2017年11月06日

黒澤清監督『カリスマ』難解映画を徹底解説/ネタバレ・感想・評価・批判

黒沢清『カリスマ』(感想・解説 編)



英語題 Charisma
製作国 日本
製作年 2000
上映時間 103分
監督 黒沢清
脚本 黒沢清


評価:★★★   3.0点



この映画を都合5度ぐらい見ましたが、正直に言えば十分理解できませんでした。
とりあえずドラマに自らの理屈をつけては見たものの、フラストレーションが残ることは否めず、こういう解釈があるという一例として書いてみようと思います。
そんな性格の文章ですからネタバレを前提としていますので、ご注意ください。

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映画『カリスマ』予告

映画『カリスマ』出演者

役所広司(薮池五郎)/池内博之(桐山直人)/大杉漣(中曽根敏)/風吹ジュン(神保美津子)/洞口依子(神保千鶴)/松重豊(猫島)/塩野谷正幸(部長)/大鷹明良(坪井達夫)/目黒幸子(華子)/吉田淳(西)/田中要次(杉下)/稲村貢一(青年)/永田正明(代議士)/戸田昌宏(若い刑事)
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映画『カリスマ』解説



この映画の題名「カリスマ」とは、人を惹きつける強い力を持つ、一種宗教的な絶対的な磁力を持った人物を指すという。

そして、この作品に登場する「カリスマ」とは一本の木であり、その木は強い毒性を保持するがゆえに、周囲の森の生態系を殺すと語られる。

chari-pos1.jpg更にその「カリスマ」が、今は廃墟となった病院を経営していた故人の院長が、中国大陸から持ち込んだのだと、その木を世話している桐山という青年は説明する。

この設定を受けて、個人的には「宗教」のアナロジー、更には旧日本帝国のような「宗教的な権威を元にした国家体制」を想起した。
その宗教的な権威自体、中東のイスラム教を主軸に置いた体制や、北朝鮮の独裁者をカリスマに祭り上げる国家など現代でも存在しはするが、概ね宗教の弱体化に伴って過去の遺物である印象が強い。

いずれにせよ「カリスマ」という木が表すのは「宗教的世界観」と、それに従って生きる人々を示していると、個人的には捕えた。

そして、この「カリスマ」という木を巡って、5つの勢力が争う。

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1つめは、上で述べた桐山で、彼は「宗教的世界観」の守護者として、他勢力と戦う。
それはある種の権威を盲目的に信奉する、人間社会にとっては有史以前から馴染みのある社会体制だ。

2つめは、中曽根という植林作業員や市職員・坪井が代表する「カリスマ」を伐採しようとする勢力だ。
この勢力が示すのは多勢でありながら右往左往する様子から、「民主主義」を表していると見たい。

3つめは、科学者・美津子が表す反対勢力で、彼女は「カリスマ」を悪と断じ、更にはカリスマを抱合した森全体を一度リセットしようとすらする。
つまりは「科学万能」の立場からは、「宗教」はこの世に存在してはならない存在だと語っているのだろう。

4つめは金と武力をチラつかせ、「カリスマ」を買おうとする猫島とその配下だ。
その姿は、経済原理、資本主義の要請によって、世界を併合しようとしているように見え、そこに「ファシズム」の姿を感じた。

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そして最後に残ったのが、この映画の主人公藪池だ。

彼は、基本的には全ての勢力と関わりながら、そのどの集団にも属さない、中立だと主張する。
事実、彼はカリスマを守る桐山と行動を共にしているところから、保守性を保持しているように見えもする。
だが子細にその行動を見てみれば、違う行動原理で動いていることが分かる。
冒頭の人質事件から、主人公は犯人も含め命を助けるという立場を取る。

それゆえ、木の「カリスマ」の命をも助けようとする。
思うに、彼が示すのは「生命の守護者」だったのだろう。

そして、この映画で語られる命題が明瞭に姿を現す。
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それは「カリスマ」を助ければ他の森の命が死ぬという矛盾だ。
その「生命の矛盾」を、「生命の守護者」である主人公が、どう解決するかがこの映画の主題だろう。
ここで言う「生命の矛盾」とは、映画中で科学者美津子が語る「生きる力と殺す力は同じこと」だという定義に尽きる。生存競争、弱肉強食が運命付けられた地球上の生命にとって、「生命とは他者を殺す者」だと不可避的に運命付けられているのだ。
それゆえ、主人公の全ての生命を助けるというのは机上の空論に過ぎない。

しかし、その「生命とは他者を殺す者」という過酷な運命を緩和するため、人間はあらゆる方法で解決しようと努めてきた。
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それが上で述べた、主人公以外の勢力が意味するものだろう。

「宗教」はその矛盾を神の意思という名の絶対で思考停止させ、「民主主義」は多数決でその犠牲を公平化しようとし、「科学」はその不可避が必然であると証明しようとし、「ファシズム」は「強者生存=弱者抹殺」こそ正義だと開き直る。
しかし、「生命の死」をその生命の一部である人間が理論付けることは、自己矛盾にも通じる困難さがある。

それゆえ、上の解決作として一番収まりが良いのは、人間ではない「神」の責任にすることだったろう。
つまりは「神」の理屈なのだから、その生命の死は人間が責任を負う必要が無い。


それゆえ、藪池は古い「カリスマ」が焼消した後、新たな「カリスマ」を見出そうとしたのではなかったか。

しかし、その新たなカリスマを世話しながら、主人公藪池は語る。
cari-boss.png「カリスマと森の木と両方を助けることは出来ない。」「答えは最初から一つだ、両方が生き延びるしか方法が無い。」「しかしどちらかが生きれば、片方が死ぬ。両方が生きようとすれば、両方が死滅する可能性もある。」「しかし、両方が生きようとするのだから、あるがままにする。全滅するとしてもあるがままだ。」と。
正直に言えば、この一連の言葉は矛盾に満ちている。
たぶん整合性を求めるのは無理だろう。
ここで語られたのは、矛盾を放置し、人為的に手を加えないという宣言なのだろう。

つまり言葉を変えれば、この映画が示すのは「命にある生と死の矛盾」をあるがままに放置し、そこに人間が関与しないと、語られているのだと解釈した。
考えてみれば、人がその矛盾に関与しようとして失敗したことは、「宗教」「政治的主義主張」が戦争や紛争の原因となり、「科学」がその破壊を拡大した事実で明らかだろう。
従ってこの映画の主人公は、自然が持つ生命のダイナミズムに対し、人為的干渉を与えず放置しようとするのだ。
しかし、人間が自然の一部に存在していれば、自然界に影響を与えずにはいられない。
ここに生じた矛盾を抜本的に解消する道が一つある。

「世界=自然界=宇宙の法則を回復」し、人が関与しない方法。

それは、人間がこの自然界から消滅することだ。

それゆえこの映画のラストでは、都市が燃えるシーンで終わるのだ・・・・・・・・・
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以下の文章には、当映画に関する悪評があります。ご注意下さい。

映画『カリスマ』批判・評価

正直、この映画の持つメッセージが充分理解できたか、我ながら心もとない。
しかし、ハリウッド的な明確なストーリーとテーマ設定を持たない映画は、その映画表現の曖昧さや不明確さがつきものだ。
関連レビュー:難解作品に関する一考察
『陽炎座』
鈴木清純監督の傑作映画
松田優作の耽美主義
そんな表現として不明瞭な映画は、実は驚くほど世に出回っている。
それは高校の同好会レベルの表現技術の拙劣さによるものから、デビッド・リンチやジャン・リュック・ゴダールなど作家性が強く、独自の表現コードを持つがゆえに理解が困難な映像作家まで、千差万別な姿で存在する。
関連レビュー:フランスの難解作品
『気違いピエロ』
ジャン・リュック・ゴダール監督
ヌーベル・バーグの不思議映画

その大家の自由な映画表現と、表現技術の低さゆえの説明不足は、下手をすれば「理解できない」という点で同列とすら感じられる。

いずれにしても、そんな「ストーリー=ドラマ」や「テーマ=哲学性」など、言葉に換言されるべき「物語性」が充分理解出来ない作品を前にした時、個人的な鑑賞の方法論がある。
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それは、美学的な判断だ。

かってに「美学的」と名付けているのだが、映像美や、編集技術など、「視覚的表現力=映像総体」とでも言うべき力を、個人的にそう呼びならわしている。

しかし、映像という視覚から入る非言語化された情報は、言語化可能なドラマやテーマという要素よりも、更に見る者の感性に左右される要素であるだろう。
従って、この映画『カリスマ』の言語的なメッセージを充分受け止めたとは思えない者が、この作品の映像印象を個人的にどう感じたかを語るという、大変いい加減な評価が以下の文章だと、お断りしなければならない。
その上で言うのだが、この映画の持つビジュアルは、個人的に強い印象を受けなかった。

更に正直に言えば、物語性が不明確で、映像的な快感を得られない映画に、好印象は持ちがたい。
その物語的な不明瞭さを越えても、訴えかけて来る映像的な力があるからこそ、ワケが分からなくとも見る者を魅了するのだろうと思う。

そういう点で、この「物語=言語性」への翻訳に困難を感じた映画に関し、映像的な魅力を感じたか否かが、個人的にはこの作品の価値を決める要素となる。
そして、この映画には、フェリーニや、デビッド・リンチ、キューブリック、タルコフスキー、ゴダール、テレンス・マリック、鈴木清純などが持つ、映像的な快感を個人的には感じられなかった。

それゆえ高い点を付ける事が出来なかったが、これは個人的な印象に基づく評価である事は言うまでも無い。

関連レビュー:難解ながら映像にインパクトを感じた作品
『自殺サークル』
血と死に満ちた映画作品
園子温監督の描く現代日本


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2017年11月03日

映画『カリスマ』難解作品の再現ストリー/あらすじ・ネタバレ・ラスト出演者

黒沢清『カリスマ』(ストーリー・あらすじ 編)



英語題 Charisma
製作国 日本
製作年 2000
上映時間 103分
監督 黒沢清
脚本 黒沢清


評価:★★★   3.0点



正直に言えば、この映画を十分理解できていません。
理解できないなりに、とりあえずストーリーを整理しては見たものの、何かもやもやしたフラストレーションが残ります。

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映画『カリスマ』あらすじ


代議士を人質とした、立てこもり事件を担当し、現場で交渉に当たる刑事の薮池(役所広司)。
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しかし、説得虚しく犯人は「世界の法則を回復せよ」というメモを藪池に残し、代議士に向けた銃の引き金を引いた。
cari-boss.pngそして犯人は突入した警官隊に射殺された。
しかし藪池は、事件で犯人と人質の両方死なせたこと、犯人を射殺しなかったことを、上司に詰問された。
それに藪池は、2人とも助けたかったからだと答えた。
それを聞いた上司は、呆れ顔で休暇を取れと言った。

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その言葉にしたがった藪池は、一人森へと入り込み植林作業員の中曽根(大杉漣)に助けられた。

共に寝起きをするうちに、森の一角に生えたカリスマという細い木に出会う。
何故か中曽根を初めとする森林作業員や市の環境課職員の坪井(大鷹明良)は、その木を抜こうとする。
すると、その度に、森の奥の今は閉鎖された病院に、院長の未亡人を看護しながら暮らす、桐山(池内博之)という青年が現れ妨害する。
cari-tach.jpeg藪池は桐山とカリスマについて話すうちに、共に行動するようになる。
桐山は、このカリスマという木が、大陸渡来の特別の木で、何千年も生きる木だと語る。
しかし、亡くなった院長の後を継いで世話をしても、弱っていくと胸を痛めていた。

桐山と共にカリスマの世話をするようになった藪池は、森の中に住む科学者・美津子(風吹ジュン)と知り合う。
美津子は、妹千鶴(洞口依子)と共に生活していた。
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美都子は森全体を考えると、カリスマが危険な木で、その毒で森の木を殺すのだと語った。

藪池は桐山のもとに戻り、美都子の話をすると、桐山は「強いもの勝つ」のがなぜ悪いと主張した。
その後も、カリスマの伐採に、市や植林作業員が挑戦するが、桐山と藪池はカリスマを守った。
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作業員の中曽根は藪池に対し「どっちの味方だ」と問うが、藪池は中立だと応えた。

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そんな中、藪池は美都子の妹千鶴から、美都子が考えているのが一度森の植物を全て死滅させ、森の植生を再生させる計画だと知らされる。

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更に市職員・坪池は、カリスマを高値で買うという、植物商人の猫島(松重豊)とその部下を呼び込んだ。
そして銃で武装した猫島達は、ついにカリスマを引き抜きトラックで搬出しようとした。
そのトラックを襲撃した、桐山と藪池はカリスマを取り戻すことに成功する。
しかし隙を突かれ、神保姉妹によってカリスマは横取りされ、ついに焼かれてしまう。
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燃えるカリスマに絶望する桐島。
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しかし、薮池には森の奥に巨大な木がそびえ立っている姿が見えた・・・・・・・・
(下にネタバレが有ります)

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映画『カリスマ』予告

映画『カリスマ』出演者

役所広司(薮池五郎)/池内博之(桐山直人)/大杉漣(中曽根敏)/風吹ジュン(神保美津子)/洞口依子(神保千鶴)/松重豊(猫島)/塩野谷正幸(部長)/大鷹明良(坪井達夫)/目黒幸子(華子)/吉田淳(西)/田中要次(杉下)/稲村貢一(青年)/永田正明(代議士)/戸田昌宏(若い刑事)
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これ以降

映画『カリスマ』ネタバレ

があります。ご注意ください。

(あらすじから)
藪池がその巨大な木を目指して行くと、そこには巨大な枯れ木があった。
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藪池は、もう一本カリスマが存在すると言い、その世話に精魂を込め初めた。

桐山もその作業に参加するものの、彼はこれはカリスマではないと去って行った。
また、美都子もそれは、森の生態系にはなんの影響もないただの枯れ木だと、切り捨てた。
そんな桐山と美都子に、藪池はいつでも戻ってこいと声をかけた。

美津子の妹千鶴は、森はイヤだと藪池に都会に連れて行けと訴えたが、彼が世話する木のもとに連れて行かれた。
cari-3people.jpg桐山からは、千鶴にとって意味不明な「生と死」「特別な木は無い」「あるがままにある」などと聞かされた。
そこに、坪井・中曽根・猫島の3人が現われ、猫島は一千万円で藪池の木を買うと申し出た。

その金を奪い千鶴は逃げ、坪井・中曽根はその後を追う。
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一方、中曽根の部下達は猫島の配下に虐殺された。

千鶴を追った坪井・中曽根は森の中を、いつまで経っても抜け出せず、中曽根は「地獄」と呟いた。

森で迷ったのは、千鶴も同様だった。
cari-kill.png金を持って、森をさまよって、桐山のいる病院の廃墟に迷い込んだ。
そして助けを求めた桐山に、日本刀で刺殺された。

桐山はその後、金を持ち森を後にし、すれ違った藪池に「あんたがカリスマだ」と告げた。

藪池が木に戻ると、美津子がいて、揮発性のボンベを必死に設置し爆破しようとしていた。
藪池はその作業を見守り、最後は自らボンベを銃で撃ちその木を破壊した。
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藪池は、これからが始まりだと言い、森を去ると美津子に告げる。
cari-roots.png立ち去ろうとした、薮池はふと足を止めた。
美津子を振り返る。
その破壊された木の下に、新しい芽があったのだ。

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その時、猫島が現われ「芽に触るな」と怒鳴った。


美津子を人質にしてその芽の所有権を主張する。

藪池は猫島を撃ち、怪我を負った猫島を連れて森を出ていく。

美津子に、芽を「好きなようにして下さい」と言い残して・・・・・・

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映画『カリスマ』ラスト・シーン

夜、森を抜けた藪池は、上司の刑事部長に電話をした。
刑事部長は「お前は何をした」と狼狽した声で問いかけるのに、藪池は「これから帰ります」と答え電話を切った。
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山の頂に立った藪池の眼下には、夜空を焦がし燃える都市が広がっていた。


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posted by ヒラヒ・S at 17:04| Comment(0) | 日本映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月31日

イーストウッド映画『許されざる者』西部劇神話の解体と再生/ネタバレ・ラスト・結末感想

1992年『許されざる者』(ネタバレ・ラスト 編)



原題 Unforgiven
製作国 アメリカ
製作年 1992年
上映時間 131分
監督 クリント・イーストウッド
脚本 デイヴィッド・ピープルズ


評価:★★★   3.0点



この映画『許されざる者』は、クリント・イーストウッド監督・主演で、アカデミー賞他多くの賞を獲得した作品です。
この映画は西部劇の描いてきた価値観を「許されざる者」と糾弾しながら、最後にそのメッセージを覆す語り口が、本当に鮮やかだと感心しました。

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映画『許されざる者』予告


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以降の文章に

映画『許されざる者』ネタバレ

があります。
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豪雨の中スキニーの酒場では、リトル・ビルが追跡隊に指示を下していた。
そこへ、ショットガンを携えたマニーがひっそりと姿を現す。
【意訳】マニー:誰がこのクソッタレの店の持ち主だ?お前、デブ、言え。/スキニー:ええと、私が、千ドルで酒場の権利を買って経営しているが・・・/マニー:そこからどいたほうがいいぞ。/リトル・ビリー:ちょっと、待て、止めろ!(マニー撃つ)/リトル・ビリー:何て卑怯なクソ野郎だ。お前は丸腰の人間を撃ったんだぞ!/マニー:ヤツは武装すべきだった。自分の酒場に俺の友を飾るんならな。/リトル・ビリー:お前はミズリーのウイリアム・マニーだな、女子供まで殺した。/マニー:そうだ。俺は女と子供を殺した。動くものは何でも殺した。そして俺は今、お前ビルを殺すためにここにいる。ビル、ネッドになぜあんなことをした。小僧どもはどいた方がいいぞ。/リトル・ビリー:いいか諸君、ヤツは一発しか残ってない。アイツが撃ったら、君らの銃を抜いて撃ち殺せ、この薄汚い悪党を!(マニー不発)不発だ!俺達を殺そう何て、このロクデナシ!(銃撃戦)/マニー:他の者を殺したいと、望んじゃいない。裏口から消えな。

激しい銃撃戦の末、リトル・ビルも撃ち倒し、マニーは酒場を出た。


映画『許されざる者』ラスト・シーン


【意訳】マニー:お前等、ネッドをすぐ埋めたほうが良いぞ!娼婦たちを傷付けたり、害を与えたりしないほうが良い!さもなければ、俺が戻ってきて、全員ぶち殺して燃やしてやる。
(マニーの農場・ナレーション)数年後、アンソニア・フェザー(亡妻の母)は、彼女のただ一人の娘の最後の安息所を訪ねるために、ホッジマン郡に困難な旅をしました。
ウィリアム・マニーは、子供たちと共に、ずっと以前に消えていました.... ある者は、彼の生地サン・フランシスコで、乾物商として財を成したとうわさしました。
そしてフェザー夫人は、彼女の一人娘が、泥棒で人殺しで悪名高く節度のない悪党の男となぜ結婚したか、何も手がかりは残されてませんでした。

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映画『許されざる者』結末感想



このラスト10分で、全てが明らかになったと思う。
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結局の所、この最後の銃撃戦の前は、全てこの最後のクライマックスのためのタメに過ぎなかったと、個人的には理解した。

つまりは、<解説編>で語ったように、この映画のラスト10分前までは、これでもかとばかり西部劇神話を突き崩し、非難し、笑いものにすらしているように見える。
そして、その代表として保安官リトル・ビルに仮託して、西部劇の男権主義の間違いを指摘する。

しかしその文脈「西部劇の否定」のメッセージを発する作品であったならば、この映画のラスト10分は決してこの終わり方にはならなかったはずだ。
「西部劇の否定」の文脈に沿えば、マニーはせいぜい散弾銃で店主とリトル・ビルを倒し、自分も周りから撃たれて倒れるというのが正しい。
そうすれば、西部劇に登場する保安官、悪漢、人種差別主義者が全て倒れ、この映画は「西部劇神話の否定」で幕を閉じるのだ。


しかし、この結末は明らかに別の物語を指し示している。

冒頭で銃もろくに扱えなかったマニーは、なぜ最後になって5人も1人で倒せたか?
このマニーが「許されざる者」なら、なぜ私的暴力を振るった「許されざる者」が死なずに、しかもサンフランシスコで成功したと語られるのか?
久々の拳銃射撃のシーン
【意訳】娘:パパは人を殺すのになれてるの?

結局のところ、この映画が語ったのは「西部劇神話」の否定ではない

再び言うが、映画の中で「西部劇」の要素、男権主義、人種差別、私的権力、私的暴力の乱用を否定し、「許されざる者」として語りはする。
それは保安官リトル・ビルが、ロサンゼルスの人種差別的な元警察部長に模されている事でも明らかだ。
この映画の最後10分まで、「西部劇」が育んだ価値観によって、現代アメリカ社会にまで続く歪みが生じたと、糾弾し続ける。

しかし、最後の10分で、他ならないその「西部劇」的私的暴力によって、その歪みを解消して見せるのだ。

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(リトル・ビルに非武装の人間を撃ったと責められ)
上:もし俺の友達を店の飾りにするんだったら、ヤツは武装すべきだった。

つまり、この映画が語るのは「西部劇の罪」を解消するのも、また「西部劇のヒーロー」だと告げているのだ。

それは、「西部劇神話」に問題が間違いなく含まれているにしても、アメリカ国民、アメリカ国家は「西部劇的な正義」無くして成立しないという宣言だったに違いない。
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このマーニーが私的な制裁を遂げ、更に人種差別や女性蔑視を諌めて去る馬上の姿の後方、間違いなくアメリカ国旗が映っているのがその証拠だ。

だからこそ、この映画はアメリカ国民にとってカタルシスを与えてくれる、久々の「古典的な西部劇」として受け入れられ支持されたのだ。

この映画が、「西部劇神話」の否定だけで終わっていたとしたら、決してこの高評価は得られなかった。

けっきょく、この作品は「西部劇神話」を否定し、そして最後で復活させる。

それゆえ「マニーの死んだ妻の母=女権」は、娘が人殺しで悪党の「マニー=男権」の中に、愛を見出したことの理由が分からない。

しかし女達にとっても、男達が男であることによって救われるのだと、このマニーは語っているに違いない・・・・・

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映画『許されざる者』評価



クリント・イーストウッド監督の演出力、その表現力はいつものごとく鮮やかで、見る者に浸みこむような静けさと、ラストの対比が印象的だ。
この映画の持つ、古典的な西部劇のスタイルに郷愁を覚えもした。
しかし、この映画は、やはりクリント・イーストウッドの保守的な志向が出た映画だと感じた。
また正直、最後の銃撃シーンも、唐突に銃の名手になったようで違和感があった。
更には、アメリカ人にとってはアイデンティティに関わるほど重要な「西部劇神話」ではあるだろうが、日本人の自分にとっては、そこまで強く訴求するものではなかった。
それゆえ、評価は★3.0点とした。


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posted by ヒラヒ・S at 17:28| Comment(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする