2016年07月03日

『ルパン三世/カリオストロの城』宮崎駿と「クラリス」が盗んだもの

宮崎駿とショパン



評価:★★★★★  5.0点

我輩は、ショパン三世。
今日は我が友人、ルパン三世の映画作品として2作目にあたる「カリオストロの城」について、義憤の余り文句を言わずに居れなくなって、出て来たしだいでアル。
実際この映画を見た時、 我が友ルパンのために怒りを禁じえなかったのでアル。

物語はヨーロッパの小国カリオストロ公国へやって来たルパンが、悪漢に追われるひとりの少女クラリスを助けるが、何者かによって再び連れ去られてしまう。ルパンはクラリスを助けるために、カリオストロの城に忍び込みカリオストロ公爵と対決するという話であった。

正直言って、映画は面白かった。
アクションといい、話のスジといい、笑いと言い、文句を言うべきところもないぐらい完璧だった。
これは、日本アニメの歴史に残る映画だとショパンの名にかけて断言しても良い。


しかし、それでも、この映画は真に、ルパンのための映画だといえるだろうか?いいや断じて、ルパンのための作品ではない!
ましてや、次元でも、五右衛門でも、峰不二子でも、ましてやムッシュウ銭形の映画でもないのでアル。

この映画の主人公は、間違いなくプリンセス「クラリス」のための映画だと言わざるを得ないのでアル!
「クラリス」という、ピュアで、イノセントな、バージニティーを持った、完璧な少女を巡る闘いを描いた物語なのでアル。

たしかにこの姫君「クラリス」は、ほんと〜に魅力的で、この永遠の乙女を巡って男達が大騒ぎするのも判るのでアル。
これは、私の偉大なる祖父ショパンが16歳の少女 マリア・ヴォジンスカに恋焦がれたように、「永遠のマドンナ」を心に宿した悲しい男達の物語なのでアル。



男達は、多かれ少なかれ心に「マドンナ」を追い求めるものかも知れん。
しかし諸君、それはルパンを描くために本当に必要だったのかと、我輩は問いたいのでアル。
結局、この映画は「クラリス」こそ主役で、その主役を盛り上げる脇役としてルパンが出演せざるを得なかった点に怒りを感じるのでアル。

このルパンをナイガシロにした映画を作った責任は間違いなく、宮崎駿とかいうアニメ作家のせいに違いない。
この男はルパンよりも、自分のヒロイン「マドンナ=クラリス」を描きたかっただけなのだ。
たぶんこの男も、我が祖父ショパンと同様、永遠のマドンナをいつまでも追いかける女々しい男なのでアル。
こういう現実には手が届かない「マドンナ」を夢見るような男に限って、メッチャクチャなロマンティストだったりするのでアル。
恥ずかしながらその最もいい例が、我が祖父ショパンなのでアル。
実際、祖父がマリアのためにロマン派と呼ばれるほど「ロマンチック」な曲を作り続けたのでわかるように、創造の原動力として強い力を発揮したりするのでアル。
たぶん、この宮崎という男はこの後も、ず〜っと「マドンナ」を追い求め、描き続けるのではないかナ。


ま〜そういう意味では、アニメ界のショパンと言っても良いようなもんだが・・・・・・・・・・
ちなみに、大林宣彦は日本映画界のショパンなのでアルが・・・・・・・・それはともかく。

実際そう考えてみても、やはりこの宮崎がルパンを「ないがしろ」にしたことを許すわけにはイカン!
映画で銭形警部が、ルパンがだれとかの心を盗んだとか言いおったがな・・・・・・・・・・我輩に言わせれば、宮崎駿こそルパンから主役の座を盗んだ大泥棒なのでアル。

エ〜ット、ゴホン!本当に許しがたいのであるからして、今日もその原因を作った「クラリス」を見〜よおっ〜と( ̄▽ ̄*)ポッ



え〜こんな妄想をするぐらい、この映画の「クラリス」は「ヒロイン」として完璧だと思う。
この「クラリス」の成功によって宮崎駿は、ヒロインを主人公とするアニメが成功するという手応えを手にしたのではないかと想像したしだいです。

そう思えばこの作品は、日本アニメにとって重要な一本なのではないかと思う。
さらに、この映画の持つ「おとぎ話の構造」が、ジブリ・アニメのファンタジー性の深い部分で通低しているように感じたりしました。



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タグ:宮崎駿
posted by ヒラヒ・S at 21:33| Comment(6) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月10日

思い出のマーニー

今、生きているということ。



評価:★★★★   4.0点

自分を嫌うということ。
それは、愛を受け取れなかったということ。
愛を受け取れないとは、愛を他者に与えられないということ。
愛を他者に与えられないとは、孤独になるということ。
孤独になるとは、生きれないということ。

しかし、今、生きているということ。
今、命が有るということ。
命が有るとは、愛は必ず在るということ。

人が愛なくして成長しないというのは、生物学的な事実なのだ。

たとえ、自分が愛に気づかなくとも。
たとえ、この世界で一人ぼっちだと嘆いていても。

一つの細胞が、分裂を開始した瞬間から、その成長とは愛によって育まれているという証明なのだ。

この映画の少女達のように、一人立ちするには幼く、誰かに頼るには大人すぎる時期に、迷い、戸惑い、自分を見失うときには、この映画を見て思い出して欲しい。

あなたが今、存在するということ。
そこに必ず愛が介在しているということ。
それが、今、生ているということ。


プリシラ・アーンの歌うマーニーの主題歌が、なかなか沁みます。


タイトル:「 Fine On The Outside」(うわべは元気に)

I never had that many friends growing up
(大きくなるまでに、友達は多くなかった)
So I learned to be Ok with Just me, just me, just me, just me 
And I’ll be fine on the outside
(それで、うわべは明るくしていられるから、一人ぼっちでいいって学んだ、一人ぼっちで 、一人ぼっちで 、一人ぼっちで )
I like to eat in school by myself
(私は学校で一人で食べるのが好き)
Anyway So I’ll just stay Right here, right here, right here, right here And I’ll be fine on the outside
(とにかく、うわべは明るくしていられるから 、それで、私はただここにいる、ここにいる、ここにいる、ここにいる)
So I just sit in my room after hours with the moon
(それで、私は月と一緒に深夜部屋に座っている)
And think of who knows my name
(そして思う、誰が私の名前を知っているのかと)
Would you cry if I died
(あなたは泣いてくれる、もし私が死んだら)
Would you remember my face?
(あなたは思い出してくれる、私の顔を?)

この切ない歌にも、他者(ヒト)を求める、問いかけがあります・・・・・

だからもう一度書きます。

あなたが今、存在するということ。
そこに必ず愛が介在しているということ。
それが、今、生ているということ。


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タグ:米林宏昌
posted by ヒラヒ・S at 21:23| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月06日

パーフェクト・ブルー

ジャパニメーションの証明




評価:★★★    3.0点

このアニメが表したのは、アニメが実写と同等の質のドラマを描けるという事実だったろう。

日本アニメは手塚治虫の「鉄腕アトム」から始まって、徐々にその表現の幅を広げて、子供の見るコンテンツから、ジブリを経て、甲殻機動隊に至っては完全に大人が見て楽しむアニメとして製作されたように思う。

そして、このアニメに至っては、ハッキリ子供が見てもつまらない「アニメ」つまりは「大人でなければ楽しめないアニメ」として製作されたと思われる。
実際のところ、アニメでなければ描けないという描写は、作中に見当たらない。
つまりは完全に実写としてリメイクが可能な作品なのだ。

それゆえアニメのインサイダーからは、真に大人の表現力を持ったアニメという評価を得たのではないか。

実を言えば、このシッカリとしたドラマを「生身=3次元」の役者で、カメラアングルやカット割りモンタージュもそのままで撮影した場合、どれほど映画的に訴求力が有るのかと考えてみたりする。
脚本やコンテなどの下書きから想像すれば、標準作ではあっても傑作とはいいがたいと思う。

となれば、実写となった場合に強い表現力を持ち得ないこの作品が、アニメとして表現されたときに、実写とは違う訴求力を保持しうるかという問題になるだろう。

そういう点で検証すれば、タレントという虚像と自己のアイデンティティに悩む少女であるとか、現代的なネット社会のストーカー行為であるとか、先見的な問題に着目しているとか、またラストの犯人の正体も、衝撃があるとは思う。
しかし、アニメだからその表現が強くなったかと問われれば、素直に肯定しがたい。

たとえば、この映画と良く似た「ブラック・スワン」を見た時に、ビジュアル的なインパクトは明らかに実写の方が強い。
それは、血の描写を取ってみても、実写の場合は現実世界の血と直結してイメージされるが、アニメであれば虚構であるとビジュアル自体が告げている時点で、インパクトが弱くならざるを得ない。

けっきょく、アニメという一種抽象化した表現に求められる作品としては、現実世界よりもファンタジー世界が、日常よりは非日常が相応しいという事を、この作品は証明しているだろうと思う。

そういう点で個人的には、この監督の後年の作品のような、アニメだからこそ可能な造形、表現が、この作品には乏しいと感じた。

それゆえ、実写映画になった時の評価と同様平均作とした。
さらに、物語世界と語られる表現とのマッチングを考えた場合、この物語はアニメとして語られるのが、最も相応しい選択だったのかと問うこともできる。
そういう点で、更に減点する事も可能かもしれない。

ただし、この監督の以降の作品を見てみれば、その表現の基礎として、アニメで実写化可能な物語を語れる技術をベースにしている事を考えれば、この監督のファンのみならず日本アニメの愛好者が見る価値は有ると思う。

それは、実写で表現できる事は、すべて日本アニメで表現できるという証明であるからだ。

そこで提案なのだが、「2001年宇宙の旅」をアニメ化する人はいないだろうか。
あの映画のラスト数十分こそ、アニメ的な表現が相応しいと思うのだが、いかがだろうか?


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posted by ヒラヒ・S at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする