2017年03月12日

『気狂いピエロ』ヌーヴェル・ヴァーグの反米宣言・解説・あらすじ・ネタバレ・ラスト意味

ゴダールの懺悔



評価:★★★★  4.0点

初めて通った道がとても遠く長く感じられたのに、二度目にはさほどにも感じないという経験は無いだろうか。
このジャン・リュック・ゴダールの映画も「初めての道」と同じ迷走感や困惑を、見るものは感じるに違いない。
しかし、この題名の通り「気狂い」じみた混乱も、情報が整理されて慣れ親しんで見れば、二度目の道のように快適に歩む事が可能だと思う。
この映画の中に、個人的には明瞭な「道しるべ」を発見したと感じたので、そのことを書かせて頂きたい。

気狂いピエロ・あらすじ

フェルディナン(J・P・ベルモンド)は妻と娘を持つ家庭人。ある晩妻の付き合いでパーティーに行くことになる。彼はパーティに飽きて帰ったところ、昔馴染の女性マリアンヌ(A・カリーナ)に出会う。彼女の部屋で翌朝目を覚ますと、武器だらけの部屋に首から血を流した男の死体があった。しかしマリアンヌは日常通り、朝食を準備している。そんな部屋にまた別の男が入って来て、マリアンヌとフェルディナンは、ベランダから逃げ出し、車を盗みパリを逃げした。二人はマンガ“ピエ・ニクレ”と銃を持ち、マリアンヌの兄が待つ南仏へと出発した。途中で追っ手を混乱させるため、道端で事故を起こしている車の横に自分たちの車を並べ、火をつけ事故を偽装したが、その車に入っていた5万ドルの大金も一緒に燃やしてしまう。
それ以降も、金のない逃避行は続き、ギャング団の争いに捲き込まれたり、観光客に物語を語って小銭を稼いだりして二人は旅を続ける。海べリの家では無人島の漂流者のような自給自足の生活を送っていたが、マリアンヌは「こんな生活はイヤ」だと言い出す。そして街に来た時、アメリカの水兵相手に寸劇をして当座の費用を稼ぎ旅立とうかという時、彼女は知人の奇妙な小人に出会いアパートの一室に入り、小人をを鋏で刺し殺すし姿をくらました。フェルディナンがその小人の死体を発見した時、その部屋にギャングが現れ「マリアンヌはどこだ」と拷問される・・・・・・・・

(原題 Pierrot Le Fou/英語題 Pierrot the Madman/フランス/製作年1965/111分/監督・脚本ジャン・リュック・ゴダール/原作ライオネル・ホワイト)

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気狂いピエロ・感想・解説

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冒頭に書いたこの映画の「道しるべ」の一つは、映画序盤のパーティーシーンにあっただろう。

まずこのパ−ティーシーンには見逃せない、言葉がある。
それはまるで、ゴダール監督のこの映画に対する姿勢を代弁しているかのようだ。
「映画とは何か?」との問いに対し「映画とは、戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、そして死。要するに、エモーションだ」と答えている。
これは、映画をして現実に働きかけをするのだと言う宣言のように思える。
kitigai-piero-party.gif
このセリフを言うのが、ヌヴェルバーグ作家達から高く評価されていたアメリカの映画監督サミュエルフラー。
サミュエル・フラー(Samuel Fuller、1912年8月12日 - 1997年10月30日)は、アメリカの映画監督。
マサチューセッツ州ウースター出身。本名はSamuel Michael Fuller。17歳の頃から新聞社の犯罪レポーター、パルプ小説のゴーストライター、脚本家などの職に就いた。第二次世界大戦中、北アフリカからヨーロッパでの厳しい戦闘で勲章を得る。1949年に『地獄への挑戦』で監督デビュー。この時は、わずか10日間で撮影が終了したという。
自らの裏社会での経験、戦争中の困難な体験、そして米国南部での人種差別への取材などから、独特のエキセントリックな作風を生み出している。ほとんどの作品が独立プロダクションの中で低予算で早撮りで作られた。
アメリカではB級映画監督と見なされていたが、フランスなどでは高く評価され、後に米国本土でも再評価された。 晩年は、製作の本拠地をヨーロッパに移し、時にはヴィム・ヴェンダースやアキ・カウリスマキの作品などにゲスト出演した。
(wikipediaより引用)


さらにこのパーティーのシークエンスの、変化する色に注目してほしい。
それは赤・白・青と移り変わる。つまりトリコロール、フランス三色旗の色であり、このパーティーは当時のフランス社会を表していると感じられてならない。



彼ら壮年の男女は、車の話や、髪の毛の話を惰性の如く交わすだけだ・・・・
そんなフランス社会に対する、忌避感が主人公フェルディナンにあり、早々に疲れたと中座する。

kitigaipiero-mariannu.gifフェルディナンはフランス社会の保守層を嫌い、フランスの若者達と行動を共にする。
その象徴がマリアンヌであり、
フェルディナンは彼女と共に新たな地平を目指すが、それはフランス社会に背を向ける逃避行とならざるを得なかった。


では、フェルディナンはなぜフランス保守層から離脱しようとしたのだろうか?
kitigai-piero-car.jpgその理由は、マリアンヌの部屋に向かう車のカーラジオから流れるニュースが雄弁に語っていると思う。
そのニュースはベトナム戦争のニュースで”駐屯地の攻撃で、べトコンに115人の死者が出た”というものだ。


ここに、この映画のさらなる「道しるべ」が明瞭に提示された。
1965年当時アメリカが戦禍を拡大していた、ベトナム戦争が鍵だ。
ベトナム戦当時の、アメリカ政府とフランス社会に対するジャン・リュック・ゴダール的意思表明の映画だと、考えてみようというものだ。

そう考えて見ると、この映画にはベトナムに関わる記号がそこかしこに出てくる。
マリアンヌの部屋には死体があり、アメリカ軍用ピストル・コルト45が置かれている。
kitigai-pierrot-dead.jpgkitigai-piero-gun.png

さらに映画の中盤にはそのままずばり、ベトナム戦争の寸劇が繰り広げられる。
アメリカ人にベトナム戦争の劇を見せる二人

ノート:観光客は現代の奴隷だ/アメリカ船員:おいそこで、何やってんだ!/マリアンヌ:チクショウ!アメリカ人だ!/フェルディナン:大丈夫、計画変更だ。簡単な事さ。ドルをくれたくなるような劇を見せてやろう。/マリアンヌ:どんな劇?/フェルディナン:分らないけど、何か奴らがすきそうな物を。/マリアンヌ:分かった、ベトナム戦争よ。/フェルディナン:分った。ベトナム戦争だ。/ノート:アンクル・サムの甥VSアンクル・ホーの姪/アメリカ水兵:ああ好きだね、とってもいいよ、好きだ、いいよ、素晴らしい。/フェルディナン:俳優達に少しばかりドルを。/アメリカ水兵:知ってるかい、ベトナムはハード・・・/マリアンヌ:ピエロ、心配しないで。こうやって取るのよ/アメリカ船員:おい、何するんだ!/マリアンヌ:ケネディー長生きしてね!/フェルディナン:奴等をまいたぞ、裏に行こう/マリアンヌ:嫌よ、踊りに行くのよ。
板に書かれた落書きは、中国の毛沢東とキューバのカストロ議長、反米の二人の顔。

つまりこの映画は、フェルディナンが代表する当時のフランスの中核をなす世代が、ベトナム戦争、アメリカの暴虐に対して「ノン」を言わない状況を憂えた、政治的な作品だと解釈した。

kitigai-kiss.jpg実を言えばフェルディナンはマリアンヌから「ピエロ」と呼ばれる。
そのつど「違う、フェルディナンだ」と答えるクダリが、映画内で十回近く繰り返されるのだが、このピエロという言葉こそ「フェルディナン=フランス保守層」を端的に言い表した言葉ではなかったろうか。


この映画のフェルディナン達=ジャン・リュック・ゴダール世代とは、アメリカ文化にドップリとつかり「アメリカの正義」を信じてきた世代だったはずだ。
それは、ファシズムの圧制からの解放者として登場した、アメリカ合衆国こそ世界に平和と自由をもたらすと世界中が信じたのであるから、一人ジャン・リュック・ゴダールだけの問題ではなかったのだ。
当ブログ関連レビュー:
『勝手にしやがれ』
ヌーヴェルヴァーグ映画の歴史
アメリカ文化に対する愛着と反発を書いています。


そんなゴダール世代が、自らを形成してきたアメリカという国家にベトナム戦争で裏切られ、ここには、まるで己が「ピエロ=道化」ではないかという自嘲があるだろう。

kitigai-maria.gifそんなフェルディナンが愛したマリアンヌとは、フランスの若者達であると同時に、すでに不可分にアメリカと結びついた存在として現れてているように感じた。

それは、マリアンヌがしきりに語る「兄」とは、そのまま「アメリカ」を指すものだろう。
つまりは、もうアリアンヌ達若い世代のフランス人にとっては、生れ落ちると同時にアメリカ文化に囲まれ生きてきたのであり自らをアメリカ人と同人視しているという描写ではないか。


そんな、アメリカに裏切られた古いフランス世代と、すでにアメリカ人となってしまったフランス若者世代とに分断された、当時のフランス社会の悲劇の果てに、この映画の壮烈なラストがあったように思われてならない。

kitigai-jyann.jpgさらに個人的に思うのは、「ヌーヴェル・ヴァーグ」とは「ハリウッド映画=アメリカ文化」のフランス的文化変換だったと信じている。
この映画はそんな「ハリウッド=アメリカ文化」に裏切られたジャンリュックゴダールの恨み節であるに違いない。

同時に「ヌーヴェル・ヴァーグ」の反米宣言だと思えてならない。

Film.jpg
ま〜イロイロ書きましたが、けっきょく映画を見る醍醐味とは、来た事もない地を歩き「道」を見出す事以上の楽しみはないのではないでしょうか?

モチロンこの映画を「愛」で再構築することもできるだろうし「自然と文明」でも「戦争と平和」でも、見るものが自由に「道」を作れば良いと思うのです・・・・・・物語世界は無限の可能性を秘めて、目の前に広がっているのです。
その物語は、もはや自立的な「実存」を成しているのであり、よしんば作者であってもその世界を完全に読み取る事など出来ないし、たとえ作者がその世界の意味をどう語ろうと、それは作者の感じた一面に過ぎないと言い切っちゃいます。

だから映画ファン達よ、人の言葉にも作者の言葉にも惑わされず、迷わず物語世界に足を踏み入れよう!

そこに必ず、自分だけの道が、自分だけの映画が、発見されるに違いないのだから!

アンナ・カリーナの歌う「私の運命線」がカワイイ

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以降

気狂いピエロ・ネタバレ

を含みますので、ご注意下さい。
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kitigaipiero-gomon.jpgフェルディナンを拷問したギャング達が言うには、マリアンヌが仲間を殺し五万ドル持ち逃げしたという。
居所を知らない彼は解放されて、マリアンヌを探し歩いた。
やっと探しあててみると彼女は密輸団のボス、兄フレッドと一緒にいた。
彼女は、ギャングとの戦いにフェルディナンを巻き込んだ。
kitigaiPiero-batle.png
ギャングとの戦いの末奪い取った金を、マリアンヌと兄フレッドは持ち逃げした。
kitigaiPiero-Kiss.png
フェルディナンは二人がいる島へ、海を越え乗り込み二人を拳銃で射ち殺す。
kitigaiPiero-island.png

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気狂がいピエロ・ラストシーン

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フェルディナンは顔を青く塗り、赤と黄のダイナマイトを持って死へと向かう。
赤青黄とは色の三原色であり、全てを重ねれば太陽の光の色となる。
つまり、もともと自然の存在であったはずの人間が、思想や政治体制により分断される事で世界に戦いが生まれるのだという自嘲と悲劇を象徴するシーンだ。

ノート:芸術・死/フェルディナン:何と言うか・・・・気に病むこともない。(火をつける)俺はバカだ、クソ、クソ、死だ・・・・

上記のセリフに含まれた、矛盾と逡巡と狼狽は、人間存在が世界に不要だと達観しても、「死=人間の消滅」が本当に正しいのかと言う反問ではないだろうか・・・・・・

そしてフェルディナンの去った、静かな海にアルチュール・ランボーの詩『永遠』が、2人のセリフとして発せられる。
また見つかった
何が
永遠が
海ととけあう
太陽が


人がいなくなった跡には、分断や争いが消え、永遠の自然調和が広がっている・・・・・


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posted by ヒラヒ・S at 17:50| Comment(4) | TrackBack(0) | フランス映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月11日

2017年03月10日










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2017年03月10日

映画『プラトーン』ベトナム戦争のはらわた・ネタバレ・あらすじ・ラスト・感想

戦争の真実の裏側



評価:★★    2.0点

『プラト−ン』とは軍隊用語で「小隊」の意味。
監督・脚本はオリバー・ストーン。
アメリカ社会の問題を告発し続けている、社会派監督の描くベトナム戦争映画。
そして、実際ベトナム戦争に身を投じた、オリバー・ストーンの自伝的な物語であるがゆえに、力のある一本になったと感じる。


プラトーンあらすじ


1967年のベトナム戦争真っ只中に、クリス(チャーリー・シーン)は戦地へ派兵された。彼はマイノリティーと貧困層が、次々と戦争に投入されていく現実に怒りを覚え、大学を中退して志願兵としてベトナムの地に来た。最前線の戦闘小隊に配属されたクリスは、運ばれる死体袋に呆然とする。戦争の現実は苛酷で、兵士達は日々酒やドラッグで気を紛らわせている。
platone-member.jpgクリスが配属された小隊の2等軍曹バーンズ(トム・ベレンジャー)は冷酷非情、何度も死線をくぐりぬけた古強者で目的のため手段を選ばない。3等軍曹エリアス(ウィレム・デフォー)は戦場にありながらも、非合法な行動はしない正義漢だった。そんな13人の小隊は、ある日ベトコンの基地と疑われる小さな村に入り検査する。その途中バーンズは疑わしい村民を追求するあまり銃殺してしまう。バーンズの非道な軍法違反に激昂したエリアスは、彼に殴りかかり「軍法会議にかけてやる」と叫び、帰営してからエリアスは上層部に報告する。バーンズはエリアスを偽善者だと嫌っており、以後二人の対立は決定的となった。そんなある日、隊がべトコンと戦闘となり、エリアスは一人偵察に向かう。ひそかに、その後を追ったバーンズは、エリアスを銃撃する。

そして、バーンズはエリアスが死んだと伝え撤収したが、クリスはバーンズの仕業だと勘づいていた。
ヘリコプターで戦地を飛び立つ小隊は、ヨロメキながらジャングルから歩み出る、エリアスを発見するが、べトコンの銃弾にエリアスは倒れる。

バーンズに疑いの眼を向けるクリスに対し、バーンズは俺が現実だ、殺してみろと脅す。
そんな小隊に運命のべトコン総攻撃の日が巡ってくる・・・・・・
【プラトーン予告】

(原題 Platoon/製作国アメリカ/製作年1986/120分/監督・脚本オリヴァー・ストーン)

プラトーン受賞歴


第59回アカデミー賞作品賞受賞
第44回ゴールデングローブ賞ドラマ部門作品賞受賞


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プラトーン・解説・感想

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plato-po2.jpg戦争の実態が表現されていると、ベトナム帰還兵達も折り紙をつけているというこの映画は、間違いなくベトナム戦争に対するその後の映像表現を一変させた。
この映画に描写されているベトナム戦争の真実は、確かに異常で狂気に満ちている。

ここで闘う兵士たちは、何のために命がけで闘っているのか。

そう問わざるを得ない・・・・

しかし、何か違和感があった。

platon-helmet.jpgこの戦争を始めたアメリカ政府に対する憤りは、ベトナムの戦場で戦った兵士たちにとっては怨念に近いだろう。
戦場で兵士同士の内紛や無軌道な争いが発生するのは、すでに正義なき戦争とアメリカ国内でも叫ばれ、現地の兵達も同様の思いでいる以上、そのストレスとフラストレーションは軍内部で渦巻いていただろう。
(右ヘルメット文章:俺が死んだら上下逆さに埋めてくれ。世界が俺のケツにキスできるように)

そんな中、闘わなければならない状況に同情を感じた。
その現実は切実に伝わってきた。

それでも、やはり違和感が消えない。
 
platoo-po.jpg違和感の正体を確かめるために、多分5回以上みていると思う。
この映画は問う。
アメリカはなぜベトナムで闘わなければならなかったか。

アメリカ兵がベトナムでなぜこんなにも苦しまなければならなかったか。
アメリカ兵の真の敵は誰なのか。

この映画が追求する問題を、こう整理して違和感の理由に気がついたのだ。

ここで言うベトナム戦争の真実とはアメリカ兵にとってのみの真実だ。
USA-flag.pngここに描かれている軍隊の痛みとは、アメリカ軍の痛みだ。
アメリカ兵士の怨み。アメリカ兵士の怒り。アメリカ兵士の悲しみ。
アメリカ兵士の悲劇に対して、憤怒のありったけを込めて、アメリカ政府の責任を追及するその第一歩・・・・・

しかし―
ベトナム兵は?
ベトナム人はどこだ?
 
私は問いたい。

アメリカ兵よ、どこに行って、誰を殺したのか?
ベトナム兵の痛みが、自分たちの痛みより少ないと思うのか?

plato-viet3.jpegアメリカ兵に国土を蹂躙され、家族を殺され、家を焼かれ、枯葉剤を巻かれ、国家を二分され、同国人同士戦わされ、圧倒的近代兵器の前に立たされ、それでも自分たちの国を、友を、家族を守るために命を顧みず闘ったベトナム人とベトナムに対して、なぜこの映画は触れていないのか。

ベトナム軍の真実、ベトナムの民衆の思い、その痛み、苦しみはどこにも描かれていない。

まるでアメリカ軍の兵隊のみが被害者として存在している様に。

platon-viet2.jpgやはり、この描き方は間違っている。

これがアメリカ国内で、傷ついたアメリカ人の為のメッセージとして作られたとしても、いや、それであれば尚更ベトナム人の痛みを描くべきだった。
ベトナム戦争の問題を真に解明するためには、アメリカがベトナムを侵略したと言う事実を認め、ベトナム人にどれほどの苦痛を与えたかを検証することが、絶対必要だ。


アメリカ兵の苦しみはつまるところ、正義なくしてベトナム人を殺さざる得なかったところに在るのだから。

Film.jpg
この映画がさらに危険を孕むのは、ドラマという表現形式が主人公側に見る者の気持ちを取り込む=感情移入を促す仕掛けが在る点だ。

主人公に同化・同情してしまえば、客観的に判断できなくなるというその仕組みゆえに、映画はプロパガンダに使われてきた

この映画も同じ構造を持っていはしまいか。

それがプロパガンダと簡単に分る位の技術的な低さであれば、まだ危険は少ないが、この映画のように作り手側が本気で自らの怒りを表出し、尚且つ技術的に優れていれば見る物は作り手の望む答え「ベトナムで戦ったアメリカ兵達の悲劇」と言う文脈でしか見ることができない。

実際、作者が真剣に誠実に誠心誠意作れば作るほど、必然的に語られる内容が力を持ち、最終的にその答えが間違っていたとしても遠く広く伝播していってしまう危険を孕むのだ。

pla-orive.jpg
これがオリバーストーン監督の『7月4日に生まれて』であれば私は文句は言わない。
敵がアメリカ政府であることがハッキリしているからだ。

しかし、この映画の舞台ベトナムでの戦闘で苦しむアメリカ兵という描かれ方をされてしまえば、監督の本意ではなくともアメリカ兵を襲うベトナム兵に対する憎悪を生むのではないかと恐れるのである。

たぶんオリバー・ストーンは自伝的なこの映画で、その苦しみのあまりの深さゆえに客観的な視点、公平性を欠いてしまったのであろう。それほどアメリカ人にとって辛く苦しい事実だったのだと、この映画の不公平な叙述が語っている。

また、それは日本の侵略の歴史にも通ずる、どこか眼を背けたい事実かもしれない。
それでも、自らが蹂躙してしまった者達に対して真摯に詫びる所から、始めるしかないと思うのだ・・・・・・

plato-viet24.jpgそれゆえもう一度言う―
 アメリカ兵よ、どこに行って、誰を殺したのか?
アメリカ兵よ知るべきだ、ベトナム人は君達よりもさらに辛く過酷な戦いを強いられたことを。

その、ベトナム戦争におけるアメリカの侵略の罪を直視さえしていたならば、その後の湾岸戦争の混迷も、テロもなかったのではないかと夢想する。

若き日のジョニーディップも出ています。
死んでしまいますが・・・・・・・

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以降

プラトーン・ネタバレ

を含みますので、ご注意下さい。
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(あらすじより続く)
ベトコンの大攻勢により接近戦が始まっり、次々と倒れていく戦友たち。夜が明けた時には、クリスは傷つきボロボロだった。バーンズはそんなテイラーに襲い掛かり、絶体絶命と思われたとき爆弾が炸裂した・・・・

エリアス射殺のことを気づいていたテイラーは、バーンズに向けて怒りの引金を引いた。

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プラトーン・ラストシーン

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【テイラー・モノローグ】
今思うのは、振り返ってみれば、敵と戦っていたのではなく、同士討ちをしていたのだ。敵とは我々自身だった。今、私にとって戦争は終わったが、たとえ休んでいる時でも、それはいつでも存在する。エリアスがバーンズと戦ったのは、ラーが言う「魂の場所」のためだと確信している。時が過ぎて、二人の父親の子供のように自分を感じている。しかし、どうであれ、我々は再び築く義務がある。我々の経験を他の者に教え、そして、この残った命で善良なものと人生の意味を探すのだ・・・・・


このラストのモノローグが語るのは、ベトナム戦争の悲劇がアメリカ人の同士討ち、内輪もめにあったと語っている。

再度問おう―
アメリカ人よどこに行って誰を殺したのか?
その戦争には相手があったのだ。
ベトナム戦争での米軍の戦死者5万8220名に対し、ベトナム人の戦死者200万人という事実を、アメリカ人はどう考えているのだろうか?

実際その後のオリバー・ストーンの作品を見れば、世間の問題をリベラルな反権力の立場で追求して頭が下がる。
つまりは、そんなオリバー・ストーンであっても、戦争の主観的な体験は人の心の深部に刻まれ、人格に影響を与えるという証拠ではないだろうか。

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posted by ヒラヒ・S at 18:11| Comment(4) | TrackBack(0) | アメリカ映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする