー世界の「三位一体」と呼ぶのは大げさに過ぎるでしょうか。

しかし、新しい「メシア=救世主」はこの三界を統べる者として出現するはずです。
細田監督は、その「メシア」を描き得る可能性を本作で見せているのにと思うと、なおさら『サマーウォーズ』の世界観の後退を惜しむのです――――



細田守監督作品レビュー:『サマー・ウォーズ』『おおかみ子供の雨と雪』


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ラベル:細田守
posted by ヒラヒ・S at 00:00| Comment(4) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月25日

『となりのトトロ』ファンタジーの成立とアニメの力

トトロの永遠



評価:★★★★★  5.0点

深い森の中、私は飢えている。
深い森の中、私は痛んでいる。
深い森の中、私は迷っている。


そんなとき、トトロは私を守ってくれる・・・・・・・・・

都市の中、私は孤独でいる。
都市の中、私は苦しんでいる。
都市の中、私は殺される。


そんなとき、ネコバスは私のもとにやってくる・・・・・・・


人が人として生きるとき、不安や恐怖とともに生きていかざるを得ない。
なぜなら、生き物とは生きる努力をしなければ死んでしまう運命だからだ。
それゆえ人は勤勉さや誠実さで、少しでも生きる可能性を高める努力をする。
しかし努力しても誠実であっても、思いどおりにならないのが現実だ。
ややもすれば、がんばれば、がんばるほど、ますます結果が悪くなっていく。
理性や意思の力だけではどうにもならない、冷酷な世界が人を追い込む。
どれほどがんばっても、光が見えず、もうダメだと、もうつかれたと、暗闇の中静かに沈みたいと望む。

しかし、それでも、生命は、生物としての本能は、生き続けろと光をともす。
飢えても、痛んでも、迷っても、孤独でも、苦しんでも、殺されそうになっても、それでも生きろと光をともす。

そんなとき、トトロは私を守ってくれる・・・・・・・・・
そんなとき、ネコバスは私のもとにやってくる・・・・・・・


人の心がアキラメて折れて消滅する瞬間、それでも輝く命の灯火は生き物の本能の迸りが起こす、奇跡だったろう。

メイの目の前に現れた、トトロとはそんな存在だったと思われてならない。
メイの明るく元気な姿の影に、母の不在による、孤独と絶望を見る。
子供にとっての世界とは、閉ざされて小さな範囲で完結し、その小さな世界における「さざ波」ですら容易に子供を絶望に導くだろう。

そんなとき、トトロは私を守ってくれる・・・・・・・・・
そんなとき、ネコバスは私のもとにやってくる・・・・・・・


子供達が、しばしば河童やお化けの、この世のものではない存在=ファンタジーを見出すのは、彼らの脆弱で無垢な心が容易にパニックに陥るからに違いない。
しかし、この自らの世界の崩壊は、この映画で気丈なさつきが直面したように、むしろ強い理性で不安や恐怖を押さえ込もうとする「大人」にこそ致命的なダメージをもたらすはずだ。

つまり、ファンタジーの本質が、人が理性でコントロールできない絶体絶命の事態における、最後の砦だとすればこの世にファンタジーが消え去る事はないだろう。しかし、そんな人間存在としてギリギリの状態に見るものであるがゆえに、ファンタジーというのは同時に「死」のイメージも必然的に生むのだろう・・・・

宮崎駿はメイという少女に子供のむき出しの感情を持たせ、さつきに大人としての理性を持たせた。このことによって、子供と大人の両方の魂を救うことが可能になったし、同時に世界が人の持つ感情や理性以外の何物かによって支えられているという事実を提示しえたのだと感じる。

つまりこの世は、人間が知りえる「人間世界」よりも、更に大きな広がりの「自然世界」を持っているのだという真実を宮崎は語ったのだろう。
「人間世界」が限界に達し袋小路に突き当たったときに、「自然世界」がその力で世界の歪みを修復し始めるはずだ。
その「人」と「自然=宇宙」を結ぶものとして、ファンタジーが成立するのだ。

そんなとき、トトロは私を守ってくれる・・・・・・・・・
そんなとき、ネコバスは私のもとにやってくる・・・・・・・




そもそも、古来より人は人間の五感では知り得ない「自然世界を見る力」を持っており、危機に陥った時頼ってきたのではなかったろうか。
それこそがファンタジーの本質だとすれば、実はファンタジーとは、人が自然世界を知覚可能な形に擬人化した、いわばコンピューターと人間を結ぶウインドウズのような存在だといえるだろう。

そう考えたとき、アニメーションが「自然世界の使者=ファンタジー」と相性が良い理由が分かるように思う。
アニメーションという言葉が、ラテン語のアニマ「霊魂」「魂」を語源とするように、アニメとはそもそも人の理性を超越した「自然世界」を描き出す事を運命付けられているのであろう。

そういう意味では、人は、アニメは実体を持たない絵空事だと考えがちだが、実はそんな自然界の「霊魂」「魂」が、作家の心を通じて現れたものだと思うのだ。



あっれ〜💦映画の内容にほとんど触れてないような💦〜
これはまずいぞ💦〜


そんなとき、トトロは私を守ってくれる・・・・・・・・・
そんなとき、ネコバスは私のもとにやってくる・・・・・・・



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ラベル:宮崎駿
posted by ヒラヒ・S at 19:05| Comment(4) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月20日

『サマーウォーズ』細田守監督のデジタルとアナログの接点

永遠の夏休み





評価:★★★★★  5.0点

涙が出るほど、感動的な映画でした。
日本のアニメは、これほど複雑で高度な物語を伝えられるという、その実力に、驚きます。

しかも、「アニメ絵=マンガ絵」という絵画表現は、抽象化とデフォルメにより、作り手の思いを記号的な明快さにより分かりやすく表現できると思います。
事実、こんな複雑で難しい話であっても、小学生の子供ですら、食い入るように見ています。

これは手塚治虫から始まる「マンガ=アニメ界」が、マンガ表現を子供向けだと規定せずに追及した結果、どんな物語でも表現できるレベルに高めてくれたおかげに違いありません。
その結果大人が見ても分からないような複雑な物語を、アニメ絵のおかげで幼児にまで届けることが出来るのだと思うのです。

そのアニメ表現力の豊かな結実の一つが、この作品だと感じました。

夏、信州上田、かつて真田家中の家来だった、伝統と格式の名家出身の憧れの先輩「夏希」とともに、夏希の曾祖母・栄の90歳の誕生日を訪ねた主人公。
その滞在中に、世界を破滅させかねない、現実と仮想空間の両方にまたがる戦いに巻き込まれる・・・・というようなストーリーです。


このアニメの魅力は、日本人だったら誰でも原風景として持っている、夏の親戚同士の交流のノスタルジックな姿にあると感じました。
その郷愁を生み出しているのは、その中心にいる曾祖母・栄・・・・・・・このキャラクターが、この映画の感動の源泉だと思いました。



この老婆はゴッドマザーとでもいうべき実力者で、清濁併せ持つ大人物。人の情に訴えかける力がスゴイです。
このひ―おばーちゃんのためだったら命を捨てても、役に立ちたいと思わせる、そんな説得力があります。
それは、この栄が心底から人を愛していて、関わる人々に無限の慈しみを持っているからだと感じました。

しかし、人間社会の中では人々を統べる力を持つ曾祖母・栄にしても、バーチャル世界に対しては無力だと自覚していたからこそ、デジタル的で仮想世界で力を発揮する主人公の健二をこの一族の後継者として選んだのでしょう。

これは、今後バーチャル世界がますます巨大化し管理が困難になっていくとき、この映画のように人間世界がつながる事と同時に、人間世界と仮想世界がコミュニケートすることが大事になるというメッセ−ジかと思いました。 

そしてこの図式は、どこか「コンピューターグラフィック映画」と「手書きアニメーション映画」の間にある図式とも似ていると思えるのです。

たとえばこの映画の「デジタル表現=CG」というアニメの形だけでは、感動し難いと思うのです。
もちろんCGでなければ表現できない得意な分野(正確なパースや立体表現など)があります。
しかし、それはあまりに正確で歪みがなく、自然界の形とは断絶した表現となり、冷たい印象になる様に感じます。

対して、手書きの絵はどうでしょう?


日本のアニメとその独特のアニメ絵はCGに置き換わらない情報があると思うのです。
それは自然界すべてが持っている「揺らぎ」に有ると考えます。 
そしてすべての生物はその「揺らぎ」にシンクロすることでつながり同じリズムを刻むとおもうのです。

あえて手書きのセルを描くことは不合理であるには違いありません。
その「揺らぎ」ゆえに決して同じ絵にならないということは、面倒で非論理的で感情的な、ホントに愚かな表現なのかもしれません・・・・・・・・・・しかし、それであるがゆえにデジタルに比べて「感動」という奇跡を起こせるのではないでしょうか・・・・・・

この映画では、人がデジタルとつながる可能性が描かれてはいますが、個人的には、人の気持ちを最大限に動かすのは、やはり人とつながる事で発生するマジックなのだと思いました・・・・・・

それは、「CGと手書きセル」の関係同様、面倒で大変なことかもしれませんが、確実に自らの中に感情の「揺らぎ」を、ひいては「感動」をもたらしてくれると思うからです・・・・・

今年は田舎に帰って、血のつながり、縁(えにし)の不合理なツナガリの中で溺れてみたい・・・・・・そんなことを想わせる、ノスタルジックな夏休みの物語です。


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ラベル:細田守
posted by ヒラヒ・S at 20:48| Comment(4) | TrackBack(1) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする